読む人の中動態

 考える。読む。そのいずれでもない、読んでから考える、があると思う。いや、読みながら考える、かもしれない。考えることは大事。ここを疑う余地は、少なくとも私の中にはない。いまひとつ分からないのが、考えることのために読むことは、いったいどれほど大事なのだろう?というもの。
 ふつうに考えて、読まなくても、考えることはできる。当たり前だ。読んでない人がみんな、考えてない人なわけがない。長い時間をかけて人と喋っていると、この人こんなにいろんなこと考えて生きてるのか、ぜんぜん気づかんかった、とある時、必ず思う。私より読んでない人が、私より考えている人であるなんてことは、あまりにも当たり前のことすぎて、いちいち言う必要を感じないほど。
 ただ、読むことでしか、考えられないことがある、とも思う。優劣ではなく、役割分担。読まないで考えることでしか考えられないことがあり、読みながら考えることでしか考えられないことがある。両方がある。私はそう思う。
 だけど、読みながら考える、って、なんだか分かりにくい。なんとなく、考えることは能動的、自立的で、読むことは受動的、依存的なイメージがある。両者は対立している、というイメージ。私自身の中にすら、ある。
 そんなことない!とそうなのかも…を、行ったり来たりしている。答えは出ない。けれども、少しずつ進んでいる。考えたり、読んだりする中で、「読みながら考えること」についての言語化が、イメージ化が、少しづつ進んでいる。
 最近、國分功一郎さんの『スピノザ』という本を読んだ。シンプルなタイトルでカッコよい。副題もカッコよくて、ついでに俺好みだった。それは「読む人の肖像」。読む人としてのスピノザ。を読む國分さん。を読む俺。

 スピノザの肩書は「哲学者」である。哲学者とは一般に「考える人」であると言われる。その印象は決して間違いではない。けれどもそれ以上に、哲学者とは「読む人」でもある。國分さんが最も影響を受けた哲学者の一人であるスピノザも、当然のことながら「読む人」なのだった。そのようにして、この本は進んでいく。
 では、スピノザは何を読む人だったのか?この本で特権的に参照されるのが、「デカルト哲学」と「聖書」の2つである。
 むろん、これらをスピノザがどう読み、解釈し、自らの思考に関係づけたのかをはっきり、私なんぞが理解できたはずがない。次は最低限スピノザの本を横において、この本を読み返す必要がある。
 それでも、この本を読んでいて感じたのが、スピノザという人は実に楽しそうに、自由に、読みながら考える人だったんだな、ということ。
 デカルトの「私は考える、故に私は存在する」を「私は考えつつ存在する」に書き換えたり、聖書の解釈を「与えられる」ものではなく「一人一人が自らで解釈するべき」ものだと言ったりする。
 余談を一つ。大学で聖書のとある箇所を読んでいた時に、クリスチャンの友人とその箇所について話題になったことがある。私が読んで思ったことを話すと「いやでもそれは違うらしいよ」と言われた。「???」と思ったことを覚えている。
 私は未だに、誰かの解釈を「違う」と言うことが何を意味しているのか、よく分かっていない。私たちのそれぞれはそれぞれの、全く異なる人生を送っているはずであり、それゆえ違った人生を生きる者たちからは当然、違った解釈が出てくるものなのではないか、と思っているからだ。解釈が「違う」のは自明であるのに、わざわざ「違う」と言う必要はないし、それ以上掘り下げられることもなく、会話が終わったりするといよいよ、意味が分からなくなる。どうして「違う」解釈にたどり着いたのかを遡っていくことこそが、「考える」ことの喜びなのではないか?
