夏の風の神、パンに祈るために 第7話
世間が夏休みの期間に入るとフードコートも一気に賑わうため、ヘルプが入って人員が増える。バックルームのドアを開けると、伊澤さんがタイムカードの置かれた机でよれた化粧を直していて、今日から遅番が二人体制になったことを思い出した。
「ああ、原田さん。おつかれさまぁ」
伊澤さんは手鏡から顔を逸らすことなく、雑に挨拶をした。感情が一切込められていない声はひどく無機質なものだったが、今の彼女は浮いたファンデーションを直すことの方が大事なのだからしょうがない。なるべく邪魔にならないようこっそりと打刻し荷物を置くと、ドスン、と派手な音がした。
伊澤さんは一瞬手を止めたが、すぐにパフを持ち直して「やだあ、何が入ってるの」と苦笑した。
「ちょっと図書館に行って、重たい本を借りてきてしまって」
「あら、広辞苑でも借りたの?」
伊澤さんは茶化すように笑ったが、さして興味はないようだ。それを強く感じながらも、私は律儀に答えてしまう。
「いえ、画集を借りたんです。勉強したくて」
後悔するよりも早く、ファンデーションのケースを強く閉める音がぱちんと響き、オーバーなため息が後に続いた。
「原田さんって本当、真面目よねえ。履歴書通りのお堅い趣味、って感じ。『絵画鑑賞』の次は『音楽鑑賞』、それとも『読書』かしら?」
彼女に悪気はなく、冗談のつもりで呆れたふりをしているようだった。それは伊澤さんがよくやる仕草の一つでもあり、これまでさして気になるものでもなかった。しかし、何故だろう。あの二人と話すようになってからは、些細な軽口もいちいち胸を引っ掻くようになっていた。
伊澤さんだけではない、金子さんに対してもそうだ。今までならば気にならなかった、いや、気にならないふりをしていたことが、「嫌なもの」として口の中に残り、最近どうにも飲み込めなくなってきた。それはまだ小さくて、外に溢れることはないが、これがどんどんと大きくなっていって、さらに強靭な「嫌なもの」となり、いつか口の中を飛び出してしまうのではないか、と考えるだけでひやひやする
「真面目だなんて、そんなことないですよ」
また少し大きくなった「嫌なもの」を舌の裏に隠し、私は精一杯の愛想笑いでそれに応えた。
八月が終わるまでの間は、閉店まで伊澤さんと二人でいるシフトがメインとなり、三人でカフェに集まる頻度は減る一方だった。私が出勤する時間帯には人波もいくらか落ち着いているが、日中の混雑ぶりは想像を絶する。限られた席をより多くの人に譲るためか、それぞれの発表に向けて作業をしているせいか、夏休み期間に久野さんたちがフードコートを訪れることは滅多になかった。
そうして、お盆に入った頃ぐらいから、伊澤さんが挨拶をしなくなった。増員シフトが定着してからは、伊澤さんが私よりも一、二時間早めに出勤することが多かったのだが、以前は作業中でも挨拶を返してくれていた彼女が、近頃は視線すら合わせてくれない。目立って親しかったわけではないが、仲が悪いつもりもなかったから、そんな伊澤さんの態度がただただ悲しかった。
言葉を交わすのは伊澤さんが「指摘」をするときだけだった。皆が横向きに貼っているセロハンテープを縦向きに貼った、チェック表の押印が曲がっている、など、彼女は些細なことをじっくりと念入りに責めあげる。それらの「指摘」はどうしても八つ当たりにしか感じられず、伊澤さんの身に良くないことが起こったのは確かだった。一部では娘さんの入院が望まれない妊娠によるものだという噂が流れていたが、もしそれが事実であったとしても、プライベートの不穏で態度をコロコロと変えられては非常に困る。だが、彼女は自分の気持ちをストレートに表現する人間であるのと同時に、ひどく冷めやすい人間でもあった。だからこの不機嫌も一過性のものだろうと高をくくり、ひたすら無心で聞き流すようにしていた。
しかし、世間が帰省やレジャーのピークを終えた頃、恐れていた事態が起きてしまった。
それは午後七時頃、私が冷水機横のテーブルを拭いているときだった。伊澤さんはお客様側に背を向けて冷水機に付属する紙コップを補充しており、周りが見えていなかったらしい。次の給水所へ補充に行こうと振り向いた瞬間、一組のカップルにぶつかってしまった。
男性がトレーに乗せていたラーメンは衝撃でひっくり返り、連れの女性のスカートにスープが飛び散る。
「おい! どこ見てんだよババア!」
激しい怒号でやっと状況を飲み込んだ伊澤さんに対し、すべてを目撃していた私は、応急処置としてポケットに入れていた予備の布巾を差し出した。しかしそれは、かえって男性の逆鱗に触れてしまうこととなった。
「あんたそれ、机拭いてたやつだろ。そんな汚いやつで拭けってか?」
伊澤さんはひたすらに頭を下げていたが、すでに男性の怒りは上書きされてしまっていて、矛先は私の方へと向かっていた。
「客の服汚しといて、雑巾出すとか最低だな。何、俺らのことナメてんの?」
「申し訳ございません! ですが、この布巾は未使用のもので……」
パニック状態になってしまい、つい余計な一言を口走ってしまう。言いかけて、自分でも失態に気付いたが、すでに手遅れだった。
