聞くことの賭け

 あらゆる行動の動機は「自分のため」。今日、多くの人がこの世界観を、信じているのではないかと思う。道端で転んでいるご高齢の方に手を差し伸べるのも、困っている友人の悩み事を聞くのも、この世界を善くしたいと思うのも、神さまを信じるのも、ぜんぶしょせんは、自分のため。たとえその結果失敗したとしても、それはあなたの責任です。自己責任です。
 大学の頃よくわからん本ばっか読んでいたせいもあるのだろう、私はこの、「すべては自分のためなのかもしれない」という疑いに日夜、悩まされていた。もしそうなのだとすれば、自分の人生がひどく無意味なもののように、思えてくる。
 リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』という本が、決定的であった。一見「利他的」に思える生物の行動も、遺伝子レベルで見るとそれは例外なく「利己的」なものなのだとして、ばっさばっさと事例を提示していくその手つきに、私は好奇心をギュルギュルと刺激されたが、ある種の絶望感も同時に、つのっていった。
 ドーキンスはその前書きで「私はすべての行動が利己的な動機に基づいているなどということを主張したいのではない」とはっきりいっているのだが、しかし全体を通して伝わってくる世界観は、やはりドーキンスが否定したそれ、つまり「すべての行動は利己的な動機に基づいている」というものであるように、私には思われた。お前の頭が悪いだけだと言われれば、ほんとにそれまで。
 あともう一つ、パスカルの『パンセ』という本に出てくる「賭け」の話も、なんか嫌だった。パスカルは「我々は神がいることを信じるべき」というのだが、その理由が「単にそのほうが得だから、そっちに賭けたほうが、人生豊かになるよ」というもので、その「パスカルの賭け」の話は、壮大で抽象的な「神の存在証明」みたいなものを期待していた私を、がっくりと落ち込ませた。
 さきほどのドーキンスが、『神は妄想である』という別の本の中で「神はいないのほうに賭けるべき、なぜならそっちのほうが得だから」というおそらくは「パスカルの賭け」を意識した、しかしそれとは正反対な内容の主張を、展開していた。
 「パスカルの賭け」と「ドーキンスの賭け」のどちらかを選べと言われたら、「ドーキンスの賭け」のほうを選ぶだろうと私は思った。それは私が神の存在を信じていなかったからではなく、そういう「賭け」とか「損得」みたいな世俗的な発想で「神」という超越的な存在を扱えられるはずがないと、思っていたから。もしそれが避けられないことなのだとすれば「神はいない」のほうに、私は賭けたい。「損得」の観点からは神の存在が否定されるのだとしても、「損得を超えた」観点からはその可能性がまだ、残されているように思ったから。
 いずれにしても、私はそういう「利己性」とか「損得」とか「合理性」みたいな観点でものごとを見ていく世界観に、大きな絶望を感じていた。
 そう言われてみれば確かに、そうなのかもしれない。この行動は「自分のため」なのか「誰かのため」なのか、考えれば考えるほどに、よく分からなくなってくる。その結果「要するにぜんぶ自分のため」という結論が導き出された暁には、その行動へのやる気はきれいさっぱりと、そがれてしまっていた。自分のためなら別に、わざわざやる必要ねえか。
 そんな中私にもう一度「利他性」への希望を復活させてくれたのが、社会学者の宮台真司さんだった。
 とあるイベントスペースでの語り。隣に対談相手がいるにもかかわらず、一人で数十分ぶっつづけでよく分からない話をし続けていて、最初は「この人なにいっているんだろう、ていうか一人でしゃべりすぎなんじゃないか」と心配していたのだが、聞いているうちに耳が研ぎ澄まされてきて姿勢がぐいぐいと前のめりになり、最後には「もっともっと聞いていたい!!」という洗脳に近い状態へと、私の精神は変容させられていた。
 大学の図書館で本屋さんで片っ端から、宮台さんの本を読んだ。話も面白かったけど、本も面白かった。最初のほうに読んだというのもあってか、『14歳からの社会学』という本が、最も印象に残っている。