 
 スピノザにとっての真理は「公共的ではあり得ない真理」だったと國分さんは言う。私はここを最も興味深く読んだ。
 私たちはどのようにして「真理」に到達するのだろうか?おそらくはまず、何が真理で何が真理ではないかの「基準」を、必要とするのではないかと思う。「これこれの基準に照らすと真理と言える」というような、基準。
 けれども、その基準がどうして正しいと言えるのだろうか?考える人であれば、当然そのように考える。結果、その基準が正しいと言えるための別の基準が、持ち出されることになるだろう。その別の基準がどうして正しいと言えるだろうか?その別の基準が正しいと言えるためのさらなる別の基準が…。このような発想は原理的に、いわゆる「無限遡行」の問題を含んでいる。では、「無限遡行」の罠を回避しながらそれでも「真理」を追い求める態度とは、いったいどのようなものなのだろうか?
 「スピノザはこのことを説明するにあたって、『知るためには知っていることを知る必要はない』という些か奇妙な言いまわしを用いている。これはかみ砕いて説明すると、何かを確実に知っているならば、そのことだけで確実性は明らかであるのだから、自分が確実に知っているということをさらに加えて知る必要はないという意味だ。
 何か当たり前のことを述べているようにも思えるかもしれない。しかし、ここで立ちどまって考えてみなければならない。もし確実な知を求める探求の中で、それに照らせば真理であると確認できる標識を求めていたとしたら、実のところ我々はその時、確実に知るために、自分が確実に知っているということを知ろうとしていたのである。というのも、既に得ている認識を、真理の標識に照らして確実であると確かめようとしていたのであるから。」(p91~92)
 國分さんはスピノザとデカルトの方法を対比させる。デカルトの方法は「懐疑」や「説得」を基盤にしている。「なぜこれが真理だと言えるのか?」という懐疑から、どうしても離れることができない。デカルトのさまざまな哲学は何よりも、すべてのものを疑ってしまう自分自身を説得するためにこそ、作られている。最終的には「真理」を保証する唯一絶対の基準を、デカルトは発見した。と思いこんでるだけだと、スピノザは思った。スピノザは説得されなかった。ごまかされなかった。
 スピノザにとっての真理とは、「公共的ではあり得ない真理」だったと國分さんは言う。デカルトが真理を追い求める過程で何らかの「基準」を必要としたのに対し、スピノザはそれを必要としなかった。「公共的」であるためには誰にとっても当てはまる、明白な「基準」がなければならない。スピノザがそういう「基準」を拒否したということはつまり、スピノザにとっての真理とは「公共的ではあり得ない真理」だったと、言うほかなくなる。
 「真理を公共的に共有することはできない。真理を公共的に示すこともできない。真理とは、自分でそれを獲得した時に、真理自身によってそれが真理であることを告げられる、そのようなものでしかありえない。
 このような真理観を密教的と評することもできよう。有り体にいえば、そこに見いだされるのは、分かっている人は分かるが、分かっていない人には分からないのが真理だという考えである。何よりも重要なのは、これがスピノザによって任意に選択された真理観ではないということである。観念の外側に真の基準を打ち立てようとする試みは必ず失敗するのだから、これは、我々が真理の標識を斥けて妥協なく考察するならば、どうしようもなくそこに至るほかない、そのような結論なのである。」(p94)
 誰かにとっての真理、私にとっての真理、はありうる。あの人にとってこれこれは真理なのだ、と私が認めたからと言って、その真理を私も同様に、信じなければならないというわけではない。あの人にはあの人ならではの必然性があり、私には私ならではの必然性がある。直感に反する言葉遣いだが、必然性とは複数の在り方が、認められるべきものなのだ。

 『スピノザ』という本を読んでいる最中に私が何度も想起したのが、『暇と退屈の倫理学』という本のことだった。これは私が初めて読んだ國分さんの本であり、いわゆる「哲学」の面白さを初めて学ぶことができた本でもあった。大学一年生の終わりにタイトルに惹かれ、近くの古本屋さんで手にした。数年前の文庫化に伴い、いくつか文章が追加されているらしい。近いうちに文庫版を買って、一から読み返してみたいと思う。
