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夏の風の神、パンに祈るために 第8話

 あの日、すべてを乱してしまったという罪悪感は、逃れられない鎖となって、私の心を締め上げた。目の前の霧は晴れるどころか、雷雲へと姿を変えてあらゆるものをぐちゃぐちゃにしてしまった。
 世界はきっと「許される者」と「許されざる者」の組み合わせで回っている。前者は、日頃から嫌悪感や悪意のような「嫌なもの」が自然と出せる人間であり、それらをなかったことにしようと飲み込み続ける人間が後者にあたるのだろう。当然ながら私は後者で、伊澤さんと金子さんは間違いなく前者の立場なのだった。

 後者が「嫌なもの」を吐き出す行為は、極めて異端かつ許されざる行いであり、本来「言ってはいけない」のにその禁忌を破るのだから、罰を受けるのは当然だった。
 許される側の人間は、罰を与えることもそつなくこなす。だから彼女たちは、いとも簡単に手のひらを翻し、恐ろしく冷淡な対応をとった。

 まず、金子さんは露骨に私のことを避けた。きちんと苗字で呼ぶようになってからは雑談もなくなり、最近では引き継ぎで話すことすら煩わしいようだった。その極限まで親しみを省いた態度は、いかに悪意のある愚痴を耳にしているか、容易く想像できるほどだった。
 伊澤さんは、徹底的に私を排除するつもりのようだ。その手立ては非常に巧妙で、金子さんだけでなく他のスタッフに対しても印象操作をおこなっているのだろう、と容易に想像できた。為す術もなく四面楚歌同然の状態の中で、私は一人、心を殺して懸命に働き続けていた。

 これまでの私だったら、すぐにでも逃げ出していたと思う。けれど、久野さんとユキちゃんの存在が、その気持ちを思いとどまらせた。なんといっても、今の私は早番なのだ。カフェで会える機会は以前よりも豊富にあって、「仕事が終われば二人に会える」という思いだけが私の精神を支えていた。

 とはいえ、鬱蒼とした気持ちがすっきり晴れることはなく、なるべく普段と変わらない風を装っていたつもりだったけれど、久野さんにはあっさり見抜かれていたようだった。

「最近、顔色が悪いね」

 彼はアイスコーヒーにミルクを落としながら、私の顔を心配そうに覗き込んだ。

「夏休みで忙しかったでしょう。落ち着いてきたから、今頃夏バテが出ちゃったのかも」

 演じようにも力が入らず、私はへらへらと笑ってみせた。

「僕たちに気を遣うことはないんだよ。頼りないかもしれないが、話を聞くことくらいはできる」

 彼はいつものように穏やかな口調で、そっと添えるように話し、ユキちゃんも同時に、大きく頷いた。

「いえ、本当になんでもないことなんです。ただ、どうしていつもこうなってしまうんだろうって思うだけで……」

 声が震え、先まで話せば耐え切れず涙が溢れてしまうように感じて、それ以上を話すことは躊躇われた。久野さんは途絶えた意味を感じ取ったようで、真面目な顔で私の手を握った。

「故意に悪者になる人間なんて存在しない。ただ、それぞれが選んだ答えが食い違っているだけなんだ。答えは数え切れないほどあるんだから、君だけが悪いと思わないほうがいい」

 その言葉に、心の中にあった黒い塊が少しだけ溶けていき、涙となって頬を伝った。

「私は……私の答えは……間違っていないと思っていました。でもダメなんです。どんな環境でも、人が集まる場所には必ずヒエラルキーが存在します。正しいと思って行動しても、上層の人間が間違いだと言えばそれは間違いなんです。生きるのに必要なのは正しい答えじゃない、すべてを正しいと感じさせることができる力なんです」

 力が欲しい。皆を納得させることが出来るだけの強い力が。私はただ、ひたすらに悔しくて、涙がどんどんと溢れるばかりだった。ユキちゃんはその姿を痛ましげに見つめていたが、ぽつんと呟いた。

