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『人に迷惑をかけるな』とかいう無理難題。

僕は幼少期、狼に育てられ、小学生くらいの年頃にはもう狩りができるようになっていた。

そんな僕にも、耳が痛いほど聞かされた言葉がある。

『人に迷惑をかけるな』

残念ながら当時の僕は、そう言われて泣き寝入りするか、満月の下で遠吠えをするかしか選択肢がなかった。

しかし今はこう思える。

『それって、どだい無理なことなのでは?』

それをわざわざ言ってくること自体、僕の自由意志を奪って迷惑になってるじゃんw、という冷笑的な考えはひとまず置いておくとして。


例えば僕が幼いころ、狩りが苦手で仕方なく人里におりて家畜の鶏の卵を盗んだとしよう。

これは当然、農家の人からすれば迷惑千万だ。

あるいはそれを売る小売業、それを買ってプリンを作ろうとしていたパティシエ、そのプリンを食べて日々の疲れを癒そうとしていたビジネスマン……etc。

というふうに、いろんなところにしわ寄せがいく。

でもこれはしかたがないことだ。
僕が生きるためには。


あるいは僕が大人になって、そのころの自分と恵まれない国のこどもたちを重ねて募金をしたとしよう。

しかしその慈善活動にも、迷惑を被る人がいるかもしれない。

例えばそういったお金を運ぶ人たちは、僕のせいで運ぶ荷物が重くなる。

その人はその荷の重さで最後の集中力を使い果たし、休憩中に飲んだジュースの空き缶を捨て忘れる。

その捨て忘れた空き缶を踏んで、ころんだ人が頭をうって、記憶喪失になる。

記憶喪失になったその人は、実は医者だった。

彼が受け持っていた患者たちは、別の医者の順番を待つか、他の病院に行くかという過酷な選択肢を迫られることになる。


募金をする、という一見無害な行為にも、これだけの迷惑を引き起こす可能性がないとは言い切れないのだ。

それなのに、頭ごなしに『迷惑をかけるな』というのは、あまりにも一方的だと言わざるを得ないだろう。

その言葉を鵜呑みにしてしまえば、何もできなくなるではないか。


僕だって、できることなら部屋で一人、読書やら映画鑑賞やらゲームやらだけして過ごして生きていたい。

でもそれは死んでいるのと同じだ。

なにより、自分という人間に迷惑をかけている。

生きるということは誰かしらに迷惑をかけるということなのだ。


という記事で今日もnoteさんに迷惑をかけていきます。
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