不良少年はキリストの夢を見る

 昨日母親と一緒に叔母のスナックに行き3人でいつも通りの昔話や最近読んだ漫画の話、そして死刑制度に賛成か反対かという謎の話で盛り上がった後、カラオケで尾崎豊の歌を4曲歌った。最初「15の夜」を歌い、つぎに「ダンスホール」を歌った。しばらく休んでから「LOVE WAY」を歌い、最後に「太陽の破片」を歌った。尾崎の歌詞をなぞり、うめくようなかすれ声を出すたびにいつも、私は苦しい。だがこれは、忘れてはならぬ種類の苦しさなのだと思う。尾崎の歌は苦しいが、その苦しさを私の苦しさは、欲してきたのだから。それは罪深い。
 10代でデビューしたということもあり、最初のほうと最後のほうで尾崎の声質はかなり異なっている。好きなのは、どこまでも遠くに透き通って抜けていくような最初のほうの尾崎だが、個人的な親近感を覚えるのは、しゃがれた体で無理矢理にでも高いキーを叫ぼうとする、最後のほうの尾崎だね。
 歌詞や歌の雰囲気もぜんぜん違う。例えばさっきの「15の夜」や「ダンスホール」は最初のほうの曲で、確かにこれらは世の中への反発を歌い上げている曲ではあるのだけども、そこには「ためらい」や「とまどい」、かっこつけたカタカナ語でいうところの「アイロニー」がまだ、感じ取れるように思うんだな。
 誰にも縛られたくないから盗んだバイクで走り出したとて、結局は自由になれた「気がした」だけで、ささいなことでぐれはじめて学校をやめた女性に「金がすべてじゃないなんて、綺麗には言えないわ」と少し酔ったみたいにつぶやかせる。社会や世の中への強い違和感を前面に押し出すその裏側に、絶えず意識せざるをえない自らの「弱さ」を、「不安」を、一見さんお断りの秘密の場所に、尾崎はそっと、隠してくれていたのだと思う。
 「LOVE WAY」や「太陽の破片」になると、なんていうのか、少し宗教じみてくるんよね。弱さや不安が「これでもどうだ!」というむき出しの強度で叫ばれるようになる。「人間なんて愛に跪く」「昨夜眠れずに失望と戦った」と語る人間は、確かに弱いのだろう。けれどもその弱さは「自信満々」に語られる弱さなのであり、それが逆説的なことに私には「強い」ものとして、聞こえてしまうのだ。うーん、うまく言えない。
 要するに最後の方の尾崎には「イきり」が足りていないのよ。イキってない。不良性が足りない。ヤンキーはそんなこと言わない。世間に背を向けてるようで、そのじつ心の底では、世間の人びとみんなを救おうとしてしまっている感じが、イヤ。う、厳密にいうと、そうやって人びとを救おうとしてんのに最後は結局、自分が死んでしまってるのが、イヤ。その「死」をへんに「尊い」ものとか言って神秘化しようとしてるYoutubeのコメント欄とかは、もっとイヤ。死んではだめ。俺はライブというものが嫌いだが、尾崎のライブには、今でも行きたいもの。
 そのようなことを昔から考え続けてはいたのだが、最近、尾崎の死は「不良少年がキリストの夢をみてしまった結果」なのかもな、と、すこし洒落た感じに言い換えて、ふにおちた。無頼派の代表人物たる坂口安吾が、同じく無頼派の代表人物である太宰治の自死を受けて書いた文章『不良少年とキリスト』を読んだことが、そのきっかけだった。