「はあ、口答えすんの? 俺ら被害者なんだけど。あんたもういいわ、責任者呼んで」
ただならぬ気配に気付いたのか、冷水機の手前にある牛丼チェーンの店員が内線をかける。駆けつけた警備員に事情を説明し、改めて謝罪の言葉を述べると、男性はめんどくさそうに舌打ちをした。
「マジ最悪。この店、二度と来ないから」
彼はそう吐き捨てると、椅子を強く蹴り飛ばし、女性の手を引いて、振り向ことなく立ち去った。後に残された警備員は、メモを取りながら私たちに強く釘を刺した。
「今回の件は本社の方に報告をあげさせてもらいます。いやあ、もうちょっと周りを見てもらわないと。接客業は何よりもお客様の信用を落とすことが怖いんですからね」
しきりに頭を下げるが、警備員は煩わしそうにこちらを一瞥して、乱暴にメモをしまった。
「まあ、次は無いようにしてくださいよ。床の清掃、消毒まできちんとお願いしますね」
そう言うと、彼は気怠げに頭を掻きながら警備室へと戻っていった。私はその背中をぼうっと見送っていたが、伊澤さんの声ではっと我に返った。
「いくら使ってないからって、掃除用の布巾を渡されたら誰だって怒るわ。それに、ああいうときは言い訳とかしちゃダメよ。低姿勢でとにかく謝り続けとくの」
元はといえば伊澤さんの不注意が原因なのに、何故か私だけが怒られていた。すぐにそれはいつもの「指摘」だと気付いたが、その日はどうしても、いつものように聞き流すことができなかった。
「すみません。でも、そもそも伊澤さんがお客様とぶつかってしまったから、こういうことになったんだと思うんですけど……」
力ないボソボソとした抗議が苛立ちを増加させたのか、伊澤さんは目を細め、うっとおしげにこちらを睨みつけた。
「原田さん、私だけが悪いとでも思ってるの? あなたが適切に対処していたらこんな大げさなことにはならなかったのよ。だからこうやって注意してあげてるんじゃない」
平日の閉店間際ということもあり、周囲に人の気配はなかった。そのため伊澤さんの声はいつもより大きく、鋭く尖っていた。
「金子さんも他のスタッフも、あなたに何も言わないでしょう。そうやってすぐに言い返すから、みんな見捨てているのよ。私が注意しなくなったらもうおしまいよ。誰もあなたのことなんて気にかけていないんだから」
私が他のスタッフに苦言することなど、ただの一度もなかったというのに、怒りに身を任せた伊澤さんは暴言を吐き出し続けた。心に放り込まれた悪意は、水紋が広がるようにじわじわと胸を痛めつける。
「私はあなたの為を思って言ってるの。なのに、そういう態度をとるのね。だからあなたは成長できないの。自分で自分の首をしめているのよ」
彼女の「指摘」は止まらない。いつしか伊澤さんの姿は、黒く立ちこめるモヤのように映っていた。
『アラベスクの第一番を聴いていると、霧が晴れていくような気持ちになるの』
ふと、脳内にユキちゃんの声が響く。そうだ、早くこの黒い霧を振り払わなくては。心の中でそう思ったのと同時に、飲み込めずにいた「嫌なもの」が勢いよく口を飛び出していった。
「どうして伊澤さんは『ありがとう』や『ごめんなさい』が言えないんですか? 私は私なりに、伊澤さんのフォローをしようとしたんです。結果としてお客様を怒らせてしまいましたが、だからといっていきなり怒るのはおかしいと思いますよ。伊澤さんだけが悪いわけじゃないですけど、もっと他に言い方があるんじゃないでしょうか」
おとなしいはずの相手から反撃が来るとは想定していなかったのか、伊澤さんは驚いた顔をして、こちらをじっと見つめていた。
「金子さんのお土産だってそうですよ。せっかく買ってきてくださっているのに、『あれは嫌いだから』とか『こういうのは好みじゃない』とか、いつも好き嫌いばっかり言って。どんなことでもまずは『ありがとう』の気持ちが大切なんじゃないですか?」
すべてを吐き出して、真っ黒な霧は晴れるはずだった。だが辺りは変わらず澱んでいて、漂う空気はいっそう尖るばかりだった。
「ふうん……」
伊澤さんは表情一つ変えず、冷水機が乗ったキャビネットの扉を開く。そこから「清掃中」のフロアスタンドを取り出すと、力強く床に叩きつけた。そうしてわざとらしく、「すみませんでした」と謝罪すると、閉店まで口を開くどころか、目線さえ合わせようとはしなかった。
報告を受けた担当コーディネーターの指導により、以後、伊澤さんとシフトが重なることはなくなった。私は早番が基本となり、中番は金子さん、伊澤さんが閉店までという勤務形態に変わったのだ。シフトが変更されてすぐ、金子さんは二人のギスギスとした空気に気付いた。
「ねえ、だっちゃん。わっちゃんと何かあったの?」
最初は遠慮がちに尋ねてきた彼女だったが、そのうち気にする素振りも見せなくなった。おそらくは私が曖昧な返事でぼかしているうちに、伊澤さんから偏った情報を収集したのだろう。いつのまにか金子さんまでもが、私と距離をとるようになっていた。
<続く>
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