夏の風の神、パンに祈るために 第3話
その日以来、プライベートの場で二人と会う機会はなかなか訪れなかった。時折、フードコートで言葉を交わすこともあったが、彼らはいつでもよそよそしさを崩さないのだった。
しかし、それは決して不快なことではなく、彼らなりの気遣いなのだと理解していた。異端であることを自覚している彼らは、他人を巻き込まないことを絶対条件として行動しており、固くて冷たい殻を何重にも被って、己が人と深く交わることを頑なに許さなかった。
そうやって絶妙な距離を置く二人に対し、私は言いようのない親近感を覚えていた。年代も境遇も違う二人に何故こんなにも近しいものを感じるのか、本当のところはよくわからない。だが、二人と自分は同じ位置にいて、同じ心を持っている、という根拠のない自信だけが、心の中に存在していた。
考え事をしていると、時間が経つのは早い。退勤時間が迫る中、ふと、彼女がカフェで手にしていた文庫本が頭をよぎり、借りていた本の返却期限がすっかり過ぎてしまっていることを思い出した。
このショッピングモール内には三つの出入り口があり、それぞれ東口、西口、中央口と名前がついている。飲食店街を抜けた先にある中央口にはバス停が併設されていて、普段は路線バス専用の停留所だが、平日に限り、駅までの無料巡回バスが運行している。仕事帰りに図書館へ行く際、利用するのは大抵このバスで、次の発車時刻は十五時十五分だった。
鞄の中に本があることを確認し、ギリギリでバスに乗り込むと、車内は思っていたよりも空いていた。少し走っただけで額にうっすらと汗がにじむ。もう夏が来るんだな、と窓に目をやるのと同時に、発車オーライの声が聞こえた。
バスは一度も停まることなく、「第二公園」「南団地入り口」「市役所前」と、どんどん進んでいった。流れる景色をぼんやりと眺めていると、本当はショッピングモールと図書館以外存在しないのではないかとすら思えてくる。あるいは、回転していく建物はすべて作り物で、瞳に映されるために存在する、風景のひとつに過ぎないのかもしれない。
ピンポン、とベルが鳴って我に返ると、正面のLEDビジョンに「次は中央公会堂」の文字が浮き上がっていた。ああ、良かった。私は胸をなでおろす。歩道にはまばらながら、歩く人の姿があって、一人一人が道路という血管を流れる血球のように見えた。街は脈を打っていて、確かに生きているのだ。
その後もバスにしばらく揺られ、図書館前の停留所で降りると、晴天だった空が少し曇り始めていた。クヌギやナラが植えられた敷地内は、さながら森のようになっていて、入り口はいつもよりひんやりとして見えた。
曇っていようと気温は高く、湿度もあいまって、私はべたべたとした気持ちの悪い汗をかいていた。だからかもしれないが、入り口へと続くスロープの壁に貼られた掲示物を眺めてみたくなった。木陰がそよそよ揺れているのがたまらなく涼しそうで、自然の風に当たるついでに、ちょっとのぞいてみよう、という気持ちになったのだ。
「あ……」
大小さまざまなチラシが貼られている中で、私の目は一枚のポスターに釘付けになった。それは十一月に行われるファミリーコンサートの告知で、参加するピアニストの欄には「久野 寛」と記載されていた。
顔写真はなかったが、名前の横にはローマ字で「ヒロシ・クノ」と添えられており、簡単な経歴が載っていた。曰く、「久野寛」という人は、主に式場などで生演奏を行う「ブライダル・プレイヤー」として活躍しており、著名なホテルのラウンジで演奏を行ったこともあるようだ。記載された生まれ年から換算した年齢に当てはめて考えると、彼と同一人物である可能性は大いにあり、私はほんの少しだけ、彼が演奏する姿を思い浮かべてみた。
次に職場で出会ったら、二人に声をかけてみよう。そう決意してはじめて、自分がこれまでずっと受け身でいたことに気が付いた。どんなことでも自分から働きかけないかぎりは何も始まらない。それは何気ないことのようで、とても大きな気付きだった。
