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「人生で大切なことは旅することで手に入れた / ヨーロッパ」

1996年夏。僕が渡米して1年目の夏休み。期間は6月中旬から8月いっぱいまで。こんな大型の休暇は人生でもそう頻繁には巡ってこない。若い時の休暇をどう過ごすかがその後の人生を左右するんじゃないか、何となくそんな風に感じていた。3年前のトルコ、ギリシャ、エーゲ海の旅での成功体験もある。今やっておかないと絶対後悔する、そんな危機感に煽られながらバックパック1人旅の計画を練ることにした。その時僕が住んでいたオハイオ州(中西部)からは日本へ行くよりヨーロッパ方面へ行く方が格段に簡単で安かった。ノースウエスト航空で往復10万もかからなかったと思う。そしてどういう経緯で繋がったかは忘れたが、習志野の病院で同じ時期に生まれた幼馴染のRyo君がバルセロナに留学している事を知る。これはチャンスという事で、旅の始まりはスペインからスタートすることにした。2ヶ月間有効のユーレイルパス(ヨーロッパの電車乗り放題)を手に南はジブラルタル海峡から北はフィンランドの北極圏にあるロバ二エミ、西はポルトガルのロカ岬から東はエストニアのタリンまで縦横無尽の貧乏旅行が始まった。


ユーラシア大陸の西の果て

Barcelona
Barcelona

バルセロナでRyo君と落ち合い、スペイン語が流暢ですでにスペイン人の彼女もいる彼の案内でマドリード、リスボン、ジブラルタルからのアンダルシアを北上してバルセロナに戻るイベリア半島一周の計画を立てた。

Cabo da Roca

沢木耕太郎の著書「深夜特急」に影響されてユーラシア大陸最西端のロカ岬へ。(深夜特急ではサン・ヴィセンテ岬が旅の終着点だった)
ここでは、崖の下にビーチがあって上から覗けるのだが、ちょうど下に海水浴のカップルがいて昼間から野外でメイクラブをしていた。僕らが崖の上からそれを「見学」していたら、女の子は僕らの視線に気が付いて恥ずかしそうにしていたのを覚えている。そしてその砂浜を真横から一望できる場所に位置する宿のオヤジが窓からその行為を凝視しているのを発見し、Ryo君と一緒に大笑いしてしまった。ラテン人が色々な意味で情熱的であることを知った瞬間だった(笑)。

Lisbon

リスボンから列車で南下し、一路ジブラルタル海峡を目指す。指定席のチケットを買って夜行列車に乗るも、コンパートメントのドアを開けるとすでに他人がそこを占拠しており、僕らの顔を見るなり「チノ(中国人)」とつぶやく。Ryo君からも聞いてはいたが、「イベリア半島はヨーロッパではない」という言葉が脳裏に浮かんだ。レコンキスタまで何世紀にもわたってイスラムに支配されていたイベリア半島は他のヨーロッパと一線を画す宇宙を形成していた。ヨーロッパというよりも、マグレブ(北アフリカのアラブ世界)からの連続性を南部に行けば行くほど色濃く感じた。(ちなみに「チノ」と言われたのはこの数年後にエチオピアでアラブ系の団体客にしつこく言われたくらい)

列車の中でマリファナかなんかをキメて気分が良くなってる地元の若者グループに遭遇。その中のリーダー的な奴が絡んできたが、僕は笑いながら冗談でやり過ごすも、正義感の強いRyo君がスペイン語で相手がカチンとくる言葉を口にしてしまう。それが原因で一気に緊迫した空気となり、殴り合いの喧嘩に発展。リーダーは右手にギブスをしていたが、血の気が多く頭突きとギブス攻撃でRyoくんと取っ組み合いに。幸い大きな怪我もなく、大事には至らなかったがRyo君は不意の頭突きで鼻にかすり傷を負ってしまう。相手が凶器を持っていなかったことと、リーダー以外は喧嘩する意思がなく自分も含めて喧嘩を止めさせようと動いたことで、この程度で済んだのではないかと思う。旅先での危機管理には慎重であるべきという教訓を得た。

Strait of Gibraltar
la Alhambra
la Alhambra
Somewhere in Spain

ジブラルタルではフェリーで対岸のアフリカ大陸に位置するスペイン領セウタへ。歴史が好きな僕らは、ドイツ映画「Das Boot」で当時英軍の影響下にあったこの海峡をUボート(潜水艦)で通過する緊迫のシーンの話で盛り上がる。そのままモロッコへ入る選択肢もあったが、モロッコ方面から旅してきたバックパッカーが「あっちには行くな」と進言してきた(半分冗談だったとは思うが)ので、モロッコ入国を断念する。そのままアルハンブラ宮殿などイスラム色が極めて濃厚なアンダルシア地方を北上し、Ryo君の拠点があるバルセロナへ戻る。文字通りイベリア半島をまるっと1周した旅となった。