「原田さんは強いですよ。私が逃げちゃった全部のことと、必死で戦っているんだから」

 彼女の口調は強かったが、それは決して荒だっているのではなく、私に対して、そして自分自身に向けて、言い聞かせているようだった。

「謙虚でいることは大切だと思います。でも、自分より周りの方がすごいんだって考えるのは、やめた方がいいです。どうか、自信を持ってください。出来ない人間だとか、弱い立場の人間だとか、自分自身がカテゴライズしてしまったら、もうそういう人間にしかなれないんですから」

 いつのまにか、ユキちゃんも泣いていた。瞳には涙をめいっぱい溜め、そらすことなく、私の顔を見つめている。

「全部をまっすぐ受け止めることができる原田さんは、とっても素敵です。ちょっと心が疲れやすいだけで、全然弱い人間なんかじゃありません。だから、あんまり思いつめないでください」

 久野さんが握ってくれた手に、ユキちゃんの手も重なった。その優しい温度に嗚咽が漏れ、黒い塊はどんどん溶けて、瞳からあふれては流れ落ちていった。嗚咽を垂れ流しひとしきり泣いた後、久野さんは思い出したように声を上げた。

「今度、駅前のレンタルショップに行こうと思うんだ。コンサートの前に、いくつか君に聴いておいてほしい曲があってね。……そうだな、今度の水曜日。水曜日の午後がいい。どうだろう、一緒に行かないかい?」

 真っ赤な目をしてぼうっとしていると、久野さんはあわてて付け加えた。

「あ……いや、その……君さえ良ければ……」

 照れているのか、彼の顔は耳まで色がかわるほどに赤く染まった。それを見て、私はぷっと噴き出してしまった。

「ああ、やっと笑ってくれたね。君はその顔の方がいい。ええと、じゃあ水曜の午後三時に、この店の前で待ち合わせをしよう」

 そう言いながら、久野さんは胸元から取り出した手帳に文字を書きつけ、ピリッと気持ちの良い音を立ててページを引き裂いた。

   水曜、ヒル三時、駅前レンタル

 手渡されたメモは非常に簡潔で、インクが乾ききっていなかったのか「レンタル」の文字が若干擦れて黒ずんでいた。速筆の中にも気品が感じられる文字の羅列は、私にとって何よりも心強いお守りとなった。

 希望のある約束は生活を潤し、時の流れを早くする。中でも二人との約束は、特に強い力をもたらした。モノクロの日々は色味を帯びて、水曜日への活力が私の世界を光らせた。心無い言葉や態度は、するすると耳の外側を流れていくようになり、事務的な笑みを顔に張り付けて、すべてを感じ取ることをやめた。私は職場において、人間のスイッチを完全に切ったのだった。

 だが、そんな私の変貌を気にする者は、すでに誰もいなかった。実害を被ったわけでもない人間が、何故こんなにも一人の人間を嫌うことができるのだろう、と不思議で仕方がなかったが、幼い頃の経験上、それはしょうがないことなのだと理解していた。学校だろうと職場だろうと、人間が集えば必ず一定の同調圧力が生まれる。同調し続けてきた人間は振り落とされることを極端に恐れるようになり、自分の意見を殺してしまう。考えることを放棄して個性を消し、同調圧力に従ってさえいれば、とりあえず怪我をする心配はないので、皆が同じようにターゲットとなる人間を嫌わなければならないのだ。そう考えることで自身へのダメージは緩和され、私は他のスタッフたちに、憐みすら感じるようになっていた。

 水曜日までの一週間は、あっという間に過ぎ去った。迎えた当日は午前中も仕事だったが、時間は瞬きをするようなスピードで駆けていった。更衣室でいつもより少しだけ明るい色の服に着替えると、私は跳ねるようにカフェへと向かった。まるで初めてのデートに浮かれる女子高生のようだと自分自身に呆れながら、それでも気持ちは高ぶったまま、意気揚々と待ち合わせ場所を目指した。

<続く>


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