廃墟はいまだに現在

 親戚に大学に進学したものや、県外で就職したものがいないせいか、私が東京の大学に進学したのはとにかくスゴいことなのだとされる。大学進学のために猛勉強したことよりも、岡山とまったく異なる文化や、ライフスタイルから成る東京都という場所で、毎日を生きぬいていけたことのほうが褒められるのは不思議というか、親戚ならばまずは猛勉強のほうを褒めなさい。褒めてください。
 平成生まれの人間からすると、東京と地方の間にかつてほどの明確な違いはなく、昭和生まれの人たちはその違いをどういうわけかいつまでも、過大評価しているだけのようにも思える。実際、私の妹はもうほとんど岡山弁を喋らず、じいちゃんと話す時には私の通訳が必要なほどである。重症だ。
 とはいえ、東京と岡山ではいろいろなことが違うのも事実。それがほんとうに東京と岡山の違いであると言うことには、さまざまな慎重さが必要になるのだろうが、そのような細かい視点をいったんかっこにいれて、あくまでもざっくりとした個人の「印象」として思うのは、やはり両者にはさまざまな違いがあったな、てこと。一番は口の悪さとかに、なるのだろうかね。
 その上で、しかし私は、両者の違いをそれほど大げさに強調したいと思わない。その違いを過小評価するに足るべつのレベルでの「世界が変わった」体験が私の中でいつまでも、生き続けているからだと思う。「世界が変わる」ために必要なのは近いとか遠いとかいう「距離」の問題ではない。今日と同じ日が明日も続くはずだという信念が音をたてて崩れる体験、つまり「廃墟」の体験が、必要なのである。

 私はもともと、その地域の中では比較的多くのお金や土地を持つ「恵まれた家」の初孫として、生まれた。硬筆、習字、スイミングという王道の習い事に通い、それ以外の日も学校から帰ったらまずは宿題を終わらせ、その後ばあちゃんセレクトの漢字ドリルと計算ドリルに、取り組まなければならなかった。あとベネッセもしていた。ドドドド田舎でそんなに勉強していたのは俺くらいのものだったので、同級生がせいぜい20人しかいないような学校のテストではいつも、一番をとっていた。もちろん、これは井の中の蛙というやつで、しかし井の中の蛙は井の中の蛙で、けっこう楽しくもアルよ。
 なんか色んな礼儀作法みたいなのも教えられた。なんでそれらが必要なのかは分からなかったのだけど、まあそんなもんかと思い教わったものを学校で話すと、先生から「スゴい!」と褒められたりもした。ゲコゲコ嬉しい。いまではもう忘れた。
 周りには山があり、川がある。家族や友達みんなが、自分を褒めてくれる。勉強はちょっとだけつらかったが、それでも学校で一番をとるのは気持ちがよかった。こんな日々が一生続けばいいな、と思った記憶はないが、一生続くのだろうな、とは思っていた。
 ある日の夜中、私と妹は最低限の荷物と一緒に車に入れられ、母の運転で家を出た。私は8歳、妹は4歳だった。車に乗る前のことはあまり覚えていないのだが、乗った後のことは色や匂いがつくほどの鮮明さで、強度で、再演される。
 わけも分からないままで窓越しから眺める空は、初めて見る星だった。きれいだな、と思った。BGMはこれまでの俺が遠くのほうで、壊れていく時の音だった。でも、泣き叫んだりはしなかった。笑ったりもしなかった。たんに、高揚していた。車の中の時間は、ずっと続いていくように感じられた。永遠のように感じられた。
 私はいまでも冗談ぬきで、この光景を3日に1度は思い出す。夢にもでてくる。いま自分の身に何が起きているのかなんてことを、わずか9歳の子どもに分かったはずがない。しかし間違いなく「何か」が起きていることだけは、分かった。

 車が停まったのは、出発からわずか40分程度の場所にある、小さな借家。あの永遠にも感じられた運転時間が、たったの40分!?ずいぶん後にそのことを知った私は心底、驚いた。以来、あの日の時間感覚は何だったのか、その謎に、取り組みたいと思うようになった。