全ての道はローマに通ず

Rome
Vatican City
Vatican City

スペイン、ポルトガルを旅した後、バルセロナで一息ついてから今度はフランス南部を素通りしてイタリアへ。スペイン語を話すRyo君にとってイタリア語もそんなに難しい言語ではなく、北部のミラノからフィレンツェ、そしてローマを目指した。このイタリアでの旅のテーマは観光と美術館巡りに徹することとした。以前旅した地中海のギリシャ文明を色濃く受け継いだローマ帝国時代のイタリアの歴史は、ギリシャの旅からの連続性を強く感じずにはいられなかった。僕が美術史のクラスで一番好きな「The School of Athens」(アテナイの学堂)のフレスコ画を生でバチカンで見れたことは美術学生として本当に貴重な経験だったと思う。

St. Tropes

イタリアでの旅の工程を終え、ここでRyo君と別れて1人旅がスタートする。バックパッカーとしての旅の醍醐味がいよいよ始まることになる。まずは日本でイベントのアルバイトをした時に数週間一緒に過ごしたフランスの友人達を訪ねてマルセイユとニースの中間にある地中海の街サントロペに向かう。この地方の伝統的な音楽と舞踊を披露するチームと仕事をしたのは池袋の東武デパートでの1か月にも及ぶ「フランスフェア」という海外物産展のイベントでのことっだった。リーダーのナタリー率いる10代から30代の女性ダンサー達と1年ぶりの再会を果たす。熱烈な歓迎を受け、メンバーの1人の実家に泊めてもらうことに。まだメールが普及していない時代にこまめに手紙でやり取りをしていたわけだから、自分、結構マメに色々アナログでやってたんだなあと。

深夜のハンガリー国境

サントロペを後にした僕は、ニースから夜行列車でスイスのジュネーブへ。
スイスアルプスのアイガー北壁の拠点であるグリンデルワルトは高校2年の時に親父と二人旅(何故こうなったか覚えていない)をして時以来の訪問。ここのユースホステルはちょっと高い(当時通常のユースが1000円程度だったが、ここは3000円位した)。しかしその分ベッドもシャワーも奇麗で温かい夕食も付いている。このユースにはこの後ヨーロッパに来るたびに泊まりに来ることになる。

グリンデルワルトでアルプスの少女ハイジの世界を堪能したあと、次はインスブルック、ザルツブルグ、ウィーンの順番でオーストリアを横断。インスブルックとザルツブルグの中間にクーフシュタインという村がある。そこはこの旅の2年後にミュンヘンに語学留学した際に日帰りで訪れることになるヨーデルのご当地ソングで有名な場所があり、いわゆるスイスアルプスからチロル地方と呼ばれるこの地域一帯は僕がヨーロッパで最も好きな場所の1つとなるのです。

ウィーンではグスタフ・クリムトの有名な作品を始め数多くの美術品を見て回り、パリ、ニューヨークに次いで最も多く美術館を訪問した記憶があります。そしてこのウィーンにはこの後に起こる予期せぬハプニングにより、数日後に再びこの街で足止めされることになってしまいます。

Innsbruck
Vienna
Vienna

ウィーンを出て今回初めての旧東側であるブダペストへ。ユーゴスラビア紛争真っただ中のベオグラード行長距離列車で日本人バックパッカーと知り合い、彼もブダペストに行くという事で一緒に行動することにした。車内にはユーゴスラビアの子供達が乗っており、アジア人を見るのが人生で初めてらしく、最大に警戒しつつ興味を隠せずに近づいてきた。ブダペストで下車して彼らとお別れする際、これから戦乱のユーゴスラビアへ入ろうとする彼らの悲壮感漂う表情が今でも忘れられない。あの子たちはどうなったんだろう。無事だと良いな。

Budapest
Budapest
Budapest

ブダペストの印象はとにかく女の子が美人ばかりだったという事。モンゴル系のアジアの血がちょっと混ざっているのかどうかは知らないが、ユースの受付の子を筆頭に街を歩いていると美人に遭遇する確率が半端なく高かったように思う。この街で特に見ごたえがあったのは戦争博物館。西側諸国のものと比べて展示の方向性が独特で、手作り感はあるものの色々努力の跡が見られて面白かった。

