栗原心愛さんの死(5) 体罰は暴力である。しつけではない

■弁護士の活用について

▼「栗原心愛さんの死」の3回目で書いたことだが、

弁護士を活用する制度について、2019年2月8日付の産経新聞が大きく扱っていた。

〈威圧的保護者に弁護士活用/スクールロイヤー/虐待・いじめ…学校へ法的助言〉

大阪府や仙台市、東京都港区の教育委員会で制度化されているそうだ。

〈児相にも常駐求め〉

〈市教委や学校だけでなく、児相にも、弁護士の常駐といった法律専門家の関与を求める声が超党派議連などから上がっている。〉

▼児相にこそ弁護士が必要だと思う。

■体罰はしつけではない、暴力である

▼さて、児童虐待の最大の問題は何だろう、と考えていて、一番の勘所(かんどころ)は、「体罰はしつけである」という思想が未だに根強い、ということだと思う。

ノートの真ん中に「体罰」を置いて、下に「しつけ」を置き、上に「暴力」を置いて、ベン図を描いて考えてみよう。

▼「体罰はしつけだ」と考えている人は、「体罰は暴力だ」とは考えない。逆に、「体罰は暴力だ」と考えている人は、「体罰はしつけだ」とは考えない。

両者が重なる範囲は「体罰」という言葉だ。かりにこういう構造を描いてみれば、「体罰」という言葉のとらえ方が、極めて重要だということになる。

▼「いや、これは体罰を受けて、こういういいことがあった。だからいまの私がある」「だから体罰はしつけだ。必要悪だ」という説を唱える人は多いだろう。こういう意見に対して、最も控えめな言い方であれば、一個人の「成功」は、その「成功体験」を、他人に押し付けていい理由にはならない、と言いたい。少し語調を強くすると、愚劣の極み、ということだ。

筆者は、「体罰は暴力である」「体罰はしつけではない」とはっきり言い切ることが、とても重要だと考える。

▼日本社会全体に、「体罰はしつけだ」という「常識」が、まだ横たわっている。そうだとすれば、これは「政策」の問題ではなく、「信念」や「思想」の問題だ。

心愛さんの父親も、取り調べの当初は、あくまでも「しつけ」のつもりであって、「悪いこと」をしたとは思っていない、と話しているそうだ。

しつけだった、という一言で、なんとなく、ものを見る目がかすんでしまう人たちがいる。ここに、目に見えない、「常識」という名の、もしくは「無意識」という名の、壁があるわけだ。

児童虐待の大きな問題の一つは、これは加害者の「信念」や「思想」を変える戦いなのだ、ということであり、このことを知らない人が多い、という現実であり、そういう戦いに地道に取り組んでいる人がたくさんいる。

▼マスメディアで目についたのは、2019年2月1日付の東京新聞社説だった。見出しは

〈児童虐待 体罰ない社会考えたい〉

体罰について、しつけについて、常識を考え直すきっかけになる内容だと思う。

〈「しつけ」と称した暴行で子どもの命が奪われる事件が後を絶たない。東京都は全国で初めて親の体罰禁止を盛り込んだ条例案を近く議会に上程する。体罰を社会全体で考える契機にできないか。

 「しつけで立たせたり、怒鳴ったりした」。小学四年女児が亡くなった千葉県野田市の虐待事件で、傷害容疑で逮捕された父親はそう説明しているという。女児が一年以上前に「父親からいじめを受けた」と学校のアンケートでSOSを発していたのに、命を救うことができなかった事実は重い。

 都が条例制定に乗り出したのは昨年、同じように痛ましい虐待事件が目黒区で起きたからだ。骨子案によると、保護者などの責務として「体罰その他の品位を傷つける形態による罰を子どもに与えてはならない」と定めている。

 日本も批准している国連子どもの権利条約では、保護者によるあらゆる身体的、精神的暴力から子どもを保護するための立法などを締約国に求めている。体罰を法律で禁止している国は現在、スウェーデンやドイツなど五十カ国以上。日本は保護者の体罰を明確に禁止する法律はない。

 家庭内のことに法がどこまで立ち入るべきか、「しつけ」の範囲がどこまでなのか、議論が分かれることがその背景にはあるだろう。民法では明治以来、親の懲戒権が認められている。二〇一一年の法改正でも、文言は変更されたが懲戒権そのものは残った。

 江田五月法相(当時)は法務委員会で「親がしつけなどをできなくなるんじゃないかという誤った理解を社会に与える」と削除しなかった理由を説明している。

 NGOセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが一昨年約二万人を対象に行った意識調査では約六割がしつけのための体罰を容認している。一方で、法律が人々の意識の変化を促す側面もある。体罰を禁止した国では容認する人の割合は減少し、体罰や虐待の減少が報告されている国もあるという。(以下略)〉

■体罰は恐怖によるコントロール

▼もう一つ、2019年2月3日付の朝日新聞に、エンパワメント・センター(大阪府高槻市)主宰、森田ゆり氏の長文コメントが載っていた(聞き手は山下知子記者)。見出しは

〈体罰はしつけではない〉

答えははっきりしています。それは「体罰は、時に必要」という考えが社会にあるからです。(中略)

 そもそも体罰とは何でしょう。「恐怖心で子どもの言動をコントロールすること」だと考えています。

▼同じ面で国際NGOセーブ・ザ・チルドレンの西崎萌氏は、スウェーデンが体罰容認から体罰否定に変わった例をくわしく紹介している。

▼人は親になった時、自分が育った方法で子どもを育てることが多い。殴られて育ったこどもは、こどもを殴る親になる可能性が高い。

ここから先は、〈(法整備は欠かせないが)家庭への過度な介入、相互監視にならないような設計が必要〉(森田ゆり氏)という話で、目の前の大きな課題だ。

制度設計のために最も必要なことは、「体罰は暴力なのだ」「体罰はしつけではないのだ」と明言する信念であり、思想だ。

(2019年2月9日)

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