一度勇気を出してみれば、あとは意外とすんなりいくもので、私は無事、いつものコーヒーショップで二人と落ち合う約束をとりつけた。緊張のあまり、到着したのは約束した時間の十分前で、当然二人の姿はなかった。あっという間に過ぎ去った数日よりも、予定時刻までの十分間の方が遥かに長く感じるのは、ひどく不可解でもどかしい。はやる気持ちを忌々しく思いながら、私はただ、時が過ぎるのを待っていた。
「やあ。お待たせしました」
二人は今日もさくらんぼのように寄り添い、朗らかな笑顔を見せていた。私は驚いた。彼だけでなく、彼女もまた、うっすらとした微笑みを浮かべていたのだ。
「このあいだは不愛想にしちゃってすみませんでした」
彼女はほっそりとした声を、コロコロ鳴らすように話した。前回会ったときよりも随分と親しげで、それは嬉しいことのはずなのに、私は戸惑いを隠せなかった。
「この子は、君からお誘いいただいたことにえらく感激してしまってね。いや、僕もまったく同じ気持ちなんだけれど」
ドリンクをオーダーして席にかけると、彼は困ったように笑ってそう言った。彼女の傍らにはやはり文庫本があって、以前と同じようにカバーがついていた。
「あの、これ、綺麗だって言ってもらえて、とっても嬉しかったんです。これ、自分で描いたものだから」
カバーに描かれた花束は、よく見れば水彩画のようで、淡い中にも力強い筆致があった。絵画には詳しくないが、かつては印象派と呼ばれる人たちが、こんな絵を描いていたように思う。
「凄い……」
それ以上の言葉が出てこなくて、私はしばらく黙り込んでしまった。てっきり市販のものだとばかり思っていたから、彼女がこの作品を描いたという事実が、なかなか頭で結びつかなかった。
「この子は絵を描くことが好きなんだ。『プッサン・エ・ロラン』という美術誌があるんだけど、その表紙絵に選ばれたこともあるんだよ」
彼はいつになく自慢げで、自分のことのように誇ってみせた。
「本当に凄いわ。私には、これまで芸術家の友達なんていなかったもの」
友達、とつい口を滑らせて、私は少しだけ後悔した。一方的に深い関係性を迫っているような、押し付けがましさがなかったかどうか、途端に不安になったせいだった。
「芸術家だなんて……私は好きで描いているだけなので……」
彼女は照れながらも、ニコニコと笑みを絶やさなかった。気を悪くしているわけではなさそうだとホッとして、件の発見について尋ねようと、彼の方へ向き直った。
「そういえば、先日図書館に行ったとき、気になるポスターを見かけたんです。中央公会堂での、ファミリーコンサートのものなんですが」
久野寛、という名を口にすることは、あえてしなかった。それは私にとっての敬意みたいなもので、容易く名前を呼んでいいものではないという自制からだった。
「ああ、見つかってしまったか」
対して、彼はなんでもないことのように、ぺろりと舌を出してみせた
「趣味の範疇でやる、小さなコンサートさ。もっとも、今の僕はピアニストだなんてたいそうなものじゃないけどね」
知れば知るほど興味が沸くような人に出会ったのは、初めてのことだった。恐らく彼は、興味のかけらをたくさん秘めており、身体を揺すればそれがいくらでも出てくるのだろう。
「ヒロさんは本当に凄い人だったんですよ。なのに、この話をするといつも無愛想になるんです。私、もっと自慢してもいいと思うんですけど」
そう言ってユキちゃんが小突くと、久野さんは困ったような顔で力なく笑った。
「僕は腕より度胸があっただけで、そんなに上手いわけじゃない。式場専門の演奏者が珍しい時代だったから、少し目立っていただけだろう」
でも、とユキちゃんも応戦する。
「実際に評判も良かったじゃないですか。それなのに、あんなことで辞めちゃって……」