 それまでの私とはまったく異なる私と、生活。同じ岡山県なのに、車でたった40分しか離れていない場所なのに、そこで出会う人たちはぜんぜん違う人たちだった。同級生が、100人以上いた。クラス替えというものがあった。その中にはいわゆる「育ちが悪い人たち」もいて、そういうやつらにはずいぶんと、助けられた。
 おそらくこの変化は、たんに環境の変化と言って片付けられるものではなく、なんというのか、世界の見え方がプチッと全く別のものに、切り替わってしまうような体験なのである。大げさに言えば、それは何らかのアクシデントによって脳の結線が一瞬で組み替えられてしまうような、どうしようもなく抗いがたい受動的な、「変身」の体験なのだった。
 私がまだ8歳という、中途半端な年齢の子どもだったことも大きかった。私の人生の行き先は、私の選択を越えたところで無機質に、決定される。そのランダムな決定に私は逆らうことはできず、流れるようにして私のこれまではどこかの忘却へと、押し出されていく。そしてまたゼロから、新しい毎日が始まっていく。私はそのことを、心身がズタズタに切り刻まれるようにして学び、適応した。新しい生活へと慣れた私の、快調な目に映る空は今度はうさんくさく、灰色だった。
 「上」なのか「横」なのか「下」なのかは知らんが、私の目の前は私「以外」の事情によって乱され、壊され、つくりかえられていく。そのような世界観が私の奥底にはトラウマのように住みついており、さらに私はその体験の反復を、どこか望んでしまっているようにも思える。トラウマは反復される。いやむしろ反復されることが、トラウマの条件なのではなかったか?
 だからそっから10年後、養老孟司さんの語りや文章に出会った時、私は眩暈と陶酔を覚えその魅力に、感染してしまったのだと思う。この人の話を聞かなければ、と直感したのだと思う。
 養老先生が持つ深い深い人間不信は、敗戦の体験に根を持つものだった。当時8歳だった養老先生は、敗戦の翌日に学校の教科書をぜんぶ、黒塗りにさせられた。昨日まで先生たちが、一生懸命に教えていた内容はすべて、間違いだった。間違いだったどころか次は、その内容と正反対の内容が同じような一生懸命さで、しかし平然と、教えられ始めた。この体験が養老先生を「人間の考えることや喋ることは信用ならねえ」と確信させ、その後の先生の関心を虫や死体という人間「以外」のものへと向かわせたのは、けだし当然のことでもあった。
 私は大学に入り養老先生に直接、いくつかご質問させてもらう機会を得た。「もともとはものづくりを習う高校に通っていたのですが、本を読みたいと思い勉強して、大学に入りました」という私の自己紹介に対して「え、ものづくりだけしとけばよかったのに(笑)本なんか、読まないほうがいいですよ」と返されたのは、養老先生のお人柄をよかれあしかれはっきりと、表したものだったように思う。とかいいながら、とうの本人はありえんぐらいの量の本を、読んでんだけどね。まあでもそんなところも含めて、好きです(洗脳済)。
 
 そういえば、コロナ禍なんてことも、ありましたね。いまあれはどのくらい忘却のほうへと、押し流されているのだろう。あれによって目の前が奪われ、壊され、命を絶ってしまった人たちも、いた。メディアの中でも、私の周りでも。
 新しい生活様式、もあったね。それと「戦時中」を重ね合わせるような声も、あったね。非常時、緊急事態、ウイルスとの「戦い」、だって。8歳の時ほどじゃないけど、これもたぶん、忘れられないんだろうなあ。人間の気配の一切が消滅し、ゴーストタウンと化した、地元の商店街。ガラガラ。シーン。
 私の人生や、誰かの人生や、私たちの社会や、「人類」が、ほんとの意味ですごいのは、たぶん、文化や教養や、科学やインターネットや、友情や愛や、政治や経済や、人権なんかじゃあなくて、いかなることがあってもその後、なにごともなかったかのように、生き延びてしまえることなのだと思う。「これからはここが変わるんだ」と告げられた予言のうちのいくつが、叶えられたのだろう?私たちはこれから後何回生活が中断され、目の前が「廃墟」と化すのを、呆然と眺めるしかないのだろうか?その「廃墟」が「復活」するという「奇跡」を、後何回?奇跡はよいけど、すごい数の人が死んだ、よね?