 『暇と退屈の倫理学』は、私にとって驚くべき本だった。なんていうのか、哲学とはそんなことまで考えてしまうのか!という驚きだった。第一章で引用される、次のパスカルの文章が、最も印象的だった。
 「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。」(『パンセ』)
 暇や退屈について考えるというのは、人間の個別的な問題について、一段メタレベルから考えるということである。
 私たち人間はさまざまなトラブルを引き起こす。人間はどうしてこんなにも愚かなのか?と嘆かざるをえないほど、数えきれない問題が、私たちの世界にはひしめき合っている。それらには通常、個別の切り口から個別の処方箋が、出されることになる。例えば、国際紛争の問題解決については軍事や国際政治、あるいは該当する地域についての専門知が参照されるだろうし、DVの問題解決については法律や精神病、あるいは貧困についての専門知が参照されるだろう。
 國分さんはそれらの専門知に十分な敬意を払ったうえで、ひょっとすると、私たち人間が抱える最大かつ根本的な問題は、「暇」と「退屈」の問題、つまり「部屋でじっとしていればいいのに、そうできない」ことにあるのではないか?と問う。
 これは明らかに極論である。けれども、それを経由することで初めて、自らの考えを前に進めることができる、そういうタイプの極論がある。必要な極論というものがある。「暇」と「退屈」について考えることは当時の私にとって間違いなく、必要な極論の一つなのだった。
 かつての私は今よりもはるかに、休日に一人でいることが耐えられない人間だった。私は人と一緒に遊ぶことが好きだったが、それはもしかしたら、私自身の「退屈しのぎ」の一環に過ぎないのかもしれなかった。誰かに対して「よかれ」と思ってやったことも、それは私が「一人でいられない」ことに端を発する、「気晴らし」の一つに過ぎないのかもしれなかった。いざ何らかのトラブルが発生すると、私は躍起になって相手のここが悪い、せっかくこれこれしてやったのに、などと思い相手に伝えていたが、それらはすべて、私自身が抱える「暇」と「退屈」の問題なのかしれない。そう思うことができた。あらゆる個別的な問題についてメタレベルに立つ「暇」と「退屈」の問題という「極論」は、私の人生全体を冷静に、振り返らせることを可能にした。
 
 『暇と退屈の倫理学』は、全部で七章から成る本である。「暇と退屈の原理論」「暇と退屈の系譜学」「暇と退屈の経済史」「暇と退屈の疎外論」「暇と退屈の哲学」「暇と退屈の人間学」「暇と退屈の倫理学」の合計七章。全体を通じてさまざまな角度から「暇」と「退屈」の問題について掘り下げられていることは、一目瞭然な目次たち。
 しかし今回『スピノザ』という本を読み返して思い起こしたのは、「暇」と「退屈」の問題それ自体ではなかった。むしろそれらの探求を終えた後で、ある意味唐突に訪れる本書の「結論」のところで書かれた、次の文章だった。
 「いまこの結論を読んでいるあなたは本書を通読した。本書を通読することによって、暇や退屈についての新しい見方を獲得した。暇や退屈がなぜ人を苦しめるのかを理解し、それらを人類史のなかに位置づけ、暇や退屈を考えるうえで注意しなければならない諸点について知識を得、暇や退屈について論じられてきたことを知り、〈暇と退屈の倫理学〉が向かうべき方向を見た。
 それこそが〈暇と退屈の倫理学〉の第一歩である。自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間においては、何かが変わるのである。本書を読むこと、ここまで読んできたことこそ、〈暇と退屈の倫理学〉の実践の一つにほかならない。
 だから、正確には、あなたは既に何事かをなしている、と言うべきかもしれない。あなたはいまこれから〈暇と退屈の倫理学〉を実践し始めるのではなく、もうその実践のただなかにいる。」(p338~339)
 結論とは、それまでの内容の正しい要約である。そう思い込んでいた私は、この結論の始まり方に、いささか当惑した。それは「この本の中身についての結論」ではなく、「この本の中身を読んできたあなた自身の結論」を、指し示そうとしていたからだ。それはまるで、とあるゲームのエンディングで急に姿を現した作者が、プレイヤーである私に語りかけてくることによって、それまでのゲームと現実の境界線が揺らぐような、何が起きたんだ?何が起きているんだ?と、気分の高揚が止まらなくなるような、不意打ちの体験だった。
