複数の文脈

 働いていると、絶対そんなはずがないのに働くことイコール自分の人生みたいに思えてきて、ほんらいは複雑で多様なはずの生活のエネルギーが、「仕事」というどてがい1本のタワーに効率よく、ぞくぞくと吸収されていくような脱力症状に襲われ、私含めた人類ひとりひとりのサステナビリティに思いを馳せる、仕事終わりのモスバーガーなり。みなさま、本日もお疲れ様です。アイスコーヒーうまい。
 人生の文脈が「仕事」だけになるのはよくない。「仕事」という唯一絶対の文脈と関係のない情報が文字通り「ノイズ」として、処理されるようになってしまう。でもそれでは、本が読めなくなっちゃうよ。読書によって得られる情報は単一の文脈から、逃れていくものたちばかり。おそらくは空気が、うまく読めないんだろうね。
 最近ちょっと働きすぎていること(当俺比)に危機感を覚えて本棚に積んであった三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるなるのか』という本を読んだら、以上のようなことが、書かれてあった。
 実際この本、ノイズだらけなのね。有言実行。「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という目的地に向かって、できる限りの寄り道をやめない、俺の運転みたいな(失礼)構成になっていて、とってもおもしろかった。たくさんの知らなかったことを、知ることができた。
 そう、この前の日曜日、知り合いの家でバーベキューをしまして、後から集合する人たちを俺の車に乗せて、無事に送り迎えすることができたのでした。到着があまりにも遅いので、事故に遭ってしまったのではないかということを真剣に、心配されたのでした。申し訳ねえ。

 それにしても、みんな、恋愛の話をするのが好きだよねえ。いや、俺も好きではあるのだよ。恋愛の話があってもぜんぜんいいと思うよ。ただ、全体の割合の多くを、占めすぎてはいないだろうか。数ある話題の1つ、でよくないか。
 なぜ恋愛していると本が読めなくなるのか、もありそう。そのことだけが生活の指針になりがちなトップツー。それが、仕事と恋愛。
 私も決して他人事ではなく、特に中学生くらいの私にとってはマジで他人事ではなく、どういうことかというと、当時の私の毎日はかなりの部分、恋愛という文脈に支配されていた、ように思う。y=axのaが恋愛だと、たとえxに何を入れたとしてもyには常に恋愛の色が、ついてしまうのだった。xに例えば「花火」を、代入してみる。
 中学生の私にとって、花火といえば夏祭り。夏祭りの本番は、もろもろのイベントが終わった後での、ゴタゴタでグズグズな、たむろの時間。自転車を置いている近くの公園に行くと、同じ中学の連中が惰性でその場に、留まり続けている。こういう時の会話って、なんか知らんけど、めちゃくちゃ楽しいのよね。
 花火が、かわいそう。花火の最中に俺のこころ、ここにあらず。花火の後のことだけを、考えている。いま・この瞬間の花火ではなく、その後のことを、未来のことを、心配している。じつは花火は、俺のような人でなしたちによって一方的に、無言で、利用されていたのだった。
 そういう過去もあって、あと、たぶんもともとそこまで、みんなほど花火が楽しめないタイプの人間なのもあって、バーベキュー後に予定されていた花火大会に対しては、少しだけ不安な気持ちを抱いていた。花火との距離、めっちゃ近いらしいで!、とのこと。みんな、お酒を飲んでいるからか、ずっとテンションが高い。俺は帰りにみんなを、家まで送んなきゃいけない。だからお酒が飲めなかった。みんなと溶け合うようには笑えなかった。

 人生の文脈を1つに限定すること。仕事を特権化する。恋愛を特権化する。あるいは、読書を特権化する?
 対象への完全な没入は、その人の視野を狭くする。言うまでもない。にもかかわらず、私は、そのような没入の最中にいる、あっぷあっぷした、余裕のないはずの人の表情や、語りを、どこか魅力的で、かっこよいものだとも思ってしまう。なぜだろう?