ユキちゃんは言いかけて、「あ」と口を押さえた。ほんの一瞬、久野さんが眉をひそめたことで、それは重大な失言だということがわかった。
「……僕はクラシックに固執してしまってね。邦楽も取り入れて欲しい、というクライアントの意見がどうしても受け入れられなかったんだ。まあ、潮時だったのさ」
彼は苦笑いを浮かべながら、ひどく寂しい声でそう言った。長い沈黙の後で、重苦しい空気を打ち消すように、あるいは、置いてけぼりの私に説明するように、ユキちゃんが声を上げた。
「式場で演奏していたときに、披露宴でカラオケがしたいっていう要望が多かったみたいなんです。当時はまだ機材があるところも少なかったから、ピアノで伴奏してくれないかって。ヒロさんはそれを断り続けて、とうとうピアノごと辞めちゃったんです」
久野さんがクラシックにひどくこだわる理由が、私にはよくわからなかった。しかし、彼が演奏する曲は重厚なクラシックでなければならない、と心のどこかで思っていたため、それを否定するわけもなく、ただ「しょうがない」という気分になったのだった。
「そういえば、クラシック曲って聴いたことはあってもタイトルがわからないものがほとんどなんですよね。パッヘルベルのカノンとか、ジムノペディとか、私の中でタイトルと一致する曲はそれくらいかしら」
私はさして何気なく、クラシックの話題を切り出した。果たして、久野さんは話をそらすだろうか。それは、精一杯の賭けだった。
「エリック・サティか……」
穏やかな声だった。それは足元に擦り寄ってきた子猫を優しく撫で付けるようなトーンで、彼は歌うように続けた。
「ジムノペディは、エリック・サティが作った有名なピアノ曲だね。特に第一番は、単調ながら淡く繊細な旋律が美しい。僕の好きな曲だ」
そうしてコーヒーを啜り、じっくりと口を湿らせる。その仕草は彼が話し出す合図でもあった。
「サティは西洋音楽界における偉大な先駆者だ。彼が確立した作曲技法は数知れない。少なくとも僕が好きな印象主義の作曲家は皆、彼の影響を受けている」
私は、前回会ったときに久野さんが「好きだ」と言っていた曲を思い出していた。強く、熱く語ってくれた曲。タイトルは確か……。
「この間お店で流れていた久野さんの好きな曲、確か「ボレロ」だったと思いますが……あれもサティの曲なんですか?」
「いや、あれはラヴェルの曲だ。モーリス・ラヴェル。彼も印象主義の作曲家だよ」
彼は当たり前のように話を進めていくが、そもそも「印象主義」とはなんなのだろう。遠い昔に授業で習った気もするが、まるで思い出せない。
「印象主義……あの、ごめんなさい。私、あんまり詳しくなくって」
「大丈夫、気にしないで。そうだな……たとえば、絵画でも『印象派』と呼ばれる画家たちがいるでしょう。有名な作品だと、クロード・モネの『睡蓮』なんか見たことがあるんじゃないかな。彼らの特徴は、光をたくさん取り入れた淡いタッチだ。線や輪郭、陰影など細部のディティールにはこだわらず、色彩を第一に自由なスタイルで絵の具をのせていく。そのぼんやりとした作風を音で表現したのが印象主義音楽……と言うと、伝わるかな?」
久野さんは一旦区切って大きく息を吐き、ユキちゃんの姿を一層強く見つめた。
「なんだか、ユキちゃんの描いた絵みたいですね」
印象派の解釈が合っていたことに安堵して、私も久野さんと同じように、ユキちゃんの方を見た。けれど彼女の顔からは、さっきの微笑みがすっかり消え失せてしまっていた。
「ユキ、話してみないか。原田さんならきっと、わかってくれる」
心なしか、久野さんの顔つきもこわばって見えた。ユキちゃんは少し迷っているようだったが、やがて意を決したように、こくりと頷いた。
<続く>
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