 「みんな仲よし」がホンネだった時代があった。逆に言えばいまはもう、それはホンネではなくなった。「みんな仲よし」は、タテマエになった。ウソになった。「みんな」も「仲よし」も、それらがいったい何を意味しているのか、よく分からなくなった。そういう時代に、私たちは生きている。
 「ぼくが子どものころ、『みんな仲よし』はタテマエじゃなかった。学校で教わった『みんな仲よし』は、あらゆる場所で通用した。クラスメートはみんな仲よし。となり近所の人もみんな仲よし。もし何かがあっても『みんなおたがいさま』で丸く収まっていたんだ。」(p6)
 疑おうと思えばなんぼほどでも疑えそうな文章だが、宮台さんの論ではそのような疑いが第一の反応として出てきてしまうことそれ自体が現代人のもつ、一種の病なのだとされるから、結局は私の疑いも、宮台さんの手のひらの上。
 「『みんな仲よし』と教えられて『そんなのウソ!』と感じてしまう君は、いまの社会をどんな気分でながめているだろうか。『ぼやぼやしてたら自分も置いていかれるぞ』『しょせんやったもん勝ち』という感じかもしれないね。
 …そうした社会の空気を感じている君からすれば、いまだに『みんな仲よし』なんていってる大人はウソツキに見えるだろう。『ぼやぼやしてたら自分も置いていかれるぞ』『しょせんやったもん勝ち』という考え方で行動する人たちは、大人にだって確実に増えている。」(p10)
 「ぼやぼやしてたら自分も置いていかれるぞ」「しょせんやったもん勝ち」という価値観は、決してひとを幸せにしない。それではいったい何が、ひとを幸せにするというのか。宮台さんによれば、それは「尊厳」である。

 「尊厳」にはそこに至るまでの順序がある。「尊厳」とはそこへ一挙に、到達できるものではない。その前段階として「自由」と「承認」の二つのステップが、必要とされる。
 「[①君が『試行錯誤』する(『自由』)→②それを他者が認めてくれる(『承認』)→③『失敗しても大丈夫』感をいだける(『尊厳』)→①安心してさらに『試行錯誤』する→②……]という循環がある。人間を社会的に成長させるのは、この循環なんだ。」
 宮台さんの主張を一貫して特徴づけているのが、この「他者への深い信頼」である。そしてその信頼があるからこそ、ひとは人間関係の循環に惹き付けられ身を投げ込みその過程の中で、「成長」していくことができる。
 けれども「他者への深い信頼」が失われてしまった社会では、その循環の流れは当初とは逆の方向へと、向かい始める。つまり「悪循環」に、とりつかれるようになる。
 「いまの社会で問題なのは、さっきいったように『みんな』がよくわからなくなっていること。『みんな(他者)』は、『ぼく』や『君』に『承認』をあたえてくれる大切な存在だ。それが誰だかわからなくなると、『ぼく』や『君』の『尊厳』は望みうすになる。
 すると、今度は悪循環が始まる。『承認』をあたえてくれる『みんな(他者)』がよくわからない→安定した『承認』が得られない→安定した『尊厳』も得られない→自由に『試行錯誤』できない→ますます『みんな』がよくわからなくなる……という悪循環だ。」(p22)
 尊厳を実感できないから、他者を信頼できないのか。それとも他者を信頼できないから、尊厳を実感できないのか。この手の「鶏が先か卵か先か」問題に、安定した答えが与えられることはない。私たちは常に既に「循環」の流れに巻き込まれているのであり、その確固たる「起源」が何であるかを、断言することはできない。
 私たちがするべきは、そのような不確定な「起源」を無理矢理に特定することではなく、目の前の「悪循環」を少しでも「善い循環」に変えてやるための勇気を、振り絞ってみることだ。宮台さんはこの「勇気」を、「他者を理解するための試行錯誤に乗り出すこと」と呼んでいる。 

 いったん「悪循環」に呑み込まれてしまった人は自由な一歩を踏み出すことを妨げる「決定論的世界観」に、囚われるようになる。目の前のすべてを、諦めてしまうようになる。どうせ何したって無駄だよ、と。
 実際その世界観は、一部正しい。私が他者を深く信頼できないのは、私がそのような社会に生まれ、そのような人間関係に囲まれ、育ってきたからだ。そしてそういう社会や人間関係が当然のものになったのは、そのような社会や人間関係がこれまでの人びとによって、望まれてきたからだ。そして…。
 しかし私たちは同時に、「自由意思」を持った存在でもある。いくら「世界」が決定論的につくられているのだとしても、私たちは「世界」ならぬ「社会」の中に、埋め込まれた存在である。「社会」の原理は「決定論」ではなく「自由意思」だ。それゆえ「社会」に生きる私たちは「自由意思」を、前提にしなければならない。そうでなければ「社会」は、上手く回っていかない。
 宮台さんは「決定論」と「自由意思」は両立しうるとした上で当然のように「自由意思」のほうを、擁護していく。無限の「因果」を遡っていく頭でっかちではなくて、「端的な意思」を発揮する自由な主体性のほうを、宮台さんは望む。
 この「決定論と自由意志は両立する」というテーゼの雛形は、カントという哲学者の議論だ。宮台さんはそれに完全に同意を示した上で、カントが見落としていた別の「自由」のあり方が、あるのではないかという。それは「感染」という言葉で、表現される。
 「『スゴイ』と思う人がいて、その人のそばに行くと乗り移られて、その人のまねをしてしまう。そこで生まれる意思も『降ってくるもの』だ。いわば、病気にかかるようにして『感染』している。
 でも、実はそれこそが<自由>という状態に一番近いんじゃないか。『スゴイ』人に近づこうと『意思』が決めるよりも先に、自動的にそちらに引っ張られるように動かされてしまう。そういう状態が、一番人が<自由>を感じている瞬間なんじゃないか。」(p191)
 「利己的」か「利他的」かなんて、頭で考えているうちは不十分。気がつくと勝手に、体が動いてしまっている。誰かのそばにいたいと、思ってしまっている。能動でも受動でもない、いわば「中動態」的な「感染」の体験こそが、「自由」や「利他性」の真髄であり、根拠なのだ。

