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バイアスは消すのではなく、利用する。

世界征服の野望のため、マインド・コントロールを勉強したい。

そういう目的で心理学系の記事や本を読んでいるとき、『バイアス』という言葉によく遭遇する。

『我々が耳にするすべては意見であり、事実ではない』

と言っていたのはアウレリウスだったか。

人には人の価値観というものがある。
そしてそれは百人いれば百通りのものだ。

でもこの『バイアス』はなんだか必要以上に、嫌われているような気がする。『優先排除対象』みたいなラベルを貼られて。

確かにものごとを客観的、俯瞰的に捉えるのは大事なことかもしれない。

でも僕はもう少し、この概念に寄り添ってみたい。


例えば僕がとんでもないバイアス、たとえば『他人がみな、じゃがいもか人参といった根菜に見える』というものに捕われていたとしよう。

それは人によっては「失礼だろうが。せめて葉物か果物にしたまえ」とお叱りの声があがるかもしれない。

叱られるものだから、僕は必死にこのバイアスをなんとかしようと努めてみる。

「これは人間、これは人間、これは人間」

しかし自分の中のバイアスを排除しようとすればするほど、「僕には他人が根菜に見えるのだ」ということが念頭にある。

ということは、ただそれを繰り返し言い聞かせているだけではないのだろうか。

それは緊張しているときに「緊張するな」と言われている感じに近い。

そんなもの、あんまり意味がないのではないか。


仮にそのバイアスを「根菜は人間」というものに変換できたとして。

僕はもう二度と、カレーや焼き芋を食べられなくなるだろう。

スーパーの野菜コーナーにも、人間が山積みにされているような気がして、近寄りがたくなるだろう。

畑に行けば『犬神家の一族』のあのシーンよろしく、地面から突き出た両足がおびただしく列をなしているような光景があるはず。

善良な農家の方々を、大量殺人鬼よばわりは本意ではない。


だから僕はむしろ、このバイアスを上手く使いこなすことができればいいなと思う。

他人がすべて根菜に見えるのなら、大勢の前に出ても緊張しないだろうし、芽が出て色が変わってしまっているものは有毒なので避けられる。

自分だけのスタンド能力みたいなイメージで。

それを上手く利用できれば、きっと自分にしかできないことができる日がくるだろう。

そう、例えば、世界征服とか。

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