 今回、その箇所をもう一度読みたいと思い、結論部分だけを読み返していると、驚いた。というより、笑った。先ほどの引用の直後に「この点を敷衍し、残りの結論への橋渡しをするために、一人の哲学者の考えを紹介しておこう」と言われるのだが、その一人の哲学者が何を隠そう、あのスピノザだったからだ。何回か読んだはずなのだが。やっぱり細部はどうしても、忘れてしまっているもんなんだねえ。
 「スピノザという哲学者がいる。彼は真理やその理解についてとてもおもしろいことを考えた。私たちは何かを理解することがある。『分かった!』と思えるときがある。そのとき、もちろんその対象のことを理解したわけである。たとえば、数学の公式の説明を受けてそのような感覚を得たのなら、その公式を理解できたわけである。
 しかしそれだけではない。人は何かが分かったとき、自分にとって分かるとはどういうことかを理解する。『これが分かるということなのか……』という実感を得る。
 人はそれぞれ物事を理解する順序や速度が違う。同じことを同じように説明しても、だれしもが同じことを同じように理解できるわけではない。だから人は、さまざまなものを理解していくために、自分なりの理解の方法を見つけていかなければならない。
 …大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術を、ひいては生きる術を獲得させるのだ。」(p339~340)
 『スピノザ』を読んでいて私が最も興味深く感じたのが、スピノザ特有の真理観、つまり「公共的ではあり得ない真理」の在り方についての箇所だった。そして読書中に頻繁に想起されたのが『暇と退屈の倫理学』の結論部分だった。当初はなぜだか分からなかったが、読み返してみるとそりゃそうなるわ、というふうに思えた。なぜなら『暇と退屈の倫理学』の結論は、國分さんがスピノザの哲学に影響を受けた結果書かれたものであり、その延長線上に、『スピノザ』という本は書かれるからである。私の連想の仕方は、偶然によるものではなかったのだ。
 「本書の結論についても同じことを言わねばならない。…論述を追っていく、つまり本を読むとは、その論述との付き合い方をそれぞれの読者が発見していく過程である。本書は暇と退屈について述べてきた。しかし、同じことを同じように説明しても、誰もが同じことを同じように理解するわけではない。
 …読者はここまで読み進めてきた中で、自分なりの本書との付き合い方を発見してきたはずだ(もしそれが発見できなかったなら、本書をここまで通読するのは難しかったであろう)。それが何よりも大切なのである。それが暇と退屈というテーマの自分なりの受け止め方を涵養していく。そうやって開かれた一人一人の〈暇と退屈の倫理学〉があってはじめて、本書の結論は意味をもつ。」(p341~342)
 読むことも考えることも、結論それ自体に大した価値はない。実際、國分さんはこういうことを言っている、スピノザはこういうことを言っている、と誰かに伝えたところで、せいぜい「へ~」としかならないだろうし、自分の声を自分の耳で聞いた後の私自身も「つまんなそうなまとめ方やな」としか思わない。
 重要なのは「過程」である。読むことの最中で、考えることの最中で得られる気づき、自分の認識が変わりつつあることへの気づきこそが、循環する私たちの思考の運動を、どこか別のほうへと開き、導いてくれるのだ。

 読むことと考えることに、大した差はないのかもしれない。國分さんの文章を読んでいて次第に私は、そう思うようになっていった。実際、私は『スピノザ』という本を読むと同時に何か別のことを考えていたし、ちょっとした散歩の時、何かについて考えるのと同時に例えば『暇と退屈の倫理学』を読んだ時のことを思い出したりしていた。私の中で読むことと考えることは、密接に絡み合っている。純粋な読むことだけはありえないし、純粋な考えることだけもありえない。読みながら考えているのであり、考えながら読んでいるのである。
 この結論は明らかに正しいものだと、今の私は思う。けれども、ではどうしてかつての私は、読むことと考えることを対極の行為として、捉えていたのだろうか?いや、正直に言って、今の私の内心にもいくらかは、そのように捉えたいという気持ちが残っている。なぜだろう?何が私に、そのような誤った認識を強いるのだろうか?
