夏の風の神、パンに祈るために 第2話
翌日の二番手である金子さんは、私が最初のごみ袋を交換している段階で、すでに濡れ布巾を絞っていた。
「おはよう、だっちゃん。見たわよ、昨日あの二人組さんと話してるところ」
当然といえば当然のことだが、彼らのことを意識している人間は多い。後ろめたい会話はしていないが、心の奥が少しだけむず痒くなった。
「どう? やっぱり変わり者だったんでしょう。だって、こんなところに毎日通っているんだもの」
笑い皺は深く刻まれていたが、金子さんの目は笑っていなかった。そのちぐはぐな表情で、彼女があの二人を疎ましく思っているのが手に取るようわかった。
「別に、普通の人でしたよ」
私はさしてなんでもないように答えた。ゴム毬のように無機質な笑顔が、にたりにたりとこちらを眺め続ける。
「まあ、そうなの。でもなんだか気味が悪いじゃない? まるで、監視されているようで……」
毬がぐにゃりと歪んだその途端、口いっぱいに胃液がこみ上げるような嫌悪感がぞわぞわと這い上がってくるのを感じた。顔が火照って背筋が凍り、冷たい汗が頬を伝う。
「そういえば、生もみじ美味しかったです。ごちそうさまでした。残りのごみ、集めてしまいますね」
伊澤さんの分も貰ったことは、今日も口にしなかった。いつもの笑顔に戻った彼女は、意味もなく前掛けに手をやると、強く右手をぬぐった。
「気に入ってもらえて良かったわ。また、買ってくるからね」
悪い人ではないのだ、決して。なのに、どうしてこんなに心がざらざらするんだろう。私に背を向けて、金子さんは椅子を直し始める。ガガガ、ガガガ、と椅子を引きずる音が、まるで誰かの咳払いのように、フードコート中に響いていた。
大抵のショッピングモールには、フードコートとは別に飲食店街も存在する。お祭りの屋台のように様々な店が肩を並べるフードコートとは違い、ひとつひとつがそれぞれの店舗として区切られ、立ち並んでいる空間だ。
私の唯一の楽しみは、その一角にあるコーヒーショップで本を読むことで、退勤後、会計を済ませて席を探していると、見覚えのあるパーカー姿の女性が目に入った。慌てて目をそらしたが、傍らの男性はすぐに私の存在に気付いたようで、ぱっと顔を綻ばせると、ごく当たり前に声をかけてきた。
「やあ、原田さん。良ければご一緒しませんか?」
彼は確かに私の名前を呼んだ。ぎょっとしたが、おそらく勤務中につけていた名札を覚えていたのだろう。座席は四人掛けで、二人は荷物を避けて横並びになり、対面の席を促すので、いよいよ引き下がれなくなってしまって、テーブルの上に紅茶を置いた。
「すみません、では、失礼いたします」
変わった人だ。彼の印象は常にそれだった。見かけるようになったときも、初めて会話したときも、そしてこの瞬間も、その思いは揺るがない。だが、彼に対する興味が日増しに強くなっていたのもまた、事実だった。不思議と嫌悪感はなく、「もっとこの人のことを知りたい」と思わせる雰囲気を、彼はごく自然に纏っていた。しかし、何よりも彼の姿を興味深くさせていたのは、傍らの女性の存在だった。
「いつもお二人でいらっしゃるんですか?」
顔を覗き込むように問いかけたが、彼女は返事をせず、かわりに男性が答えてくれた。
「この子は僕の姪でね。少し口下手なんだ」
彼の口調がくだけたものになる。彼女は口を閉じたまま、いつものようにぺこりと頭を下げた。
見れば、彼女は私と同じアイスドリンクを飲んでおり、水滴のたくさんついたグラスの中で、小さくなった氷が弱々しい音を立てた。手元には読みかけの文庫本があって、紙製のブックカバーが付けられている。
「それ、とっても綺麗ですね」
「……ありがとうございます」
カバーには花束を俯瞰で見たようなイラストが描かれていて、ぼんやりとした淡いコントラストは、漂う幸せを溶かしたみたいに優しかった。彼女は、そのイラストに添えられたわずかな葉っぱよりもさらに小さな声でお礼を言い、そのために押し出された声は、ささやかでか細く、儚かった。
「私もよくここで本を読むんです。もしかしたら、以前にもお会いしていたかもしれないですね」
なるべく柔らかく、傷つけないように、慎重に言葉を選んだ。それは、彼女が自分と近しい存在のように思えて、どうにも愛おしくなったためだった。だが、ほんの一瞬、そんな彼女が困惑の表情を浮かべたように見えた。口元ははにかんでいたが、少しだけ、ほんの少しだけ、眉をそっと寄せたのだ。