 小川哲さんという大好きな作家さんが、むかし坂口安吾の研究をしていたことを知ったちょろい私は給料日の後、すこしだけ大きな本屋さんに行って、安吾の文庫を何冊か買った。タイトルに惹かれて『不良少年とキリスト』から読み始めると、それは戦後すぐに自死した太宰への追悼文のようなものであることが分かり、私は軽薄な気持ちを引き締めなおしてそれから、読むことにした。
 太宰の作品には「心理性」や「人間性」はあるが「思想性」が欠けていたと安吾は言う。では、ここでの「思想」とは何か。それは「もっとバカな。オッチョコチョイなもの」である。
 「キリストは、思想ではなく、人間そのものである。人間性(虚無は人間性の附属品だ)は永遠不変のものであり、人間一般のものであるが、個人というものは、50年しか生きられない人間で、その点で、唯一の特別な人間であり、人間一般と違う。思想とは、この個人に属するもので、だから、生き、亡びるものである。だから、元来、オッチョコチョイなのである。」(P227)
 ここで安吾はキリストを「神」ではなく「人間そのもの」の象徴として、その反対の場所に「50年しか生きられない人間」を置く。そして「思想」とはもっぱら後者から生まれてくるものなのであり、しかし太宰はそのことを、きちんと直視できなかったのだと言う。ついつい「人間そのもの」に向かって行こうとしてしまうのが、太宰の悪いクセなのであった。カッコつけず、オッチョコチョイでもよかったのにね。
 「思想とは、個人が、ともかく、自分の一生を大切に、より良く生きようとして、工夫をこらし、必死にあみだした策であるが、それだから、又、人間、死んでしまえば、それまでさ、アクセクするな、と言ってしまえば、それまでだ。
 太宰は悟りすまして、そう云いきることも出来なかった。そのくせ、よりよく生きる工夫をほどこし、青くさい思想を怖れず、バカになることは、尚、できなかった。然し、そう悟りすまして、冷然、人生を白眼視しても、ちっとも救われもせず、偉くもない。それを太宰は、イやというほど、知っていた筈だ。
 太宰のこういう『救われざる悲しさ』は、太宰ファンなどというものには分からない。太宰ファンは、太宰が冷然、白眼視、青くさい思想や人間どもの悪アガキを冷笑して、フツカヨイ的な自虐作用を見せるたびに、カッサイしていたのである。」(P227~228)
 人は自分の人生を生きるために思想を必要とする。いや、必死に生きていく中で自然と、思想がついてくる。それは確かに「悪あがき」だ。けれども、じゃあ「悪あがき」をバカにできる人がどういう人なのかというと、それは「人間そのもの」という「真理」の側に、立つことができる人なのだろう。だから太宰はカッコいい。だから太宰は「カッサイ」をあびる。けれどもこの「カッサイ」こそが太宰を、いつまでも「人間そのもの」の中に、閉じ込める。そしてそこに「思想」はない。何か遠くに向かって、バイクやら何やらで走り続けるだけの「不良少年」にも、「思想」はない。あるわけがない。「思想らしきもの」だけが、ある。
 「太宰も、不良少年の自殺であった。不良少年の中でも、特別、弱虫、泣き虫小僧であったのである。腕力じゃ、勝てない。理屈でも、勝てない。そこで、何か、ひきあいを出して、その権威によって、自己主張をする。芥川も、太宰も、キリストをひきあいに出した。弱虫の泣き虫小僧の不良少年の手である。」(P239~240)
 うん、とてもよくわかる、よ。太宰は「強く生きる」ことができなかった。とはいえ「弱く生きる」こともできなかった。だから「弱さ」をとことん突きつめてから最後、「強く」なろうとしたのだと思う。究極の「弱さ」が究極の「強さ」に反転するというキリストの夢を見て、信じてしまったんだと思う。「死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい」と書く時、安吾の顔はおそらく涙で濡れている。
 「人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
 生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんとかいう問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、ただなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみせなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。」(P240~241)
 最後、安吾は自分は「学問」のために戦うのだとした上で「自殺は学問じゃないよ」と言う。「私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということだけ教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。」(P242)
 唐突な「原子バクダン」だが、じつはこの「不良少年とキリスト」の最初のくだりでもそれは同じような唐突さで、書かれている。虫歯の痛みに悩む安吾が歯医者に行くところから、この文章は始まるのだが、そこで歯医者から「今に、治るだろうと思います」と言われ、安吾はイキる。不良少年のように。
 「この若い医者は、完璧な言葉を用いる。今に、治るだろうと思います。か。医学は主観的認識の問題であるか、薬物の客観的効果の問題であるか。ともかく、こっちは、歯が痛いのだよ。
 原子バクダンで百万人一瞬にたたきつぶしたって、たった一人の歯の痛みがとまらなきゃ、なにが文明だい、バカヤロー。」(P214~215)
 太宰はキリストの夢を見る不良少年だった。安吾はただの不良少年として、生きていこうとした人だった。不良少年から出発しながら、その空っぽさを埋めるようにして「原子バクダン」や「文明」や「自殺」や「人間そのもの」や「キリスト」なんかに向かうのではなく、あくまでも汚く醜くうざったい、みんなから嫌われ続ける不良少年の座に、留まることを彼は選んだ。威勢はよいが、情けない。虫歯に不平をこぼすだけの、しかしそれでも生き続ける、不良少年よ。
 