 私はこの「感染」の教えに、とても影響を受けた。「誰かのため」に思わず体が動いてしまった際に、それはほんとうに誰かのためなのか?じつは自分のためなのではないか?とぐずぐず内省するのではなく、その「思わず体が動いてしまった」という事実のほうをとりあえずは受け止めてみようと、思えるようになった。
 「すべては利己的」「すべては利他的」「すべては決定されている」「すべては自由」。結局のところこれらはすべて、「世界観」の問題なのだろう。私たちのそれぞれがコミットすべき、「価値観」の問題なのだろう。であるならば私は、「すべては利他的である」などという聖人君主な世界観は無理だとしても、「いくらかは利他的である」ぐらいの凡庸な世界観になら、コミットしてもよいのだろうと思えた。
 「感染」の体験は人に自由をもたらす。ただし、いつまでもそこに留まっていてはならない。「感染」した相手からはいつか、「卒業」しなければならない。単なる「感染」の体験だけだと、それは他人の受け売り、洗脳。そこから「卒業」できて初めてひとは、「自分で考える」ための糸口をかろうじて、得ることができる。
 「①誰かに『感染』して乗り移られたあと、②徹底的にその人の視点から理解し、③やがて卒業して今度は別の誰かに『感染』する――。①→②→③を数回繰り返せば、そのときにはすでに君自身が、誰かから『感染』してもらえる価値を持つようになっているだろう。」(p139)
 それゆえ私は宮台さんの影響下から「卒業」する必要がある。宮台さんがカントの自由論に影響を受けながらも、最後にはカントが見落としていた「感染」の体験を発見したように、私も宮台さんの世界観が取り逃してしまっている「言葉」や「聞くこと」の大切さを、発見してやる必要があるのだろう。

 宮台さんの世界観は「他者への深い信頼」に貫かれている、とさきに述べた。改めて、そこでの「深い信頼」とは何を意味しているのか。消極的な言い方になるが、それは「表面的な部分を信頼しないこと」というふうに、言い換えることができると思う。そして私たちのコミュニケーションにおける「表面的な部分」の代表が、「言葉」である。
 宮台さんは「他者」を信じている。けれども「言葉」を信じていない。前者は「深い」が、後者は「浅い」。宮台さんにとって「深い信頼に基づく人間関係」は福音であるが、「浅い言葉に基づく人間関係」は文字通り、「浅ましい」ものでしかない。その世界観は宮台さんがよく用いる「言葉の自動機械」という表現の中にはっきりと、現れている
 宮台さんが「人間の表面」を信じられなくなったのは、かつての「中学高校紛争」の影響が大きい。いくら「日常」の生活では「いいやつ」に見えていた人でも、紛争という「非日常」のパニック下では自分のことしか考えず他人を平気で、裏切ろうとする。以来宮台さんは「ふだん見せる顔はアテにならない」という確信を、抱くようになる。
 人間の「浅い」部分を信頼できなくなったからといって、なにもトータルな人間不信に陥る必要はない。むしろ「浅い」部分が信頼できなくなったからこそ「深い」部分を信頼する動機が、高まっていくのだとも言える。
 「中学3年の時点で『裏切りに免疫がついた』ぼくは、以降、人に裏切られたり期待外れな思いをしたりしたことがたくさんあっても、人間不信におちいったことは一度もない。中学高校紛争の経験で『裏切りにゆるがない人間観』ができあがったのが、大きいんだよ。」(p143)
 これも私の実感と符合する。「大丈夫」がいかに「大丈夫ではない」状態を示す言葉なのかを、小さい頃にたくさん学んだ。表面的なカテゴリーだけを判断材料とし、その人の深い苦悩や人間性を見ようとしない人たちに対してつい疑問や苛立ちを覚えてしまうような、コムズカシイ子どもだった。だから今でも、その人の奥に、深いところに入っていこうとするコミュニケーションのあり方は、他者を「理解」しようとする上で、必須の態度であると感じる。
 しかし私の考えではそれはあくまでも、「深い人間関係」に限られた作法である。「親友」や「仲間」という言葉遣いを、宮台さんは好む。あたかもそれ以外の「浅い人間関係」はおしなべて、無価値なものであると言うかのように。
 ほんとうにそうか?宮台さんが「深さ」と「信頼」に救われたように、「浅さ」と「言葉」に救われる人も、いるのではないか?「深い人間関係」をつくれない人を「クズ」などと言う宮台さんの「啓蒙活動」に私は、同意することができない。宮台さんの世界観には「浅い人間関係」の大切さの視点が、すっぽりと抜け落ちてしまっている。

