#連載
夏の風の神、パンに祈るために 第12話/完結
夕希ちゃんは思っていたよりも綿密に計画を立てていた。「久野さんをディナーに誘い出す」という役目はかなり緊張したが、彼は近所にラーメンでも食べに行くような気軽さで了承してくれた。それがあまりにもさっぱりとした返事だったので、本当に伝わっているのか心配になったが、二人の住む家へ迎えに行って扉を開いた瞬間、壁に掛けられたジャケットを見て、その不安も一気に吹き飛んだ。
「素敵なスーツですね」
「ああ
夏の風の神、パンに祈るために 第11話
病室での宣言どおり、夕希ちゃんは一人で職業安定所へ通うようになった。職歴のない彼女はとりあえずアルバイトから始めることにしたそうだが、「相貌失認」というハンデを背負いながらの職探しは、極めて難しいようだった。
しかし、夕希ちゃんは諦めなかった。失明の恐怖と戦う久野さんを懸命に介護しながら、閉ざし続けていた心を無理やりこじ開けて、たくさんの面接をこなしていった。
そうして、街が秋色に染まる頃
夏の風の神、パンに祈るために 第10話
文中に「元気」の二文字を確認し、少しだけ緊張が和らいだ。想像しうるなかで最悪の事態は消滅したので、心は少し軽くなったが、だからといって久野さんの容態が気にならないはずがなく、その日の勤務は輪をかけて魂が抜けたようだった。
K病院は無料バスのルート外にあったが、それを気にする余地もなく、タクシーを使って二人の元へ駆けつけた。
壁にかけられた名前を確認し、「原田です」と一声かけて戸を引くと、目
夏の風の神、パンに祈るために 第9話
彼らは時間ぴったりに現れた。今日のユキちゃんはいつもと違い、淡い水色のカーディガンにキナリのシフォンスカート姿で、久野さんは髪をおろし、いつもよりずっとカジュアルな格好でいた。
「待たせてしまったみたいで申し訳ない。さあ、行こうか」
リネン素材の白シャツがふわりと香る。それに続いて、ローヒールのパンプスがコツコツと控えめな音を立てた。そんな高貴な二人の後を、履き古したスニーカーが慌ただしく
夏の風の神、パンに祈るために 第8話
あの日、すべてを乱してしまったという罪悪感は、逃れられない鎖となって、私の心を締め上げた。目の前の霧は晴れるどころか、雷雲へと姿を変えてあらゆるものをぐちゃぐちゃにしてしまった。
世界はきっと「許される者」と「許されざる者」の組み合わせで回っている。前者は、日頃から嫌悪感や悪意のような「嫌なもの」が自然と出せる人間であり、それらをなかったことにしようと飲み込み続ける人間が後者にあたるのだろう。
夏の風の神、パンに祈るために 第7話
世間が夏休みの期間に入るとフードコートも一気に賑わうため、ヘルプが入って人員が増える。バックルームのドアを開けると、伊澤さんがタイムカードの置かれた机でよれた化粧を直していて、今日から遅番が二人体制になったことを思い出した。
「ああ、原田さん。おつかれさまぁ」
伊澤さんは手鏡から顔を逸らすことなく、雑に挨拶をした。感情が一切込められていない声はひどく無機質なものだったが、今の彼女は浮いたフ
夏の風の神、パンに祈るために 第6話
働きながら頭に浮かぶのは、いつも久野さんとユキちゃんのことばかりで、職場の環境が少しずつ変わり始めていることに気付くことができなかった。
その異変をようやく感じ取ったのは、伊澤さんが珍しく早退したときのことで、その日の彼女は中番だった。引き継ぎの際に聞いた話によれば、大学から「娘さんが病院に運ばれた」との連絡があったらしく、しばらく看病が必要で出勤することが難しいという伊澤さんのために、勤務
夏の風の神、パンに祈るために 第5話
あれから時折、仕事中に久野さんが演奏する姿を想像することがあった。しかし、脳裏に浮かぶのは彼の運指ではなく、落ち着きのある声から連想される柔らかな旋律だった。彼の作り出す音は、きっと彼の声質と似ているのだろう。私は、聴いたことのない音色を思い描くたびに、「人によって感覚器の感度は違う」という言葉を思い出していた。
「違い」とは、私にとって個性の定義だった。長年、劣等感を抱き続けてきたために、「
夏の風の神、パンに祈るために 第4話
「原田さんは、消しゴムを使ったことがありますか?」
それは、あまりに普遍的で「なぞなぞのひとつだろうか?」と勘ぐってしまうぐらい、不思議な質問だった。
「ええ、ありますよ」
対して私の出した答えは、質問と同じように何の捻りもない回答だった。これは冗談に通ずる問いかけだったのかもしれないが、ふざけた答えを出すことは性格上できなかったし、それはとても失礼なことのように思えた。
ユキちゃん
夏の風の神、パンに祈るために 第3話
その日以来、プライベートの場で二人と会う機会はなかなか訪れなかった。時折、フードコートで言葉を交わすこともあったが、彼らはいつでもよそよそしさを崩さないのだった。
しかし、それは決して不快なことではなく、彼らなりの気遣いなのだと理解していた。異端であることを自覚している彼らは、他人を巻き込まないことを絶対条件として行動しており、固くて冷たい殻を何重にも被って、己が人と深く交わることを頑なに許さ
夏の風の神、パンに祈るために 第2話
翌日の二番手である金子さんは、私が最初のごみ袋を交換している段階で、すでに濡れ布巾を絞っていた。
「おはよう、だっちゃん。見たわよ、昨日あの二人組さんと話してるところ」
当然といえば当然のことだが、彼らのことを意識している人間は多い。後ろめたい会話はしていないが、心の奥が少しだけむず痒くなった。
「どう? やっぱり変わり者だったんでしょう。だって、こんなところに毎日通っているんだもの」
夏の風の神、パンに祈るために 第1話
机の上に消しゴムが並んでいる。使い古されたもの、真新しいもの、様々な形の消しゴムが皆、こちらを向いて規則正しく並んでいる。消しゴムたちにはカバーが付いている。各社が頭をひねったコピーやネーミング、あるいは可愛らしいデザインが、消しゴムたちを優しく包んでいる。
これらのカバーをすべて外したとき、果たしてあなたは彼らを見分けることができるだろうか。
大型ショッピングモールのフードコートは、人間