 『不良少年とキリスト』を読んだ後そのまま呆然とした調子で太宰の『斜陽』を本棚から取り、読み始めた。受験生の頃か大学の始めの頃に背伸びして、読んだ記憶はあった。だからあるだろうと思い探していると、あった。がむしゃらに読んでいると、「不良」がでてきて驚いた。「不良でない人間があるだろうか。」(P78)おかけで今日は、いつもより眠い。
 『斜陽』の主人公は「かず子」という不遇な女性。男性作家が不遇な女性の内面を吐露させるという構図から、私はとっさに尾崎の「ダンスホール」を、思い出してしまう。「あたいぐれはじめたのは、ほんのささいなことなの。彼がイカれていたし、でもほんとはあたいの性分ね。学校はやめたわ。いまは働いているわ。長いスカートひきづってた、のんびり気分じゃないわね。少し酔ったみたいね。喋りすぎてしまったわ、けど、金がすべてじゃないなんて、綺麗には、言えないわ。」俺は、たぶん、この歌詞が尾崎の曲の中で、いっちばん好きだな。やっぱ泣ける、な。
 かず子には「直治」という弟がいて、ある日かず子は直治の部屋で「夕顔日誌」と書かれた「ノートブック」を見つけ、中を開き読んでいく過程で唐突に書かれるのが、先ほどの「不良でない人間があるだろうか」という一節だった。
 「戦争。日本の戦争は、ヤケクソだ。ヤケクソに巻き込まれて死ぬのは、いや。いっそ、ひとりで死にたいわい。
 人間は、嘘をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。この頃の、指導者たちの、あの、まじめさ!ぷ!
 人から尊敬されようと思わぬ人たちと遊びたい。けれども、そんないい人たちは、僕と遊んでくれやしない。
 僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を、早熟だと噂した。僕が、なまけものの振りをしてみせたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。僕が小説を書けない振りをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。僕が噓つきの振りをしたら。人々は僕を、嘘つきだと噂した。僕が金持ちの振りをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。僕が冷淡を装って見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。けれども、僕が本当に苦しくて、思わず呻いた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。どうも、くいちがう。
 結局、自殺するよりほか仕様がないのじゃないか。このように苦しんでも、ただ、自殺で終わるだけなのだ、と思ったら、声を放って泣いてしまった。」(P81~82)
 なお子は一人孤独に、弟に寄り添う。
 「夕顔。ああ、弟も苦しいのだろう。しかも、途がふさがって、何をどうすればいいのか、いまだに何もわかっていないのだろう。ただ、毎日、死ぬ気でお酒を飲んでいるのだろう。
 いっそ思い切って、本職の不良になってしまったらどうだろう。そうすると、弟もかえって楽になるのではあるまいか。不良でない人間があるだろうか、とあのノートブックには書かれていたけれども、そう言われてみると、私だって不良、叔父さまも不良、お母さまだって、不良みたいに思われてくる。不良とは、優しさのことではないかしら。」(P95)
 この最後の一節なんかを読むと、俺は「文学的価値」みたいなものはさっぱり分からんが、この太宰治という人はやっぱり、すごい人なんだろうなという気がしてくる。飛躍した一節なのに、ちゃんとつながっている。これまでの話の全要約であり、これからの話の全要約でもある。そんなふうに思わせる「力」が、「凄み」が、この一説には間違いなく、あった。
 
 不良とは優しさ。俺もそう思う。けれどもそれゆえに、不良は何か大きなものに、すがろうとしてしまう。優しさを持たない人は、最初から自分さえ、あればよいのだから。「不良」の側にいる人は、世界の「良い」部分を遠くから眺め、憧れることができる。しかしいざ、そこに近づいてみると、人と人との容赦ない騙し合い、吐き気を催す偽善、自分と自分とがしゃしゃり出てくるプライドにまみれた世界が眼前にくっきりと、あらわれてくる。生きることに絶望した不良は「人間そのもの」という理想を追いかけ、最後、キリストの夢を見る。
 太宰に、尾崎に、「思想」はあったか。安吾に言わせれば、生きようとしていた彼らにはあったが、死のうとしてしまった彼らにはない、ということになるのだろう。「宗教」の言葉は確かにカッコいいが、その鐘が鳴らす響きと音色は、過剰なまでの普遍性である。普遍的な言葉とは、誰にでも語ることができる言葉だ。だから優しい不良少年は普遍的な言葉に依存していく中で徐々に、自らをとくだん必要のない人間であると、思い込むようになる。そうして苦しむ姿に周囲の「ファン」たちは不気味な「カッサイ」を、送り続ける。本人も周りも、人類の苦しみを一身に背負うことだけが救済であり、「思想」なのだとする、「バカな論理」を信じて…。
 思春期の頃の、つまり「不良」だった頃の私にとって尾崎は「神」だった。大人になったいまの私も、別に変わらず「不良」ではあるのだが、尾崎の語る「宗教」の言葉を、ことさらに重たいものとして受けとることは、もはやありえない。「弱く生きる」道を探し続けた尾崎の姿勢そのものを、笑って肯定できるような、優しい不良でありたいと思う。太宰に対する、安吾のように。

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