 ここで私が思い起こすのが、またしても(!)國分さんの『中動態の世界』という本である。

 『中動態の世界』では例によってさまざまな論点が掘り下げられる。その中で私が最も記憶に残っている章が、「意志」の概念を徹底的に批判する第5章「意志と選択」である。
 國分さんはハンナ・アーレントという人の文章を引用しながら、「意志」と「責任」の違いを次のように表現する。
 「選択がそれまでの経緯や周囲の状況、心身の状態など、さまざまな影響のもとで行われるのは、考えてみれば当たり前のことである。ところが抽象的な議論になるとそれが忘れられ、いつの間にやら選択が、絶対的な始まりを前提とする意志にすりかえられてしまう。過去から地続きであって常に不純である他ない選択が、過去から切断された始まりと見なされる純粋な意志にとり違えられてしまうのだ。」(p133)
 ここで言われている内容は、誰もが様々な状況で、経験したことがあるものなのではないかと思う。
 例えば、学校でクラス対抗の長縄大会がある。クラスで声の大きい人たちは軒並み、その大会での優勝に意欲を燃やしている。ぶっちゃけ私自身は、そこまで興味がない。運動することが好きでも得意でもないし、ひっかかって転ぶと痛いし。
 しかしそんな中、ある日クラスで「今日から本番まで毎日、長縄大会に向けて授業終わりに練習するぞ!」という呼びかけが始まる。例によって声の大きい人主導によるものなので、なんとなく、参加しなければならない雰囲気がつくられていく。親切と迷惑の区別がついていない人たちがクラスの一人一人に対して「○○、参加できるよな?」と訊いて回る。
 どうしようと怯えながら順番を待つ私はなんの結論もまとまらないまま、ついに訊かれることになる。「○○、参加できるよな?」
 私は濁り切った自分の心を振り払うようにして、「うん、できるよ!」と答える。その人はすかさず「さすが○○!ありがとー」と破顔一笑し、くるりと別の方向を向いて、また同じ質問を投げかける。
 迎えた練習当日の朝。よくよく考えなおした結果、みんなには申し訳ないのだけど自分は練習に参加したくないな、と思った。嫌な思いをするのは目に見えている。実際、勉強や趣味など、やらなければならないこともある。私は意を決して、昼休みに相談をもちかけることにした。
 明らかに不満を隠せないような表情に変わったその人は、はっきりとした口調で、私を問い詰め始める。「えええ、でも、あんとき参加できるって言ったやん、そりゃあねえわ」と。
 私は困ってしまう。いや、確かにあんときはそういったんだけど、なんてうか、あんときはそう言わなきゃって空気があったというか、でも後で一人冷静に振り返ったら、やっぱり違ったんよ…。
 これは私にとって、とてもとても苦い思い出。私は当時、この話における「声の大きい人たち」の一員だった。完全な「親切心」からクラスの一人一人に声をかけ、「参加できるよ」という「意志表示」を引き出し、それをもってみんながとるその後の行動を、縛ろうとしていたのだ。
 実際には、ある人の「参加できるよ」はそのように「言わされた」かもしれない。にもかかわらず、いったん「参加できるよ」という「意志表示」が確認されたならば、それは「絶対的な始まり」として、つまり「その人自身が純粋に意志したこと」として、理解されてしまうのである。國分さんは意志を「無理矢理にそれを過去から切り離そうとする概念」とも呼んでいる。
 
 むろん、そのような「選択と意志の混同」は、現在の私とて他人ごとではない。いまだに無意識にそれを行い、誰かを傷つけてしまうこともある。さまざまな影響関係の結果に過ぎない「選択」を、そういうものから絶対的に切り離された「始まり」として、「意志」として捉えてしまう悪癖から抜け出すことは、それほど簡単なことではない。
 私は、この國分さんによる純粋な「意志」への批判を、純粋な「考えること」への批判として、読み返したいと思う。
