言葉の人であればあるほど

 平均して2週間に1回祖父母の家に行って、畑作業の手伝いをしている。厳密には、手伝いとは言えないかもしれない。役に立てていないから。器用なことはできず、力作業がほとんど。それでも、良い。頭をからっぽにして、ただただ体を動かすことだけに集中すること、いや集中することすらも頭の外に放り出して、なにかの「モノ」へ、なにかの「カタチ」へ、自分をつくりかえていくこと、あるいはつくりかえることより前にあったはずのぼうっとした世界の一部に、勘違いした私のこわばりを、ぶじにげんきに、帰してやること。
 もうすぐたけのこほりが始まる。1年を通して最も好きな手伝いがこれ。当たり前だが、たけのこがとれる場所には竹がはえている。竹に魅入る。うっとりさせられる。竹の造形を眺めていると、どうして竹はこのようなカタチを、色をしているのか、とつい、考えこんでしまう。竹の節の規則性、しかし自然のなかで生きる以上避けられない、細やかな傷つきの数々、1本の竹に魅入ったあとでまた前を見れば、後ろを見れば、どこであれ視線を移せば、また同じような竹がいくらでもはえている、その分身性のざわつき、底なしの広がりを持つ風景の充実が、私の五感を圧倒する。文字通り、言葉にならない。竹との真顔のにらめっこがひと段落ついて、竹のことが少しだけ分かった気になるその瞬間、竹たちの中身がまったくの空洞、スカンスカンであったことを思い出す。たまらない、と感じる。じいちゃんはそのあいだ、せっせとたけのこを収穫している。私はやはり、手伝いに来ているわけではないのだろう。
 作業が終わってお昼ご飯を食べたら本棚の前に立つ。立って、本たちの背表紙をぐるぐると見渡す。それぞれを読んだときの記憶がモザイク状に、再生される。自分の体積がじんわりと広がっていく。いま・この瞬間だけの自分の連続体が、過去の折々を畳み込む重層的な私へと、積分されていくような、統合されていくような感覚に、私はよろこびを覚える。またも真顔で、にらめっこをしている。今度は本と。
 しばらくすると特に意味もなく、本たちを並び替え始める。これまで少し顔が見えにくかった本たちを、見えやすくなる場所に移してやる。そうして体を動かしていると今度は、いくぶんか意味のあるしかたで、本を並び替えようとする。最近読んだ清水亮さんの『教養としての生成AI』という本が、まずは目に入る。偶然に。「結局、俺ばかだしコンピューター音痴だからよくわからんかったな~また読も」と思って、手に取りやすい最上段に移す。「生成?あれもよく分からんかったなそういえば」と、大学時代に読んだノーム・チョムスキーの『生成文法の企て』という本を探し、見つけた後、また同じように最上段に移す。このあたりで自分が「生成」という言葉の意味を、そもそもよく分かっていなかったことに気づき、驚く。生成…?
 去年とある読書会で半年以上かけて読んだ森岡正博さんの『生まれてこなければ良かったのか?』という本の中にあった「反出生主義の最大の敵は生成である」という一節が、とつぜん脳内に去来する。千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』という個人的に好きな本のことも。そういえば、丸山眞男さんの『忠誠と反逆』の中にある「歴史意識の古層」という文章で「生・成・変・化」のすべてが、昔の日本語では同じ「なる」と読まれていた、とかって書かれてたっけ…。ほかにも…。
 結果的に分野のバラバラな本たちが「生成」という言葉だけを拠りどころにしてぎこちなく、よそよそしい表情で、一列に並ぶことになる。しかしそれぞれに登場する「生成」という言葉はおそらく微妙に、場合によっては完璧に、異なる使われ方をしている。ある本がべつの本に言及したり、互いの文章を引用し合ったりすることもない。それなのに、これらの本たちがうっかり「生成」という言葉を使ってしまったばかりに、私という気まぐれな独裁者に目をつけられ、引っ越しを強制させられ、見知らぬ本と隣り合わせに暮らす生活を、余儀なくされてしまった。
 そこでの「生成」の「意味」には一切のコンセンサスがないのだから、あるとすれば「生成」という「形」もしくは「音」だけだろう。無意味にポンっと投げ出されるような、内実を欠いた言葉の「形」もしくは「音」だけを根拠にして、空虚に連帯させられる本たち。ほんらい出会わないはずの背表紙たちが出会うその理由が、「生成」の「フォルム」に依存しているという、意味にとっての居心地の悪さ。「生成」のゲシュタルト崩壊。
 