 人間関係をつくる上で相手の話を「きく」行為は、言うまでもなく大切なことだが、その際「聞く」と「聴く」では、果たしてどちらのほうが「深いきく」だろうか?
 おそらく多くの人が「聴く」のほうだと、答えるのではないかと思う。相手の話を「聞く」よりも相手の話を「聴く」のほうが、単なる言葉の並びを越えたその人の「心」をぜんぶ受け入れようとする「きき手」の姿勢が、くっきりと思い浮かんでくるから。
 そして一般に「聴く」は「聞く」よりも難しい行為であると考えられている。「聴く」のほうが考えなきゃいけないことが増えるわけだし、そりゃ当然か。
 それに対して「どう考えたって、『聴く』よりも『聞く』のほうが難しい」と言いきるのが、心理士の東畑開人さん。『聞く技術聞いてもらう技術』という、本において。

 「『なんで?』と思われるかもしれません。
 でもね、『話を聞いてくれない』とは言うけれど、『話を聴いてくれない』と書くと違和感があると思いませんか?『聞けない』ことはよくあるけど、『聴けない』というのはすごくレアな例です(イヤホンが壊れたときくらいですかね)。
 つまり、『なんでちゃんとキいてくれないの?』とか『ちょっとはキいてくれよ!』と言われるとき、求められているのは『聴く』ではなく『聞く』なのです。
 そのとき、相手は心の奥底にある気持ちを知ってほしいのではなく、ちゃんと言葉にしているのだから、とりあえずそれだけでも受け取ってほしいと願っています。
 言っていることを真に受けてほしい。それが『ちゃんと聞いて』という訴えの内実です。」(p9~10)
 言葉を言葉通りに受け取ることの難しさ。それこそが、これまでの「聴く」が見落としてきた、「聞く」の難しさである。私たちにはひょっとすると「聴く」を過大評価する傾向が、あるのかもしれない。
 言い換えると、私たちは今日の「人間関係の希薄さ」つまり「孤独」の問題の深刻さを、過小評価しているのかもしれない。「聞く」ことならできるけど、「聴く」ことは難しいんよな~。ほんとうだろうか?私たちは相手の言葉を言葉通りに受けとることすら、もうほとんど、できなくなってしまっているのではないか?
 「『聞く』は普段グルグル回っています。だけど、欠乏によって、その循環が壊れてしまう。そういうときに、孤独が生じ、関係が悪化していきます。
 『聞く』が改めて必要になるのは、ここです。
 欠乏は変えられなくても、そこにある孤独と向き合うことはできます。自分のせいで痛みを与えていることを、聞く。それが、関係が悪化しているときに、何よりも必要なことです。
 『聞く』とは『ごめんなさい、よくわかっていなかった』と言うためにあるのだと思うのです。」(p78)
 東畑さんは「聞く」の難しさを「孤独」の問題と結びつける。私たちの社会はいま、慢性的な孤独の状態にある。まずはこの事実を受け止めるところから、始めなくてはならない。
 その点で東畑さんと宮台さんは、問題意識を共有していると言える。お二人とも「孤立」をこの社会の最重要課題の一つとして、捉えている。そしていったん孤立を感じ始めた個々人が陥る「悪循環」を、どのように突破すればよいかという問いが、扱われている。
 その問いに対する答えは、両者ともに「人間関係」をつくろうという当たり前のようで難しいものなのだが、そこで目指される関係のあり方について、両者のスタンスは微妙に異なっている。宮台さんは「深い人間関係」のみを追求するが、東畑さんは「浅い人間関係」を許容する。「言葉の奥」に入っていこうとするよりも、「言葉それ自体」を受け止める日常の関係性のほうをまずは、回復しようとする。そのために必要なのが、「小手先の技術」と「『聞いてもらう』という受動的な事態」である。
 「聞いてもらえているから、聞くことができる。つながりの連鎖こそが必要です。
 ですから、ここで話を『聞いてもらう技術』に移しましょう。
 孤立を防ぐために、僕らにできることは何か。話を聞いてもらうためにいかなる小手先の技術があるのでしょうか。
 このとき、「聞いてもらう技術」が受動的な技術であるのが重要です。珍しいですよね、技術ってふつうは能動的なものですから。
 でも、つながりってそういうものだと思うんですね。
 カウンセリングをやっていて素晴らしいなと感動するのは、孤立していたはずのクライエントが、実はつながりの中にいたと気づくときです。
 …つながりって、能動的に築くものではなく、気づいたときには自分を取り巻いている受動的なものだと思うのです。」(p120~121)
 この後、その「小手先の技術」たちがひとつひとつ紹介されていくのだが、読んでいるとそれらがほんとうに「小手先」感に溢れていて思わず、笑ってしまう。だけど繰り返せば、私たちはその「小手先」すらも忘れ、実践できなくなっている。それほどまでの「孤立」が、私たちの現実である。
 「あなたから始めてもらえないでしょうか。
 第三者として、あなたが誰かの話を聞いてみてほしい。それが『聞く』がグルグルと循環するための最初の一歩になるの思うのです。
 …ひょっとしたらおせっかいと思われるかもしれないし、『わかってないくせに』と言われるかもしれない。そんな立ち入った話を聞いていいのだろうかと思ってしまいます。
 だけど、思うのです。おせっかいに案外ひとは助けられます。
 思ってもみないところから、つながりの糸が伸びてくる。想像もしていなかったことから心配されていたことに気づく。この世界に、友といえるひとがいたことに驚く。
 誰かが話を聞いてくれる。それがちぢこまってしまっている心をゆるませ、心を再起動するためのスペースを作ってくれる。」(p232~234)
 