ブダペストで数日過した後、夜行列車でドイツのミュンヘンへ向かうことに。しかし事件はこの夜行列車の中で起こった。不法入国者や犯罪者などの西側への流出を防ぐため、列車にはハンガリー国境警備隊の兵隊2名が常駐していた。客のチケットとパスポートを検閲するのが役目だ。僕の番になり、彼らにユーレイルパスとパスポートを手渡すと、このパスは無効だと難癖を付けられパスポートと共に没収されてしまった。どういうことか分からずに説明を求めると、チケットの表紙とチケットの内容が違うとのこと。そんなこと知るか!表紙なんかどうだっていい、パス本体が問題ないなら表紙なんか関係ないだろ!と猛抗議するも一切聞く耳を持たない。列車には車掌も乗っていたが、警備隊のほうが権限を持っているらしく、何もしてくれない。バックパッカーや観光客もその列車に多く乗っており、僕と同様にパスポートやパスを没収された乗客がいた。このチケットがなくなったら、旅はここで終わってしまう。このままだと、まだあと1ヶ月以上ヨーロッパを周る計画が台無しになってしまう。僕が困り果てていると、近くの席のアメリカ人旅行客が、東側の人間は賄賂を渡せばいいんじゃないかとアドバイスをくれた。いくらか紙幣を用意してこれで勘弁してくれと掛け合ったが相手にされなかった。そうこうしているうちに列車はオーストリアとの国境付近まで迫って来た。とりあえず国境を超えるのにパスポートがないと困ると訴え、なんとか返してもらうもユーレイルパスは結局没収されたままに。

そして深夜の国境の駅で静かに列車が止まる。ここでハンガリーの警備隊と車掌が下車し、オーストリアの車掌と交代する。新しい車掌に訴えたが、ハンガリー領内の事には口出しできない、申し訳ないと謝られてしまう始末。警備隊員は僕のパスを持ったまま駅舎へ引き上げてしまう。僕は意を決して荷物と共に列車を降りた。旅を続けるためにどうしてもパスを返してもらう必要があったからだ。列車を降りるとそこには強制的に降ろされたの人々が薄暗い外灯の明かりに照らされ、ハンガリー国境警備隊に囲まれていた。ある者は指示に従わなかったのか、暴行を受けている。(ユーゴからの難民なのか、西側へ職を求めて来た不法入国者なのか不明)これまで経験したことのない、かなりヤバい雰囲気に自ら足を踏み入れてしまった。強制収容所へ向かう列車から降ろされたユダヤ人達とそれを選別する兵隊たちみたいな、なんかのWW2映画で見たような光景そのまんまだった。

僕は1人バックパックを背負ってその光景を眺めていると、将校とおぼしき迷彩服を纏った大柄の男が近づいてきた。「オマエは何で列車を降りた?」とりあえず彼に今までの経緯を伝えたが、ここで降りることは許されず列車に戻るよう命令された。仕方なく列車に戻り、新しい車掌にパスを取り上げられたので特別にウィーンまで乗車を許可してくれと頼み込み、ハンガリーから出国することになった。本来ならそのままミュンヘンへ行く予定だったが、スケジュールを変更して再びウィーンで宿を取った。翌日に日本大使館へ相談に行くも何もできないと追い返され、仕方なく今度はハンガリー大使館へ。大使館員はこちらの説明に親身に耳を傾けてくれ、申し訳ないと言って僕のパスがどこにあるかを調べてくれた。そして国境付近の町の駅舎に保管されていることを突き止め、悪いがそこまで取りに行ってくれとのこと。パスがないから列車に乗れない、だから列車に乗る許可証を発行してくれと交渉し、仕方ないなあという感じで発行してもらうことに成功。一応ユーレイスパスの発行元にも連絡を取って、表紙と中身が違っても問題ないことは確認済みで交渉に当たった。今考えると、ネットもない時代に地球の歩き方1冊だけの情報でよくもまあ色々と上手く段取りしたなあと、我ながら感心してしまいます。

いざ、スカンジナビアへ

ハンガリーで奪われたユーレイルパスを取り戻した後、遅れた日程を取り戻すべく早々にミュンヘンへ。ここでは中世の城をユースホステルにした古城ユースなる場所へ泊った記憶があるが、あまり印象に残っていない。ミュンヘンは僕にとって思い出深い街で、計3回ほど訪れている。この2年後、ドイツ語留学でミュンヘンに滞在したときは世界中から集まった学生と毎晩クラブで大騒ぎした最高にはっちゃけた思い出がある。何回か訪れるであろう人生のピークの中の1つは確実にこのミュンヘンという街にいた時だったと思う。