 本屋さんに行くと「コロナ禍にこそ読みたい!」みたいな宣伝文句と一緒に、いくつか小説が並べられてたっけ。いちばん売れてたっぽいのはカミュの『ペスト』?売れたのはいいけど、どれだけ読まれたのだろうか。などと意地悪く、思わないこともない、
 『ペスト』ほど注目されたわけではないが、「コロナ禍にこそ読みたい!」の一冊として数えられた小説の中に、小松左京の『復活の日』があった。コロナ禍以前に読んでいた私は、そのような「ブーム」に対して意地の悪い、冷ややかな距離をとっていた。
 意地の悪いとはどういうことかというと、意地の悪い人間は決していまこの瞬間のブームには乗らず、ブームが終わった頃にようやく遅れて、乗りなおすものなのですね。

 というわけで昨日、『復活の日』を読み返した。うむ。正直に言って、かなり内容を忘れてしまっておった。そしてはっきり言ってこれ、かなりヤベエ小説である。いくつもヤベエが、一番ヤベエのはウイルスの「強さ」。たった半年ほどで、なんと人類の数は「一万人」弱にまで、減らされてしまうのだから、こりゃびっくり。残された一万人は南極に移住し「これから人類が生き残るため」の知恵を、必死に働かせ始める。なぜ南極か?それは南極が「『宇宙』とともに、20世紀の『最後のフロンティア』」だったからである。
 「南極は、一つの抽象的価値だった。なに一つ実利的な意味ももたない、しかしそれゆえにこそ、『物質生産』と『精神』の完全に背反的な構造をあらわにし、人がパンのためにのみ生きるのをやめる――つまりパンが、石同然に豊富になってしまうので――明日の世界において、人間は何を目標にして生きるか、ということを暗示する存在だった。
 だが、だれ一人、南極が突如として、おわされた、偶然の不幸な役割りを予想したものはなかった。
 ――人類が生きのこるために……」(p339)
 何の資源もなく、何の地政学的有利もないために、人類の文明がほとんど剥ぎ取られてしまった後の廃れた世界で、逆説的な意味をもつようになったのが、南極だった。各国が地球を隅々まで自らの色で塗りたくろうとする世界において、手つかずのままで放置され続けた南極は、それゆえに、これからの人類のあり方を一から考える「ゼロ度」の地点として、選ばれたのだった。半年前までは「無意味」な場所の代表であった南極に、今度は過剰なまでの「意味」が、託されることになった、皮肉。そして4年後、事態は動く。最悪のほうへ。
 早くも「全南極人」の絶滅をもたらす衝撃のニュースが、最高幹部による会議で共有される。それは、「この南極に核ミサイルが飛んでくるぞ!」というものであった。誰によって?死者によって、死者の、「憎悪」によって…。
 
 「地震学」を専門とする吉住という男はこの4年間で、地震の発生についての正確な予測方法を編み出すことに成功した。次に地震が起きるのは北米大陸。マグニチュードは最大「9」。とんでもない大地震だ。吉住は詳細をまとめたレポートを、最高幹部のもとに提出する。このレポートの内容をきっかけにして、会議は開かれることになる。
 「『実は最高会議は、ある非常に重大な危機との関連において、君自身の口から、もっと正確な説明をききたいと思って、御足労ねがったわけだ』
 吉住は、むこうの意図がわからないので、ちょっといらいらした。――慎重な表現だ。なにかが起こりそうで、それが彼の観測してきたことと関係がある。むこうはその関連性をたしかめたがっている。非常に重大な危険?――いったいなんだろう?南極は、すべての大陸から遠くはなれている。ましてこれは、南極と、まさに対蹠点にある地域のことだ。どう考えても関係があるとは思えない。」(p360)