 山のなかを歩いている最中、なんでもない場所で立ち止まりしゃがみこむと、数えるのも億劫になるほどの大量の葉っぱが、乱雑に放置されていることに私は気づく。1枚1枚を拾ってよおく見ていくと、それらの葉っぱのかたちの、かたちの内側に引かれた線たちの存在感が、圧迫感が、私に眩暈を起こす。「葉っぱ」という言葉の檻に押さえ込まれてきた「葉っぱなるもの」たちによる、根元的な、存在の声…。
 葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉…。田舎の片隅にある硬筆教室で、文字たちはそのカタチを取り戻していた。私の手の一存によって生み出される文字たちに、意味なんてなかった。意味というまとまりで眼差してくる人間への復讐が、その怨念が、ゲシュタルト崩壊の根源にあるのではなかろうか?ふだん慣れ親しんだ文字たちの表情が、急速に解体され、のっぺらぼうになっていく。いや、それでもしばらく凝視していると、そこにはまた別の表情が、たちあらわれてくる。どうして君のことに気づけなかったのだろう、俺は。
 子どものころと比べて格段に疎遠になった自然と、手書きの文字。家でも、職場でも、散歩中も、「意味」が世界を占拠している。剥き出しの無意味を覗き見てはならない。私はどこか、世界全体のゲシュタルト崩壊を恐れている。意味の豊穣がたんなるカタチに切り詰められていくことを、やせ細ってしまうことを、恐れている。意味はつぎつぎに生成されていく。巨大な沈黙を避けるためだけに。
 無意味な、巨大な沈黙?オヤジギャグ。ダジャレ。それは会話における意味のやり取りを中断させ、会話における「音」の次元を再び、浮かび上がらせるだろう。なんの関連性もない言葉のペアが隣に並ぶ。だから何なんだ。意味を大事にする文明人はそう言う。子どものころ抑圧された野蛮な次元はどこかで回帰するのだ。必ず。今度はオヤジ的なものとして。もちろん、その結果おとずれる無様な沈黙に対しては真摯に誠実に、責任を取らなければならないが。
 そういえばじいちゃんが「オヤジギャグ」を言ってるところ、見たことない。かと言って、「意味」の世界にどっぷりつかった人であるとも思えない。
 たけのこほりの最中、私が「どうやってたけのこ見つけとるん」と訊くと「たぶんこっちじゃ」とつぶやき、歩き始める。「さすがのじいちゃんもこうやってあてずっぽうでとっとんか。そりゃそうよな。こんだけ広いんやし」などと思っていると「これじゃ~」と言うのでじいちゃんの足元に目線を移すと、確かにあるのだ、立派なたけのこが。一度ではない。「たぶんこっちじゃ」と「これじゃ~」を何度も繰り返す。大小さまざまなたけのこたちがぞくぞくと、収穫されていく。何度訊いても「理由を言えと言われてものお、よお分からん、適当じゃ適当」とだけ返される。
 「たけのこって竹の茎なんよね?なんかそういうこととか考えたりしとる?もしかして」
 「おお、そうやったかいのお。さすがけんすけくん、物知りじゃ」

 本を読んだり知識を蓄えたりすることに、いかほどの意味があるのだろう。私の人生と全く無関係に竹は生え、たけのこも生える。頭を働かせずとも、体が覚えているのだろう。世界に、自然に、密着している。私はその密着を羨ましく思うと同時に、恐ろしくも思う。私には距離が必要なのだ。意味という距離が。言葉という距離が。
 それなのに、私は言葉を必要としてしまう人なのに、言葉の前に帰ろうとする文章を読むのが好きなのは、いったいなぜなのだろうと思う。そんな度胸もないくせに、言葉に生かしてもらっているくせに、言葉がすべて消え去った後の世界の神秘に、ふと驚きたいと思ってしまうのは、いったいなぜなのだろう。突然、九鬼周造という人の文章を思い出す。
 「私は今は偶然性の誕生の音を聞こうとしている。「ピシャリ」とも「ポックリ」とも「ヒョッコリ」「ヒョット」とも聞こえる。「フット」とも聞こえる時もある。「不図(ふと)」というのはそこから出たのかもしれない。場合によっては「スルリ」というような音にきこえることもある。偶然性は脅威をそそる。thrillというのも「スルリ」と関係があるに相違ない。私はかつて偶然性の誕生を「離接肢の一つが現実性へするりと滑っていく推移のスピード」というようにス音の連続で表してみたこともある。」(「音と匂ー偶然性の音と可能性の匂」)
 私は例えば、このように世界を感じている人に憧れるが、そういう人にこの文章について話してみたところで「さすがけんすけくんはものしりじゃのお」と適当に返されるだけ。この、どうしようもなく埋めがたい距離。意味の外側に、意味で以てアクセスしようとしている私の不誠実は、本物の心には決して届いてくれない。いや、ひょっとすると「言葉の外側で生きている人」という認識自体が、つねにすでに言葉に汚染されてしまっている私による、壮大な勘違いなのかもしれない。たけのこは竹の茎のことである。そんなことは知らなくて良い。感覚的に、適当に、たけのこは収穫される。そのころ私は、竹の表層に魅入っているだけ。
 
 
 
 
 
 


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