Munich

ミュンヘンからベネルクス3国を巡って、コペンハーゲン、ストックホルム、オスロ、ナルヴィク、ロバ二エミ、ヘルシンキと北欧の国々を長距離列車で移動する。噂には聞いていたが、北欧は物価が高くてマクドナルドに入ることさえ躊躇した。1日をスニッカーズと青りんごだけで誤魔化した日もあった。ユーロが導入される前で、クレジットカードも持っていないので各国の通貨を両替するのに非常に苦労した覚えがある。

Brussels
Copenhagen
Copenhagen
Stockholm
Stockholm
Somewhere in Norway
Narvik
Narvik
Rovaniemi

ナルヴィクから一旦スウェーデンを通過してフィンランドのロバ二エミへ。サンタクロース発祥の地であるというこの街を目指して列車の中で韓国人の旅行者たちと知り合い、道中を共にする。この時期ヨーロッパでは韓国人バックパッカーのグループをよく目にした。どうやら韓国でヨーロッパを貧乏旅行するのが流行っていたようだ。彼らは集団で行動していたが、非常にフレンドリーで楽しい人たちが多かった。あまりにも韓国人バックパッカーが多かったので、ユースホステルを訪れる度に受付で「あなたも韓国人?」とウンザリした感じでよく聞かれたものだ。ジョークで「いいえ、私はモンゴリアンです!」とか「実はエスキモーです!(当時は差別用語ではなかった)」と返すと特に白人には毎回大ウケした。

謎の国、エストニア

ここまで来たらバルト三国にも行ってみたい、そんな欲求に駆られてヘルシンキのエストニア大使館へ観光ビザを取得しに出向く。ソ連崩壊で解放されたばかりのミステリアスなバルト三国には、まだ西側にかぶれていない共産圏の頃の雰囲気が色濃く残ってるような気がしてワクワクしていた。僕はその頃、ヨーロッパでも西ヨーロッパ(主にフランス、ベネルクス、イギリス)には全く興味がなく、特に未知の領域である東ヨーロッパに惹かれていた。エストニア大使館で観光ビザを取得することは出来たのだが、窓口でちょっとゴタゴタしたことを覚えている。何が原因だったかはもう忘れてしまった。その時傍にいた日本人観光客のおじさんが話しかけてきて、ヘルシンキ市内の日本料理店でかつ丼をごちそうしてもらったのを覚えている。どうやら大使館の職員と英語でやり合っていたのを見て気に入ったとのこと。こちらとしては、物価の高い北欧でろくなものを食べていなかったので非常に有難かったのを覚えている。

そして念願のエストニアへ上陸。ユースホステルも素朴で、中世の街並みがそのまま残る素朴な東ヨーロッパそのものだった。今回の旅ではないが、同じ旧東側のポーランドはミュンヘンと同じく僕にとって思い出深い国。特にワルシャワは何度も訪れた。やっぱり東ヨーロッパはあか抜けてなくて、グッとくる。ソ連や共産主義っていう何とも巨大で独特な文化や思想、歴史に翻弄され醸成された、西側にはない悲哀みたいなものが魅力だと思う。

Tallinn
Tallinn
Helsinki

ヘルシンキに戻り、そこからドイツ行きのバルト海クルーズの客船を予約。この船ではバイキング(食べ放題)が目玉で、乗船と飯で1万円程度だったと記憶する。とにかく北欧の旅ではまともに飯を食べる余裕がなく、腹が減っていた。ということで、とにかくサーモンやらなんやらを食べまくった。食後の1時間は食い過ぎて席から立つことが出来なかったくらい、食べた。

ドイツに入った後はベルリンへ。ユースで出会った仲間と市内を巡った。誕生日はアメリカの大学のクラスメイトの韓国人女子とパリで待ち合わせていたので、そのままパリへ向かう。芸術学部の美術学生だった自分には、もうこれ以上ないくらいの数のアートと対面し、この目でじっくりと見て回ることができたのは本当に幸運だったと思うし、その後の人生に深く影響を与えた。

Berlin
Berlin

こうして2ヶ月に及ぶヨーロッパ一周の旅の全工程は終わりを迎えようとしていた。最後はノルマンディからフェリーに乗ってロンドンへ。ヒースロー空港からオハイオへ無事帰ることが出来ました。今回の旅で得た教訓は、適度な図々しさとユーモアを持ち合わせていれば、1人旅は最高に楽しくなるという事。色んな国の旅人たちとたくさん出会うことが出来たのはユーモアのセンスが多少でもあったからだと思うし、どんなトラブルに直面してもすぐに諦めずに図々しく食い下がったことで旅を継続することが出来た。この二つの要素が、今回の旅を成功させる大きな要因になったんじゃないかと思っています。

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