夏の風の神、パンに祈るために 第6話
働きながら頭に浮かぶのは、いつも久野さんとユキちゃんのことばかりで、職場の環境が少しずつ変わり始めていることに気付くことができなかった。
その異変をようやく感じ取ったのは、伊澤さんが珍しく早退したときのことで、その日の彼女は中番だった。引き継ぎの際に聞いた話によれば、大学から「娘さんが病院に運ばれた」との連絡があったらしく、しばらく看病が必要で出勤することが難しいという伊澤さんのために、勤務計画は大幅に変更されることとなった。
早番から中番が基本だった私は、遅番へ回ることが多くなり、見慣れない学生スタッフと勤務の重なる機会が増えた。そのため、伊澤さんや金子さんと話すことは前より格段に少なくなったのだが、私は久野さんやユキちゃんとカフェで落ち合うことが難しくなってしまったことばかり悔やんでいた。
二人は相変わらずショッピングモールへ通い続けているようで、遠目に姿を見かけることはあったが、以前のようにゆっくりと話をする機会はなかなか訪れなかった。
絶えず賑やかな職場の中にいながら、心はずっと寂しくて、そんな空白を埋めるように、様々な絵画や音楽に触れた。
伊澤さんも復帰して従来のシフトに戻り、やっと三人で話すことができたのは、七月も半ばを過ぎて、暑さが本調子を迎えた頃だった。約束の時間より少し遅れて落ち合うと、いつもブレンドばかり飲んでいた久野さんはアイスコーヒーを手にしていた。
「お久しぶりですね」
ほんの少しの空白だったが、二人との再会は感極まるものがあり、胸がいっぱいになった。こちらから聞きたいこと、話したいことはいくつもあったけど、それはユキちゃんも同じだったらしく、彼女はほとんど会話の主導権を握り、驚くほどよく喋った。
相槌ばかりだった彼女が自ら話題を振ってくれることがたまらなく嬉しくて、ちらりと久野さんを伺うと、目を合わせてニッコリ笑った。
それは喜びを共有できたことの証であるようで、じわりと目が潤んだ。
「最近は、絵を描くときにドビュッシーを聴いています。特に、アラベスクの第一番を聴いていると、霧が晴れていくような気持ちになるの。ポロポロとつながる音が、私の前に立ち込めている霧。それがどんどんほどけていって、私はやっと、綺麗な景色を見ることができるんです」
ユキちゃんはそう言って、照れ臭そうに笑った。私は改めて、彼女が絵を描く姿を想像した。霧が晴れた先にある風景を、ユキちゃんはどのように描くだろう。
そうして私は「印象派のアーティストは皆フランス人であった」という発見を報告した。それはひどく素人的な発見だったが、二人は何よりも偉大なことのように、丁寧に褒めてくれた。
また、ユキちゃんは「とあるアパレルショップで満足のいく買い物が出来た」という話もした。そこはモール内でも過度な売り込みを行うことで知られる店舗だったので、私は少し驚いた。
「でも、あのお店はちょっと接客がしつこくない? 私はなんだか気を遣っちゃって苦手だなぁ」
嫌味にならないよう注意して、決まりが悪そうに苦笑してみせると、彼女は同意するように微笑んで、さらに意外な答えを返した。
「よそに比べたらガツガツしているかもしれないですね。でも、私にはあれくらいの方がちょうどいいんです」
彼女に近いもの、特に対人スキルに似通ったものを感じていた私は、その意外性に驚愕して思わず声を上げた。そうして口から出てしまって、「ああ、しまったな」と後悔したが、ユキちゃんはなんでもないように続けた。
「私、顔が覚えられないでしょう。だから人見知りではあるけど、一対一で接客されるのは嫌いじゃないんです。特に服屋さんは店員さん側が私を覚えてくれるから、私は相手のペースに任せるだけなの。楽ですよ」
そう言われて、私はアパレルショップでの光景を想像した。確かに客側は店員の顔をいちいち覚える必要はない。適当な店員を選んで声をかけさえすれば、あとは店員が客を覚えてぴったりとついてきてくれる。そのような接客方法を煩わしいとさえ思っていたが、顔の判別ができない彼女にとっては、何より親切なサービスなのだろうと思えた。
「ユキちゃんはありがたいお客様だね。店員としては接客する甲斐があるよ」
わからないことが多い中で、明確な事実としてあること。それは、彼女が生きている場所が、想像を絶する世界だということだった。私は寄り添っているつもりでいながら、その実、何も知らなかった。
恐らくは視力の悪さから生じるものとは違う、ぼんやりとした世界が彼女には見えている。人の顔だけでない、街並みも自然の風景も、すべてが淡くおぼろげに映っているのだ。平面的な印象派の絵画と一緒で、彼女の世界にはパースが存在しない。その為くっきりとした陰影が彼女にはわからず、奥行きを捉えることも格段に難しいのだ。
図書館で最初に借りた画集の、表紙に描かれていた「日傘をさす女」。この有名な絵画を制作した後、モネは二枚目、三枚目の「日傘をさす女」を描くのだが、そのどちらも女性の顔が描かれていない。おそらくユキちゃんが見ている世界はこれに近く、きっと一枚目よりも強く親近感を覚えるのではないだろうか。
そういえば、私は文庫本のカバー以外にユキちゃんの描いた絵を見たことがなかった。久野さんの言っていた「プッサン・エ・ロラン」のバックナンバーはいくつか図書館で見つけることができたが、どの表紙もパキっとした油絵ばかりで、水面に溶けたような淡い水彩画は載っていないのだった。
「実は今、コンクールに向けて大きな絵を描いているんです。出来上がったら、一番に原田さんにお見せしますね」
だから、ユキちゃんがそうおしえてくれたとき、私は飛び上がるほど嬉しかった。久野さんの方を見ると、彼もまた嬉しそうな顔をして、コーヒーカップを片手で揺らし、中に小さな渦を作っていた。
「それは素晴らしい計画だ。では、私も原田さんをコンサートに招待しようかな」
「いいんですか?」
「ああ。実を言えば、どのように誘えばいいものか考えあぐねていたところだよ。ユキと一緒に聴きに来てくれるかい?」
「ええ、もちろんです」
これは夢じゃないかしらと、頬をつねりたくなる気持ちだった。久野さんはすでにチケットを用意していて、丁寧に包装されたその一枚を私に渡すと、「約束だよ」と念押しした。
<続く>
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