 吉住はその異様な緊張感に満ちた空間の中でしぶしぶながら、地震予測のメカニズムを一つ一つ、説明していった。その終わりに吉住は「突然ふと、うずくようなこっけい感におそわれた」。それは「人類にはかりしれぬ恩恵をもたらす研究ができた時、恩恵をもたらすべき人々はすでにいなかった」という、壮大な皮肉の感情だった。
 「数年前ならば、目をおおう大惨事となるべきアラスカの地も、現在は無人であります。――最大の惨事は四年前に起こってしまったのです。私自身、このレポートをまとめながら、若干興奮はしました。しかし同時に"それが何になる?"とつぶやかざるを得ませんでした。――北緯六十度に起こる大変動は、南極とは無縁です」(p368~369)
 不幸中の幸いというか、ギリギリまで不幸を経験しつくした人類にとって、もはや恐いものは存在しなかった。よかったよかった一件落着とは、もちろんならない。
 「『いや……無縁とはいえない』コンウェイ提督は、しわがれた声でいった。『北米大陸は無人ではあろうが――まだ生きのこっているものがある……』
 『なんです?』吉住は思わずのりだした。
 『なにが生きのこっているんです?』
 『人間の憎悪だ……』提督はいった。」(p368~369)
 
 人類が一万人にまで減らされるよりも「前」に、アメリカは「全自動報復装置」、通称「ARS」を開発していた。当時の合衆国大統領は「暴君の常として、人間を誰一人信じられなくなって」おり、「敵国から、警告なしに、毒ガス、あるいは細菌攻撃をうけはしないかということ」に対して常に怯えていた。カーターという男はその臆病な大統領の生前を、次のように振り返る。
 「彼はこれを、"私の愛国心の結晶だ"といっていました。アメリカは、たとえ先制攻撃をうけても、自動的に報復できる――"たとえわしがやられても、わしの屍から復讐の矢がとび出す"と彼はいっていました。」(p377)
 『復活の日』の舞台は1970年前後。「核戦争」の危機が今よりもはるかに、切迫していた時代である。「やられる前にこっちからやってやる」の相互不信の精神が、各国の軍備拡大を推し進めてきたのは周知の通り。『復活の日』におけるアメリカ大統領はその精神を極限まで、かたちにしようとしたのだと言える。たとえ自分が死んだとしても発動される復讐の装置を、まさに死にものぐるいで、開発していたのだから。
 「『しかし……』吉住はいった。『たとえそれが……生きているとしても、それがアラスカの地震と、どんな関係があるんです?』
 『まだわかりませんか?』カーターはいった。『あなたの示された地点は――アラスカレーダー基地密集地点です。大地震でもって、これらの基地が破壊されれば――ARS中央指令所は六分間の警告電波を発し、これに基地応答がなければ、核弾頭ミサイルが、自動的にソ連へむけて発射されます』
 場内にはしんとした空気がみなぎった。誰も身動きしようとはしなかった。――死滅した世界に、まだ生きながらえている憎悪のメカニズム……いま偶然の手が、そのひきがねをひこうとしている。」(p378~379)
 「死滅した世界に、まだ生きながらえている憎悪のメカニズム」。大学生だった頃の私はここにガタガタ震えるようにして赤い線を引いていた。そして今回もここが、読んでいる時の恐怖としてはピークだったと思う。あとの展開はもう恐怖を通り越して、バカらしい。