誰ともなく口をつぐみ、店内に流れる密やかなメロディーだけが私たちを繋いでいた。従来、モール内のテナントは有線放送を流していることが多いが、この店ではスタッフがCDを持ち寄っているらしく、インスト曲を集めたアルバムが日替わりで延々とリピートされていた。今日流れているのはクラシック音楽をジャズ調にアレンジしたピアノ曲で、その音色は無言であることの重苦しさを取り除き、むしろ心地良さすら感じるほどに滑らかな空間を築いていた。
「原田さん、音楽はお好きですか?」
次の曲へ切り替わったとき、彼が思い出したように声を上げた。それはあまりに突然で、捉えどころのない質問だった。
「今、流れているこの曲。僕はこの曲が好きでね」
私は慌てて耳を傾ける。厳かな雰囲気とはかけ離れた軽快なアレンジが施されていたが、それが有名なクラシックであることはわかった。
「ええと、これは……『ボレロ』でしょうか?」
彼はゆっくりと頷くと、コーヒーに口をつけ、静かに喉を潤した。
「学生の頃、初めて買ったレコードが『ボレロ』だった。ディスクに針を置いて、音楽が流れてきたときの感動は今でも覚えている。言い表せないくらいの衝撃だった」
当時を懐かしむように目を細め、彼は静かに続ける。
「一定のリズムでたった二つのメロディーを演奏する曲、と言ってしまえば非常に単調だが、ボレロには実に様々な楽器が登場する。個性豊かな音色たちが繰り返し同じ旋律を重ねるんだ。まるで、人生のようにね」
深い低音で響く言葉は、時に鋭く、すっと心に染み入った。
「人は皆、生まれて、生きて、死ぬ。ただそれだけなのに、それぞれの個性が多様な人生を彩る。カラフルな個性たちが生まれ、生きて、死んで……。ボレロと同じように、それが何度も繰り返されていくんだ」
少しの沈黙の後、あとは二人でどうぞ、とでも言うようにして、彼女が本を開いた。きっと普段からこのように、彼らは自由に過ごしているんだろう。二人で同じ場所に収まりながら、それでいて各々が違うことをする。その姿はとても魅力的で、うらやましくさえ思えた。
「はあ……」
彼女を注視するあまり、おざなりな返事になってしまったことに気が付いて、言葉を継ごうと頭を巡らせた。彼はそれを悟ったかのように、小さく苦笑した。
「あの、うまく言えないんですけれど、私もよく、同じようなことを考えます。フードコートっていう場所は特に、たくさんの人がいますから」
つられるようにしてストローを強く吸うと、冷たい紅茶が勢いよく喉に飛び込んで、二、三度むせてしまった。彼女はちらりとこちらを窺って、すぐに文庫本に目を落とした。
「あなたは本当に真面目な人だ。誠実な仕事ぶりは、見ているだけでとても気持ちが良い」
彼はとても真剣な顔で、けれど、このうえなく優しい目をして、そう言った。
「大切なことは往々にして、何の変哲もない凡々とした動作であることが多いでしょう。けれど当たり前というのは、実はなかなか難しいことなんだ」
「当たり前は……難しい……」
私は口の中で小さく繰り返す。そうだ、今までのすべてがそうだった。すべてがとても、難しいことだった。
「あなたは、とても丁寧に机を拭きますね。椅子を直すときも、音を立てないようこっそりと引いている。背景にすっと溶け込んで、誰の気を紛らわすこともない。実に素晴らしい技術だ」
そんなふうに見られていると思わなかった。自分の行動に深い意味なんて、ただのひとつもないのに。
「ありがとうございます。お客様に気持ち良くご利用いただくことが、私たちの幸せですから」
なんだか恐縮してしまい、マニュアル通りの礼を口にしたが、実際は、嬉しさで心が躍るようだった。真面目で当たり前な仕事ぶりが評価されたことは初めてだったし、まして良い意味で注目されることなど、ただの一度もなかったのだから。
空になったグラスの中で、氷がからりと音を立てる。CDは入れ替えられたのか、学生の頃に流行ったメロディーが流れ始めていた。
「あの、またご一緒できるでしょうか」
できることならば、もっと話がしたかった。
二人は――特に、女性の方は――驚いた顔をしていたが、男性の方がふっと笑って、ええ、と頷いた。
「僕はクノと申します。この子はユキ。どうぞよろしく」
名前を呼ばれた彼女は、黙りこくったまま、本を閉じて頭を下げた。
<続く>
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