 しばらく残業が続いても多少は構わないと感じる主な理由が、上司というか代表の人がとてもかっこよく、尊敬できる人だからです。仕事もできて、多趣味で、優しい。ふだんから新書とかノンフィクション系の本を読む人で、この前「佐藤くん小説好きって言っとったけど、なんかオススメある?」と訊かれたから、いくつかオススメを伝えると、大した時間もたたないうちに「読破したで」という連絡がきて、おお~と思っているうちに続けて「でもやっぱり小説、なにがおもしろいんかよくわからんわ(笑)」と言われた。人の好みに興味はあるけれども、かといって安易に迎合するわけではない。他人の軸を尊重しつつ、自らが築いてきた軸にも誇りを持つ。しなやかな心の体幹。「めっちゃ俺!」か「めっちゃ他人!」のいずれかに、ぶんぶん振り回されがちな私のバランス感覚を、静かで落ち着いた正常値へと、どうか、近づけておくれ。参考に致します。
 「仕事はほどほどに」が、その人の口ぐせ。仕事が人生における特権的な文脈と化すことを、その人は嫌う。実際その人は、複数の豊かな文脈の上を同時に、生きることができている。だから憧れる。だから、かっこよいと思う。
 ただ、その人の昔の話を聞いていると、それはそれは仕事の鬼。仕事中毒。仕事教の信者。仕事という圧倒的な文脈がその人の生活全体を関係づけ、解釈し、コントロールしていた。仕事イコール、その人の人生だった。文字通りの。「だからこそ、仕事はほどほどに、って今は思う」だからこそ、かあ。
 何かにとことん没入し、そこでの灼熱の日々に魂を焼き焦がされ、命からがら何とか、日常に復帰することができた人だけが持つ、語り口があるのだと思う。特権的な文脈に日々を支配され続けた経験は、決して無駄にはならない。なるべきでない。
 私は私の人生に無駄があったと思いたくない。そして、誰かの人生にも無駄があったと思いたくない。特定の何かや、特定の誰かにとことん、没入する時期があってもよい。その上でやっぱり没入って、ほんとの幸福にはつながらないのかもね、と気づき、じゃあ、と、実際にその後、複数の文脈を持てるようになった人は「単一の文脈に支配されていたかつての私」と、「複数の文脈の上を歩けるようになった現在の私」の、2つの文脈を生きることができるようになる。特定の対象への、強烈な没入の体験は、その人の心にいつまでも、残り続ける。よくもわるくも。それを「恥」ではなく、ある種の「誇り」として、現在の私のどこかに、組み込んでやりたいと思う。文脈が増えていくこと、それが豊かさの条件なのだとすれば、どんなに愚かで、忘れたいと思う自分の過去であっても、ゴミ箱にぽいっと放り投げるよりは、確かに存在した文脈の1つとして、こっそりとでいいから自分の抽斗の中に、とっておいてやりたいと思う。

 俺はこの花火が好き!うちはこの花火が! 花火の好みも人それぞれなのだなあ、などとその場の熱気にそぐわない冷めた態度のままで、気がついたら始まっていた。そしていつに間にか、花火を楽しんでいた。終わってほしくない、と思っていた。花火にくっついているもろもろのイメージなんかはどうでもよく、純粋な花火それ自体を、自然と、体験することができていた。嬉しかった。花火についての文脈が新たに1つ、書き足されることになった。
 みんなを順に家や駅まで送って、最後車で2人きりになったタイミングで、リラックスした様子の友人が、腕を組みながらボソリと呟く。「花火なあ…」
 分かるぜ。俺にもまだ、その文脈が生きてるぜ。話を聞くぜ。俺「だからこそ」、聞ける話があるぜ。複数の文脈があってよかった。過去の俺がまだ、いてくれてよかった。いまこの瞬間の俺が、過去の俺を、追放していなくてよかった。私の文脈は、複数あんだよ。あんだ、なんかもんくあっか。


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