 「自分自身で考えること」を称賛する流れは、「自分自身で意志すること」を称賛する流れと、どこか似たところがあると私は思う。そこでは、考えるであれ意志するであれ、「私」に至るまでの諸々の影響関係がすべて、無かったことにされる。現在の私と、それをつくりあげてきた過去の世界とが、切断されてしまう。純粋な「始まりとしての私」が、捏造されてしまう。
 こうも言える。「選択」は「過程」を含むが、「意志」は「過程」を含まず、その「結果」だけを見る。ある人が一つの選択に至るまでには、外からは決してうかがい知れないさまざまな葛藤、思考がある。それらに思いを馳せることができない、あるいはそれがめんどくさいと感じる人は、「選択」を「意志」へとすり替える。そうすることで過程を忘却し、結果だけを根拠にした「尋問」を、開始することができるようになるから。
 國分さんが言ったように、「能動/受動」の図式は「意志」の概念を好む。けれどもそれが見落としてしまうのが、「選択」の複雑さ、つまり「中動態」の複雑さである。あるいは「読むこと」の複雑さとも、言えるかもしれない。

 『中動態の世界』の第8章のタイトルは「中動態と自由の哲学ースピノザ」と題されている。この章でのカギとなる概念が「変状」というものである。この「変状」は元々ラテン語で「affectio」と言われる。國分さんによれば、それは「能動」と「受動」のいずれでもない仕方で自らが変化していく、そのようなあり方を示している言葉である。
 「たしかにわれわれは外部の原因から刺激を受ける。しかし、この外部の原因がそれだけでわれわれを決定するのではない。この外部の原因はわれわれのなかで、affeciturという中動態の意味によって指し示される自閉的・内向的な変状の過程を開始するのである。」(p251)
 絶対的な始まりとしての「意志」など存在しない。私たちは常に既に、世界の因果関係の中に埋め込まれた存在だからだ。では、私たちに「自由」はないのか。そんなことはない。私たちのそれぞれは、自らがどのように変状しているか、その固有性を認識できている限りにおいて、「自由」な存在である。「自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である」とスピノザは言う。私の考えでは、ここでの「本性」は「変状」と互換可能である。私たちすべてに当てはまる「本性」などというものは存在しない。「変状」の体験のみがある。そしてそれは、複数存在していなければならない。変状の必然性は、さまざまに存在していなければならない。
 「スピノザは本質を具体的に考えた。だから自由になるための道筋も、一人一人で異なる具体的なものになる。」(p261)
 大学生の頃、分からないなりにこの章を読んでいた私が線を引いていた数少ない箇所。何か当時の自分に、響くものがあったのだと思う。
 読む人の自由。読む人の中動態。國分さんの本たちは良い意味で、バラバラな主題を扱っているものだと思っていた。関心範囲の広さに、圧倒されていた。それはそれで間違いない。しかし同時に、國分さんの本たちを「読むこと」という軸で読み返してみると、色んなことが見えてくるのではないかと思う。最後にもう一度だけ、『スピノザ』から。
 「ある哲学体系への批判は、ほとんどの場合、その哲学体系が言葉にしていない諸前提への拒絶反応に由来するものだ。逆に、ある哲学体系を信奉するとは、その体系によって自らを支配されてしまうことである。スピノザがここでやっているのはそのどちらでもない。スピノザは読んでいる。受け入れつつも支配されず、体系の難点に目をやりつつも体系の中に浸る。」(p42)
 スピノザは読んでいる。國分さんも読んでいる。そしておそらく國分さんは、読者に対しても「そのように読むこと」を勧めている。私たちは本を読む時、ただ本を読んでいるだけでなく、いかにして本を読むのかを学んでもいるのだ。それはおそらく、純粋な考えることだけでは得られない、何かの変状の体験である。能動/受動の関係に収まりきらない、中動態的な体験である。


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