 「聞くことの賭け」が、あるのだと思う。相手の言葉を言葉通りに受け取る。そちらにベットする。善意か悪意か。利他的か利己的か。オモテかウラか。ホントかウソか。究極的には決定不可能なコミュニケーションのやり取りにおいて、前者に「賭け」てみること。その「賭け」は目の前の「悪循環」の流れをより「善い」ものへと、変えてくれるかもしれない。
 誰かに私の言葉を言葉通りに受け止めてもらうことも時には、必要になってくるだろう。そのための「聞いてもらう技術」である。そしてそれは「聞いてもらうことの賭け」、でもある。
 性善説/性悪説などの理論の探求は、人間の「深さ」、つまり「本質」を扱う。けれどもそこには、「他者」や「心」の神秘化を招くという危険性がある。「他者とはこういうものだ」「心とはこういうものだ」「人間関係とはこういうものだ」という語り口は、そうでないあり方を「異端」として排除する「神学論争」へと、接近していく。
 そうでないあり方「も」大切である。確かに「聴く」ことは大切だが、聞くこと「も」大切である。東畑さんの本にはこの「も」という表現が、しばしば登場する。それは凡庸で、小手先の文体なのかもしれないが私はそこに「聞く」ことの、隠れた繊細さを見る。
 しょせん人間は利己的な存在である。こういう深遠な真理には「も」の繊細さが、欠けている。自分の信条に当てはまらない「他者の言葉」がいっさい視界に、入らなくなる。「すべては自分のため」という疑いを持つ人は「これは誰かのため」という言葉に、「賭け」ることができなくなる。「自分にとっての正しさ」の深さにずぶずぶと、のまれるようになる。
 人間は利己的な存在である。同時に利他的な存在で「も」ある。「誰かのために」という言葉を前にした時の私は、いったいどちらのほうに賭けるべきなのだろうか。
 「しょせんは自分のためである」に賭けたとする。しかしその人がほんとうに「誰かのため」を思った人だったとすれば?その敗けの損失は、はてしないほどに大きい。もう決して、とりかえしがつかない。残された選択肢は、自己破産のみ。
 だったら最初から「誰かのために」という言葉を言葉通り受け止めることのほうに、「賭け」たほうがよい。相手の話を「聞く」ことのほうに、賭けたほうがよい。
 神の存在を証明することはできない。たとえそうであったとしても、「神は存在する」のほうに賭けることなら、できる。そのほうがその人の人生は、より豊かなものになるに違いない。なぜか最近、パスカルの主張に、共感することが増えた。
 
 

 

 


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