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なぜわざわざ時間をかけて人生インタビューをするのか?

<教訓を引き出す>

人間の脳は、勝手に物語を引き出してしまう機能を持っています。物語をものの見方とか教訓と言ってもいいかもしれません。

あの出来事は私にとってなんだったのか、なぜあんなことをしてしまったのか、きっと未来はこうなるだろう、もしこうだったら今頃は・・等々。

どうして僕らは物語を引き出すのでしょう?

僕らにとって重要なのは今も昔も現実を正しく見ることではなく、生き残る見方をすることだからです。

その証拠に、ぼ たちはこうした不⚪︎全な文章も読てめしまう。

過去に習得した単語や文法規則がここでも成り立っていると勝手に想定して空欄を補ってしまうのです。

現実の世界において、似たような事象はいくらでもあるけれど、まったく同じ事象は存在しません。

僕らは現実という無意味で膨大な情報のなかから、ほんのわずかな情報を抜き取り、つなげ、意味を見出し、教訓を引き出し、次回似たことに出くわしたらそれ以外の整理の仕方をしないですむようにしようとする。

学びを引き出し、似たような事例にも当てはめてしまう性質がなければ、僕らは経験を蓄積できないし、言語も使えないのです。

<過去と未来を塗りかえる>

僕らの現実を理解するやり方は非常に柔軟ではあるけれど、時に硬直的になることもあります。

たとえば、ある人が過去の出来事(のいくつか)から「私が人に好かれることはない」という教訓を引き出していたとしましょう。

そうすると、この人はそれを証明するための出来事ばかりを過去からも現在からも拾うようになる。

それだけではなく、どうせ惨めになるだけだからと異性と話すことや顔を合わせることに消極的になるかもしれない。

異性に好意を向けられても気づかなかったり、騙されているだけだと感じてしまうこともありえる。

本当にこの人が好かれていないのか、好意に気づいていないだけなのか、はたまた好かれるわけがないという前提でするふるまいが他人を遠ざけているのかは永遠に試されない。

引き出した教訓が未来だけでなく、過去、そして現在の見え方を塗りかえ支配してしまう働きはこのように現れます。

<自己理解はなぜ求められる?>

先に見たように、教訓は過去も未来もぬりかえるわけですが、それが人生が終わる頃まで続く可能性もあります。

このことを踏まえると、自己理解が大事とか、内省する時間を持とうとか言われるのも納得です。

つまり、未来の選択を変化させるには、別の事実を抽出して、未来に生かす教訓を変えるしかないからです。

先ほどの人物なら、たとえば過去に何度かはあったであろう親密な関係や親しげなコミュニケーションを具体的に思い出してもらうとか、自分がずっと誰かと親しく話してみたかったのだが行動には移していなかったことに気づいてもらうことが必要と思われます。

当時に戻って現場検証をするように、あるいは再現ドラマを作るための取材をするようにして、ひろいそこねていた情報を集めることで違う教訓を引き出すのです。

教訓が変わることによって頭の枷が外れれば、描く未来が変わる。新たに描いた未来の方がリアリティを持って感じられるようにすらなる。

過去を振り返り「実はあの出来事はこういうことだった」と解釈し直すことで未来に質の違う選択を取れる可能性が生まれるのです。

<人生を他者に語り直す>

自分の思い込みを一人で発見するのは難しい。

たいてい、誰かと関わることで感じたことや、関わった相手に向けられたツッコミや質問があって、立ち止まって考えざるを得なくなることで気づくことになります。

他者には、最初から自分が使っているフィルターなど備わっていません。

だから、もし他者に自分の過去を語れば「なんでそうしたの?」「本当にそうだったの?」「本当はこうだったんじゃない?」とツッコミを入れられる可能性があります。

ツッコミを入れられれば、考え直し、新たに見つかった(思い出した)事実も加えて別のストーリーを紡いで納得させなければなりません。

それを繰り返すうち、人を納得させるストーリーが形作られていき、同時に僕らは自分自身も説得し切ってしまう。そういうところが人間にはあります。

自分が好かれることはないと思っていた人が

「私は実は人に好かれなかったらどうしようと怖がっていたんだ。がんばったのに好かれないのが怖いから、これなら仕方ないって自分でも納得できるふるまいをしてきたんだ。それで孤独を募らせて辛い気持ちにもなって・・」

と言うようになったりする。嫌われ者の物語が、臆病者の物語に変質したわけです。これでもまだネガティブですけど。

でも友人がここでさらに
「愛を求める本能って最強なのにね。みんなが負けてしまう欲望に抗って
信念を貫き続けてきたのか。どんだけ忍耐強い不屈の精神の持ち主だよ。勇者もびっくりだわ」

くらいのことをいえば、前進する道がひらけてくるかもしれません。

<今年何回語り直した?>

現代人は忙しい。仕事相手(仕事道具)にも、スマホやパソコンの画面にも対峙していない時間はせいぜい寝ている間くらいしかないかもしれません。

暗くなれば何も生産的な仕事ができず、何時間もぼーっとするとか、何か考えるとか、人と雑談するしかなかった時代とは違います。

僕らはたぶん、内省や自分語りの時間が昔より減っている。

この1年を振り返ってみてください。

自分の人生全体を幼少期からさかのぼって人に話した(そしてとことん質問された)経験が果たしてどれくらいあるだろうか?

こんな話をしている僕も3回か4回くらいだと思います。

回数だけが重要というわけではないけれど、もし少なすぎるかもと思ったら、他者に過去を語り直すことによって自分がまだ引き出せていない力を見つけられるかもしれません。

ちなみに面白ベースには、ふだん取材と執筆を仕事にしているクダカが日中のあいだ常駐していて、いつでも話を聞きます。

<質問するのが仕事の人が常駐する場所>

これを書いている僕(クダカ)は、編集者・ライターとして仕事をしており、お客さんに質問して話を引き出し言語化するのを生業としています。

そんな僕が日中常駐し、対話する施設が面白ベースです。

会員学生がふらっと立ち寄れるよう、富山大学の真向かいにオープンしました。

興味あればTwitter・Instagramで久高諒也を探し、DMからぜひ僕に連絡を。



今日の執筆者:クダカ

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