 「『実を申しますと……』とネフスキイ大尉は、拳をにぎりしめるようにいった。『ソ連にも、ARSとまったく同様なシステムが存在します……』」
 やっぱりそうか。やられる前にこっちからやってやるの、精神なんだもんね。
 「『核軍事体制というものは、将棋のようなものです』ネフスキイ大尉は眉をしかめた。『たとえのぞむとのぞまざるとにかかわらず、敵がある強力な新兵器をもったら、必ずこちらも、それと同じものをもたねばならない。――敵が駒を組みかえたら、攻撃にそなえて、こちらも駒組みをかえるのです。ソ連とアメリカは、戦後20年にわたって、こんなことをつづけて来ました。』」(p379~380)
 そしてついに「南極人」絶滅への予言が、放たれることになる。
 「ソ連ミサイルの何発かは、この南極を向いている公算が大きいのです」(p381)
 当時の米国大統領は南極を「秘密のミサイル基地」にしようとしていた。ここを拠点にして「アフリカと南米の共産主義者どもをやっつけるつもり」だったのだという。
 「ネフスキイ大尉は苦しげにいった。『ここにも、さっき申しあげた"鏡の原理"が適用するのです』」(p382)
 「鏡の原理」などとカッコつけやがって。私はそのやり取りのバカらしさに唾を吐きかけたくなるような不快を覚えたが、そんな中で書かれる次の文章はもう一度だけ、私の背筋を凍らせた。
 「沈黙が一座の上におちてきた。『自動的に』――無人のアメリカからミサイルがソ連へ発射され、ソ連は『自動的に』ミサイルをうちかえし、そのうちの何発かは『自動的に』――最後に生きのこった一塊りの人類が、ほそぼそと生きているこの南極の上におちかかる。――神の――いや、悪魔の球ころがし。」(p383)
 
 『復活の日』ではこの後とあるとんでもない勘違いと更なる「皮肉」が発見されることによって、「南極人」はその絶滅をなんとかギリギリのところで免れる。
 南極に核ミサイルが飛んでくることが分かってもなお、「南極人」は決して諦めることなく、わずかばかりの可能性に賭け行動にうってでるのだが、「南極人」の絶滅が回避されたのはべつに、その決死の行動があったからではなかった。「南極人」による計画立案とその実行とはまったく関係のない「勘違い」と「皮肉」つまり「偶然」によって、破局の危機は去るのである。
 「南極人」はこれからまた「人類」として、生き直すことを決意するが、そこで問われるべきは「これからの人類」は「これまでの人類」のどの部分を反省し、改めていくべきなのか?というものであった。『復活の日』のラストは、この厄災を生き延びた1人の博士の手記によって、閉じられる。
 「だが――本当の意味での人類の"復活の日"は、いつくるのだろうか?五千年にわたって蓄積された文明が一挙にほろびたとはいえ、われわれの条件はたしかに石器人よりはるかに有利なことはたしかだ。死滅した世界は、その一切の施設をそのままのこしているし、われわれには教育がある。しかし、大厄災以前と同じような、活気にみちた繁栄をとりかえすには、まだまだ途方もない時間がかかるだろう。施設や機械は復旧できても、それを動かす人間の数が、お話にならないほど不足なのだ。――しかも行く手にはまだ、疾病はじめもろもろの未知の危険がまちかまえているだろうし、人数がふえて行けば、"人の心"もまた危険となるだろう。――あの大厄災以前の世界のように、人類がふたたび"地にみちる"時は、いったいいつだろうか?
