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江國香織さんの『流しのしたの骨』を読んで、こんなにも歪んだ家族の肖像を、こんなにも平熱で穏やかに描ける作家はほかにいないよと思った。
僕には4歳年下の妹がいる。
今では、たまにLINEで連絡を取り合うくらいで、ほとんど会うこともないのだけれども、それでも幼い頃から続く「親密さ」は一向に消える気配がない。
僕はほとんど自覚がないが、妻が言うには、僕は妹に対して信じられないくらい優しいらしい。
だからだろうか、僕が何年かに一度、妹とふたりきりで会う日、妻はなんだかとても不機嫌に見える。
たったひとりの妹なんだから、仕方ないじゃないか。
そう自分を弁護する一方で僕は、妻が不機嫌になる理由も、なんとなく分かっていたりもする。
恋人とも夫婦とも幼なじみとも違う、兄妹だからこその閉じられた「親密さ」は、それが濃密であればあるほど、外から見たときに苛立たしく感じるというのは、なんとなく分かるから。
江國香織さんの『流しのしたの骨』を読んでいると、そういう家族内の「閉じられた親密さ」がたびたび出てきて僕をたじろがせる。
江國香織さんの小説だから、その親密さにうっとりさせられることの方が多いのだけれど、うっとりしながらも僕は、一方で奇妙な居心地の悪さも同時に感じてしまう。
まるで、僕と妹の関係が、背徳的なものであると指差されているような。
未読の方には注釈が必要かもしれない。
本書は、三姉妹と「私たちの小さな弟」による、四人姉弟の物語である。
設定として背徳的な要素はゼロに等しい。
むしろ、健やかな家族愛を描いた作品という読み方が妥当だろう。
それでも、なお、この作品が放つ背徳感と不穏さにこそ、僕が江國香織さんの作品を愛する理由があるわけで、こんなにも歪んだ家族の肖像を、こんなにも平熱で穏やかに描ける作家はほかにいないのでは、と思う。
僕の妹は、世間から見たらかなり変わっているみたいだけど、僕は妹を「変わっている」と思ったことはない。
僕は世間から見たらかなり変わっているみたいだけど、多分、妹は僕のことを「変わっている」と思ったことはないだろう。
つまり、兄妹というのは、そういうものなんだって僕は思うんだけど、それを家族以外の人に理解してもらうのは無理な話なんだってことを知ってしまった寂しさを描いた作品が、この『流しのしたの骨』なんだと僕は思っている。
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