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夏の風の神、パンに祈るために 第4話

「原田さんは、消しゴムを使ったことがありますか?」

 それは、あまりに普遍的で「なぞなぞのひとつだろうか?」と勘ぐってしまうぐらい、不思議な質問だった。

「ええ、ありますよ」

 対して私の出した答えは、質問と同じように何の捻りもない回答だった。これは冗談に通ずる問いかけだったのかもしれないが、ふざけた答えを出すことは性格上できなかったし、それはとても失礼なことのように思えた。

 ユキちゃんは鞄を探って筆入れを取り出し、中から消しゴムをつまみ上げた。何の変哲もない、よくある長方形の消しゴムだった。

「ここに、消しゴムがあります。大抵の消しゴムにはある特徴があるのですが、それは一体、なんだと思いますか?」

 私はそれをしげしげと観察し、持ち上げたり、手の中で転がしてみたりしながら、必死に頭を巡らせた。そうして、小さな直方体のどこかに答えがないか丁寧に観察していると、ふと、その消しゴムに巻かれたカバーの四隅が、丸く切り落とされていることに気が付いた。

 きっかけは高校時代に放映していたテレビ番組だったと思う。私のクラスで、というよりは全国的に、消しゴムカバーの四隅を小さく切り落とすのが流行った。そうすることで、消しゴムを折ることなく最後まで綺麗に使えるらしく、あらかじめ四隅が切り落とされたカバー付きの消しゴムまで発売されたほどだった。
 些細な思い出は鮮明に甦り、確たる証拠はなかったが、私はそのまま、ひっそりと呟いてみた。

「カバーがついています」

 ユキちゃんはハッとした顔をして、二、三度小さく頷くと、クイズゲームの司会者さながらに慎重な声を吐き出した。

「正解です」

 そう言って消しゴムの側面を人差し指と親指でやさしく掴む。と、思ったのも束の間、カバーから本体部分をするりと抜き取り、改めてテーブルへ置いた。

「では、そのカバーを外してしまったときに、原田さんはすべての消しゴムの区別がつくでしょうか」

 置かれた消しゴムは生白く、つるりとした表面には、小さな傷一つ付いていなかった。私はそのような消しゴムが無数に、裸のままでテーブル一面に並んでいる様を想像した。

「多分、わからないと思います。一個や二個なら特徴を覚えて見分けることができそうですが、数が増えれば、それも難しいですから」

 ほとんど泣きそうな声で、ユキちゃんは「そうですよね……」と呟いた。そうして下を向いてしまった彼女に代わって、久野さんが後を続けた。

「この子は、人の顔を見分けることができない」

 それは、空気を切り裂くように鋭く、残酷な言葉だった。けれど、その意味をうまく理解することができないまま、私はただ、間抜けな声で同じセリフを返すことしかできなかった。

「この子にとって『顔』とは、カバーのない消しゴムと同じなんだ。声や髪型、服装という『カバー』をつけて初めて、この子は個人を判別することができる」

 フードコートで話したとき、「当たり前であることは難しい」と久野さんは言った。それは紛れもなく、ユキちゃんのことなのだと思った。下を向いた彼女は、両の拳を握り締めて、ただじっとそれを見つめていた。久野さんは、そんなユキちゃんの背に優しく手を添え、ゆっくりと話しはじめた。

「少し長くなると思うけど、説明しよう。でもまずは、僕たちの関係について話そうと思う。最初に言ったとおり、僕たちは叔父と姪の関係だ。この子の父親、つまり僕の兄は、昔からとても身体が弱かった。大抵の病気は経験している、生きた症例集のような人だったな。」

「当然というには残酷だが、彼は短命だった。自分の娘の、睫毛の長さも知らないままに、亡くなってしまった。義姉は懸命にこの子の面倒を見たけれど、一人で子育てをするには若すぎたんだろう。まもなく新しい伴侶を見つけて姿を消してしまった。幸いにも僕は一人暮らしで、この子を受け入れるだけの余裕はあったから……。だからこの子は僕の姪であり、娘でもあるんだ。」

