夏の風の神、パンに祈るために 第10話
文中に「元気」の二文字を確認し、少しだけ緊張が和らいだ。想像しうるなかで最悪の事態は消滅したので、心は少し軽くなったが、だからといって久野さんの容態が気にならないはずがなく、その日の勤務は輪をかけて魂が抜けたようだった。
K病院は無料バスのルート外にあったが、それを気にする余地もなく、タクシーを使って二人の元へ駆けつけた。
壁にかけられた名前を確認し、「原田です」と一声かけて戸を引くと、目に飛び込んできたのは、顔面を包帯で覆われ横たわる久野さんと、すぐそばに座る夕希ちゃんの姿だった。
「来るのが遅くなってしまって本当にごめんなさい。一体何があったんですか」
彼は眠っているようだった。夕希ちゃんはぺこりと頭を下げると席を立ち、私を廊下へ連れ出して詳細を語った。
「あの後タクシーを降りてすぐ、歩道に車が突っ込んできたんです。ヒロさんは道路側にいて私を守ってくれて……。命に別状があるような怪我じゃなかったけど、車にぶつかって飛ばされた衝撃でメガネが割れてしまって、破片が……破片が目に……」
後に続くはずの言葉は、ぽろぽろと溢れる涙にかき消されてしまった。やっとの思いで伝えてくれたのは、久野さんが失明するかもしれない、という残酷な診断結果だった。
「破片はすべて取り除いてもらいました。今は鎮痛剤を打っているからぼうっとするみたいで、寝たり起きたりしています。ごはんもしっかり食べてくれるんだけど……なんにも喋ってくれないの」
そこまで話したところで、病室から声が聞こえた。どうやら久野さんが目覚めたらしい。ようやく声が聞けたとあって、夕希ちゃんは私の手を引くようにして、病室へ飛び込んだ。
「ヒロさん、原田さんが来てくれたよ。わかる?」
そう言って私の手を久野さんの手に重ねると、彼の手はぴくり、と動いて、もう片方の手をその上から重ねた。
「ああ、原田さん。わざわざありがとう。忙しいのにすまないね」
少し枯れていたが、いつもと同じ声だった。そして、変わらないトーンで優しく夕希ちゃんに語りかける。
「夕希、ちょっと原田さんと二人きりにしてくれないか」
彼女は戸惑って小さく声を漏らしたが、「わかった」と頷いて病室を後にした。残された私は、一旦手を振りほどき、夕希ちゃんが座っていた席に腰掛けて、彼女が去ったことを告げた。
「原田さん……前に言っていた、五感の話を覚えているかい?」
久野さんはいつも以上にたっぷりと間をとって話す。それはまるで、感情的にならないように自分を押さえつけているようだった。
「ええ、もちろん覚えています」
私は決して急かすことなく、落ち着いた素振りでその質問に答えた。
忘れることなどできるはずがない。あの日、私が抱いていた概念を的確に表現した彼の言葉は、すべてしっかりと心に刻まれていた。
「人間が持つ五感……その感度は皆それぞれ違う。あのときの言葉を使うなら、僕は人一倍『視覚』に優れている人間なんだと思う」
視覚に優れる、とはどういうことなのだろう。言葉の意味を探しながら、私は懸命に、久野さんの話を聞いていた。
「初対面の人と会話をしたとき、聴覚に優れる人間であれば、相手の声が強く印象に残る。嗅覚が優れる人間ならば、そのときの空気のにおいや香水のにおいが鼻に残るだろう。僕にとって、目から飛び込んでくる情報は、何よりも大切な判断基準であり、生活の支えだったんだ」
きっと、久野さんはすべてを「見る」ことで自分自身を形成してきたのだろう。私は、カフェで初めて話しかけられたときの驚きを思い返していた。
「それでも、僕は演奏することができた。音楽の世界には、楽譜を見て音符を読み、符号や強弱記号で音色を判断して演奏する『初見視奏』というものがある。極端なことを言えば、僕はその手段でしかピアノを弾くことができなかった」
久野さんは弱々しくなった声を搾り出すように続ける。
「ピアノを辞めたのはそのせいだ。式場は堅苦しいクラシックよりも、披露宴でのカラオケ導入に力を入れるようになった。クラシック音楽には全て楽譜があるけれど、もし楽譜のない、マイナーな歌謡曲をリクエストされたらどうなる? 大抵のプレイヤーは曲を聴き、自分で譜面を起こすだろうが、僕にはとても聴音なんてできやしない。視覚だけでは補えなくなってしまったんだ……」
彼は包帯の上から顔を覆い、泣き崩れるように小さく身体を折り曲げる。私は何も言えず、ただ無言で久野さんの肩をさするばかりだった。
「……ピアノを辞めてから僕は自暴自棄になった。新しい生活を始める自信なんて完全に無くなっていたよ。そんなとき、夕希が失顔症だということに気が付いた。僕にはまだ大切な役割があったんだ。彼女の目として共に生きる。それが僕の視覚に与えられた、新しい使命だった」
そう言うと突然、顔を覆っていた両手を強く毛布に叩きつけた。
「もちろん耳は聴こえるし、手足も不自由なく動かせる。でも、どれも強く記憶を残せるほど機能してくれないんだ。僕はもう、何も感じることができない……!」
何度も何度も、彼は布団を殴りつけた。行き場のない思いが次々と、くたびれた布に吸い込まれていく。私はもう、彼に触れることすらできなかった。
「見ることだけが僕の取り柄なんだ。生命線なんだ。視力を失ってしまったら僕は……。僕は一体、どうすればいい……?」
苦しさで潤んだ悲痛な声が、静かな部屋に響き渡った。取り乱して興奮の冷めない久野さんに、私はそっと囁いた。
「ねえ、久野さん。少しでいいから、私の話を聞いてくれませんか」
彼の拳を両手で諌め、ゆっくりと包み込むと、こわばった拳がほんの少しだけ和らいだ。
「私は『頑張れ』とか『大丈夫』とか、そんな気休めは言わないし、運命を呪ったりするつもりもありません。だけどこれだけは言える。久野さんは、一人じゃないんです」
そうしてするりと手を回し、彼の背中をしっかりと支えた。
「今の夕希ちゃんは、久野さんが見てきた弱い彼女じゃないはずです。苦手なことはまだまだ多いかもしれないけど、私もこうしてそばにいて、サポートすることはできます。久野さんにはみんながいるんです。だから一人で抱え込まないで。私たちを、ちゃんと頼ってください」
久野さんは、今度こそ本当に泣いた。溢れ出る嗚咽をこらえることなく、わんわんと力強く泣きわめいた。
「僕は誰かにぶらさがるだけで、きっと何もできないだろう。君たちがそんな足枷を負う必要なんてないのに……」
そう言い終わらないうちに、私は彼を強く抱きしめた。
「できることは、これから見つけていけばいいんです。だって、世の中には数え切れないほどの理由が溢れているんですもの。私の『当たり前』に『必要性』を見つけてくれたのは久野さんです。あなたのおかげで、どんな些細なことでも需要は必ずあるって気付くことができたんです。私はあなたと生きていきたい。三人でずっと、過ごしていきたい」
固く抱き合って涙を流す私たちの声は、廊下で待つ夕希ちゃんの元にも届いていたようだった。がらりと扉を開いた彼女は、両手でしっかりと拳を作って、久野さんに明言した。
「私、もっともっと頑張るから。ヒロさんにちゃんと、恩返しするから……」
夕希ちゃんは強く洟をすすり、きっぱりとした口調で言った。
「もう逃げるのやめにする。私、働くよ」
<続く>
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