 いや――復活されるべき世界は、大厄災と同様な世界であってはなるまい。とりわけ"ねたみの神"と"復讐の神"を復活させてはならないだろう。――しかし、それとて……何百年後になればわからないことだ。あの"知性"というものが、確率的にしかはたらかず、人間同士無限回衝突したすえにようやく、集団の中に理性らしきものの姿があらわれるといった、きわめて効率のわるいやり方をふたたびくりかえすことになるかもしれない。――その迂回路を少しでも短くする責任は――一番最初の責任はわれわれにあるのである。
 明日の朝、私たちは北へむかってたつ。"死者の国"にふたたび生をふきこむべく――。北方への道は、はるけく遠く、"復活の日"はさらに遠い。――そして、その日の物語は、私たちの時代のものではあるまい」(p437)
 『復活の日』で一貫して描かれるのは「制御可能な文明」と「制御不可能な自然」という常識的な二項対立がことごとく「崩壊」していく過程である。
 自然はもちろん文明ですら、いつも肝心のところで制御に失敗し、その巨大な結末は悠々と人類の矮小さをあざ笑うかのようにして、踏み越えていく。いくら事前に未来を「予測」できたとしてもそれは常に「確率的な知性」によって裏切られる可能性を持つ。人類は「勘違い」「皮肉」「偶然」「確率」を掌握できない。小松さんに言わせるとその光景は、まるで「悪魔の球ころがし」のよう。
 けれども、『復活の日』の人類は「予測不可能」同士の衝突から生まれた「奇跡」によって、その絶滅を免れたのだった。小松さんは、どうのこうの言って生き残ってしまう人類の「しぶとさ」にこそ、注目していた人であるように思える。
 ウイルスによってその数を一万人程度に減らされた人類はたった4年間で再び「学問」に専念できるだけの環境を構築したが、その「学問」によって正確に弾き出された「大厄災」の予言は今度は「確率的な知性」によって裏切られてしまう。しかし肝心なのは、人類は宇宙規模での「皮肉」の波に乗せられ、流されながらも最終的にはどういうわけか、生き残ってしまったという事実である。その意味で小松さんは人類を「信頼」している作家であったと言えよう。もちろん、多分に倒錯した仕方で。
 ここで私はどうしても小松さんが14歳の頃に終戦を迎えた人であるという事実を、思い起こしてしまう。「廃墟の空間文明」という文章のことも。

 それは東浩紀さん編集の『小松左京セレクション2 未来』の冒頭に収録されていた。日本を代表するSF作家の作品を厳選した「セレクション」の冒頭に、あえて小説ではなく評論をもってくるのは「批評家」東浩紀ならではの、慧眼であったように思う。実際、私もこの評論に触れたことで、小松さんの小説を読む時の態度が、ずいぶんと変わった。
 「廃墟の空間文明」は「毎年8月6日や8月15日がちかづくと、いささかうんざりする」という、戦争を知る人であれば決して珍しくない文章で始まるのだが、その理由が珍しい、というか、たいへん逆説めいている。戦争を知らない私にとっては。いやひょっとすると、戦争を知る人にとっても。
 「これは別に私が原爆の悲惨や、戦争末期から敗戦へかけての記憶をいまわしいものと思い、終戦後19年もたったし、日本は奇跡の復興をとげたのだから、いいかげん忘れたいものだと思っているからではない。――むしろ逆に、8月6日や8月15日は、私にとってまだ現在であり、その当時の廃墟と化した日本は19年前の姿のまま生きのびているので、このあつい季節に部分核停、全面核停で平和大会の分裂さわぎを演じてみたり、終戦記念日に集まって平和をちかったり、戦争中のノスタルジイにふけったり、日本は敗けていないとか、大東亜戦争はまちがっていないとかいってみたりしているのをみると、どうもそらぞらしい感じがしてならないのだ」(p21)
 戦後20年が経ち「奇跡の復興」を遂げた後も小松さんの中で「廃墟と化した日本」はいまだに「現在」なのだという。にもかかわらず、それを「終わったもの」「過去のもの」とするかのように声をあげる人たちに対して、小松さんは「そらぞらしい感じ」を抱いてしまう。小松さんにとって終戦とは本質的に、「終わらない」出来事のことだったのだ。
 「『戦場』が突如として『廃墟』にかわった時、私の中で一つの時計がこわれたのである。その時以来、『廃墟』は永遠に私の中に生きつづけた。……この『廃墟』としての空間は私にとって終戦後19年という時間に対する拒否権として、絶対的な切り札として、常に存在しつづけた。」(p25)