「繰り返しになるけれど、この子は人の顔を見分けることができない。先天性相貌失認、俗に言う『失顔症』だ。一つ一つのパーツを認識することはできても、目の大きさがどれくらいなのか、鼻と口はどれだけ離れているのか、一つにまとまった表情として認識することができない病気、といえばわかりやすいかな。」

「顔を覚えることができない、というのはとても辛いことなんだ。本人はもちろん、相手もね。人と接する上で、顔というものがどれだけ重要なのか、『当たり前』を知っている僕たちには想像もつかないだろう。人は顔にさまざまな想いを写す。目は口ほどに物を言う、ということわざがあるように、人間は口を使って喋るよりも、目線や表情を使って想いを伝える事の方が得意なのさ。実際、聴覚障害を持つ人間にとって、お面を被って手話をされるのとグローブをつけて手話をされるのでは、お面を被ってする手話の方が読み取りにくいそうだ。」

「好意、気遣い、嫌悪感。さまざまな感情は、まず顔に表れる。それらがすべて読み取れなければどうなるか? のけものにされてしまうんだ。空気が読めない者というのは、いつの時代でも嫌われるものさ。顔色を伺おうにも、この子の世界にはその『色』がない。真っ白なキャンバスを見比べて、どっちが誰の持ち物か判別するなんて不可能だ。この子はそんな過酷な世界を生きてきたんだ。」

「高校に入学してすぐ、この子は『名札、なくなるんだね』と言った。当時の僕はさして気にも留めなかったが、今思えばそれはこの子が僕に向けて放つ初めての悲鳴だった。この子にとって名札は、個人を判別するとても大事な記号なんだ。それが無くなるということは、クラスメイトとの繋がりを完全に排除することになるんだ。恐らくは幼い頃から、ずっとずっと辛い思いをしてきたはずだ。でも僕はそれに気付いてやることができなかった。この子の口数の少なさも、伏し目がちな視線の意味も、理解できたのはずっと後のことだった……」

 ひと息に話し終えると、久野さんは深く息を吐き、すっかり冷めたカップを口に運んだ。ユキちゃんはグラスに目を落としてそれを聞いており、終始何も言わなかった。

「病気のことがわかって、僕は高校を辞めさせた。この子はすでに充分すぎるほど傷ついていたから、これ以上つらい思いはさせたくなかった。兄が僕を見ていたら、きっと怒りに我を忘れて強く非難しただろう。僕は世界中に存在するあらゆる罪人たちの、ただの一人も蔑むことを許されないほどに、この子を追い詰めてしまったんだ」

 私は何も言うことができないまま、久野さんの口から紡がれる言葉をじっと見つめていた。言葉たちは虚空に放たれると輪になって群がり、彼の身体をぐるぐると取り囲んだ。その姿はまるで、彼自身が生み出した怨念に自ら囚われているようで、身体を縛り付ける言葉たちが溶けて見えなくなった頃、黙り込んでいたユキちゃんが、ふいにか細い声をあげた。

「このモールに来るようになって、周りの人があまり怖くなくなったんです。ここにはコミュニティが存在しないから、他人同士で強く結びつく必要がないでしょう。こんなにたくさんの人がいるのに、みんなすれ違うだけで交わらない。誰も私を気にしないし、私も誰かを気にする必要がないんです」

 それは、ほっそりとして頼りないながらも、血の通った声だった。彼女は自分の置かれた境遇を受け入れ、必死に戦っているのだ。

「人には五感というものがあるね。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、人によって感覚器の感度はそれぞれ違う。しかし、すべてが満遍なく高ければ良いと言うものではないんだ」

 久野さんは小さく咳払いをして、おしぼりでそっと手を拭った。

「要は、誰にでも得意不得意があって然るべき、ということさ。人と違うところにこそ、その人らしさがある。だから、原田さんはきっと良い友達になれると思うよ」

<続く>


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