 廃墟。それは『復活の日』における「南極」のように、一切の意味を剥ぎ取られたゼロ度の地点である。戦後の日本はこのゼロ地点から再出発し、さまざまな「経済」を構築することに成功したがあくまでもその土台にあるのは、少しでも強く踏めばパリッと割れ、ほんの一瞬で壊れてしまいそうな、人間味の乏しい「廃墟」の空間でしかなかった。目の前の豊かな現実の裏側に、根底に、うっすらと「廃墟」の面影が、浮かんでくる。
 小松さんは現実を「二重」の眼で捉えざるをえなかった。後ろから前へと時間の直線がほがらかに、すくすくと伸びていく戦後の空間で生きる小松さんは、同時に「時計が壊れた」「廃墟としての空間」をその脳裏に、焼きつけられてしまっていた。
 SF作家は一般に「未来」や「科学技術」の進歩を信じている人であると言われる。実際小松さんは1970年の大阪万博に、強くコミットした人物でもあった。そのスローガンは「人類の進歩と調和」。小松さんは戦後日本の「奇跡の復興」を力強く、肯定した人であったに違いない。
 ただ小松さんには、それが廃墟にも見えていた。亡霊が、見えていたのである。それは一般論で説明できるものではない。一回限り生き一回限り死ぬ人生での強烈な「出会い」が、小松さんにそういう非常識を抱かせた。信じたくても、信じられない。こわれた時計が、なおってくれない。「廃墟」の光景を、忘れることができない。

 最近、養老先生が「人災である戦争」も「天災である地震」も「受けた側からすると同じ」とおっしゃっていた(『日本の歪み』)。養老先生、東浩紀さん、茂木健一郎さんによる鼎談の際の発言である。「日本人は空襲による焼け野原も、人災ではなく天災のように捉えてしまう」という茂木さんの問題提起を受けた東さんが「僕はやはり人間がやったことと人間がやっていないことは分けるべきだと思います」と自らの立場を表明した後で、「養老さんの考えでは、一緒くたになるのは仕方がないということでしょうか」と問う。
 「それは『考え』ではないですね。印象です。そこらへんがたぶん『日本』流の思考の根源にあるという気がします。人為と自然を強いて分けないというか。他人のせいにしても、仕方がないことがある。そういう態度は長い目で見て、自分の為にならない。どうせまた来ますしね。」
 「地震が定期的に来るのはやむなしとしても、戦争を天災と同じように捉えてしまうのはどうでしょう。そうなると、なぜアメリカに宣戦布告したのかとか、アメリカの無差別爆撃は正しかったのかなどといった問題について、議論の緒すらなくなってしまいます。根源的な議論を抜きに、ここまでなんとなく来てしまった国民性についてはどうですか。」
 「国民性かは知らないけど、僕もそれに近いですね。B29が夜、火を吐きながら落ちていくのをよく見ました。今思えば、あそこに乗っている人がいたんだな、どうしたのかなと。なんか僕はそうやって具体的になっちゃうんです。アメリカが、とか思わない。」
 私に小松左京の「廃墟の思想」を教えてくれた東さんは、1971年の東京生まれ。人為と自然がごっちゃになった終戦という世界観を小松さんから得た東さんは、それでも「戦争を知らない」当事者の一人として、人為の災害と自然の災害は切り離されるべきだと主張する。私も同じ、いや更に「戦争を知らない」世代の一人として、東さんの考えに強く共感する。
 ただ、たとえ客観的に人為と自然が分けられるのだとしても、主観的にそれらは「同じ」ものとして体験されるという養老先生の「印象論」には、少しだけそうなのかもと思わせるような迫力が、込められている。
 子どもは強すぎるショックを受けると「時計がこわれる」。そしてこわれるのは、べつに時計だけではない。私たちがふつうに用いることのできるカテゴリー例えば「人為と自然」というカテゴリーすらも、こわれてしまうことがある。そしておそらくはこの「非常識」こそが当事者の持つ、一つのリアリティなのである。よくもわるくも「常識」とは当事者でない人たちによって、語り継がれていくものなのかもしれない。こわれないように。

 


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