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夏の風の神、パンに祈るために 第1話

 机の上に消しゴムが並んでいる。使い古されたもの、真新しいもの、様々な形の消しゴムが皆、こちらを向いて規則正しく並んでいる。消しゴムたちにはカバーが付いている。各社が頭をひねったコピーやネーミング、あるいは可愛らしいデザインが、消しゴムたちを優しく包んでいる。
 これらのカバーをすべて外したとき、果たしてあなたは彼らを見分けることができるだろうか。

 大型ショッピングモールのフードコートは、人間観察をするにはうってつけの場所と言える。椅子の座り方や食事のとり方、どれひとつとっても同じ人間は一人としておらず、多種多様な個性がぎっしり詰まっているからだ。
 個性たちは乱れることなく、与えられた空間にすっぽりと収まっていた。備え付けられた席に腰を下ろし、適切な間隔をとり、美しく整頓されていた。所在なく立ち尽くしているのは私だけで、収まるべき場所を求めながら、狭い世界をうろうろと彷徨うかのように、テーブルを拭いて回っていた。

 フードコートで働くようになって最初に気が付いたのは、意外にも多い常連の存在だった。彼らは決まった時間、決まった席で、決まったメニューを頼み、決まった動作をとる。ある人はコーヒー片手に新聞を眺め、ある人は壁際のカウンターで本を広げて勉強をしていた。
 皆、自由でありながら規則的だった。決まった時間、決まった場所で、思い思いに過ごす。それは一見何気ないことのようであるが、実はとびきり素晴らしいことなのだと、私はひっそり思っていた。

 昔から私は、自分の居場所というものをひどく気にする性質である。
きっかけは小学生の頃。一人の女子が持っていたピンクのクレヨンが、真っ二つに折られていた。不運にもピンクは、その子にとって一番のお気に入りの色であったから、何としても許すものかと、すぐに犯人探しがはじまった。
 周りの子たちは皆、思い思いの言葉で弁明し、自分は違う、やっていないと、口々に身の潔白を証明していたが、その中で私だけが、自分の気持ちをうまく言葉にできずにいた。怒りの矛先は当然のごとく私に向けられ、周りの子たちも一緒になって攻めたてた。
 後になって、クレヨンはその子の母親が誤って割ってしまったのだと判明したが、私に謝ってくる子は一人もいなかった。そうしてはじめて、私は対人関係の本質とも言える残酷さを突きつけられたのだった。

 群れることを拒んで他人と距離を置き、私は常に一人だった。しかし、コミュニティから浮いた人間は目立つものである。いつの時代にも心無い言葉をかけてくる者がいた。同じ足並み、同じ歩幅を好み、異質であることを強く嫌う者たちだ。彼らは私みたいな人間を執拗に攻撃し、標的が無力であればあるほど、彼らの力は強くなった。そのような人間は、往々にして多数派であることが多く、声が大きい者たちを正義とする風潮は、私にとって幼い頃から誰よりも身に沁みて実感していることだった。

 社会に出てもなお、私は対人関係に暗かった。会話しないわけではなく、むしろ職場ではよく話していたが、誰に対しても同じ温度で平均的な話題を提供し、常に当たり障りのない仲を築くことを心がけていた。
 けれど、どこに行っても、そんな振る舞いを良く思わない者が必ず存在した。最初のうちはうまく溶け込んでいても、いつかはそんな人間たちに見つかってしまい、槍玉に挙げられるのだ。それは世の常というもので、大抵の人間はそれを理由に、「辞めたい」などと口にしながら毎日会社へ向かうのだろうが、逃げ続けてきた私にはとても耐えることができず、やがて様々な職場を転々とすることとなった。
 のらりくらりと生活してきたが、いよいよ三十歳も半ばを過ぎようという歳になり、転職活動は非常にシビアなものになった。結婚もせず、あらゆる職業の隙間をさまよっていたため、目立った取り柄というものはただのひとつも持ち合わせておらず、そんな自分を幾度となく責めた。そうして、自暴自棄になりながら何枚も履歴書を書き、ようやく拾ってもらえたのは、住んでいるアパートのすぐそばにある、小さな派遣会社だった。

 フートコートの清掃員になったのは、小さな偶然がいくつも重なった先の成りゆきだ。今の持ち場は主に一日三人で回しているが、人の入れ替わりが激しいためにメンバーは変動する。よくシフトが重なるのは、大学生の娘を持つ伊澤さんと、今年還暦を迎える金子さんで、二人とも面倒見がよく、私のことをまるで年の離れた妹のように可愛がってくれた。
 やっとの思いで就いた仕事、人間関係もさして悪くない。さて、これがいつまで続くだろうかとひやひやしながら、それでもどうにか、世間という容れ物に収まることができたように思えた。けれどもやはり、こうしてフードコートを眺めていると、自分の身体は少しずつはみ出しているのではないかと、ぐだぐだ考えてしまうのだった。

 週の真ん中である平日の今日は、いつにも増して客数が少なかった。五月の下旬ということもあり、すでにゴールデンウィークの賑わいが懐かしい。いつしか西日が差しはじめ、私は淡いグリーンのロールカーテンを閉める。常連客たちはあらかた訪れていたが、ふと、今日はまだ、見慣れた二人組の姿を目にしていないことに気が付いた。
 その二人組の男女――男性の方は五十代前半といったところだろうか。歳の割に黒々とした髪を撫でつけ、フレームの薄いメガネをかけていた。いつも身に着けている糊の効いたワイシャツは皺ひとつ無く、濃紺のベストの下にぴったりと収まっていて、グレーのタックパンツの下にはエイジングの進んだ革靴を履いており、それはいつでも艶やかな光沢を放っていた。
 女性の方は二十代半ば程。あどけなさの残る幼顔を包む黒髪は、恐らく一度もカラーリングされていないのだろう。長く大切に伸ばされ、後ろでひとつにくくられていた。淡い橙色のマキシワンピースにグレーのフード付きパーカーを羽織っていることが多く、いつもキャンパス生地の大きなトートバッグをさげて、丸みがかったワインレッドのショートブーツを履いていた。

 親子というには少し違和感のあるこの二人組は、私が勤めはじめてからほぼ毎日、フードコートを訪れていた。二人は特定の場所を作るわけではなく、いつも気まぐれに好きな席へ座り、食事をしたり本を読んだりしながら一時間ほど滞在していた。その姿はどこか気品があり、何人たりとも寄せ付けない、一種の神秘性のようなものがあった。

 モールのアナウンスが午後四時を告げ、交代のスタッフがやってくる時間になった。私は退勤前にごみをまとめようと、ダストボックスを開く。平日は一日のシフトを三人で回すため、先手が退勤する三十分前に後手が出勤し、二人いるうち片方がごみ捨てに行くのだが、人のいない平日とて、連日かなりのごみが集まる。しかし、連休が明けてすぐの今日はいつもより量が少ないようで、フードコートに三箇所あるダストボックスの最後のひとつを閉めたとき、のんびりと伊澤さんが出勤してきた。

「おはよう、原田さん。今日はごみが少なそうね」

彼女はポリ袋を見ながら、くん、と小さく鼻を鳴らした。

「この様子だと、帰りは集めなくてもいいかしら。ああ、明日の早番も金子さんだっけ?」

 開店時に入るスタッフの中でも特に、金子さんはごみ捨てにうるさかった。閉店時にスタッフがごみを収集していないと、例えそれが少量でも、重大なミスを犯したかのように激しく怒るのだ。金子さん曰く、ごみ捨ては平等に行うべき業務であり、その日のごみを残すことは翌日のお客様の気分を害することにもなる、とのことらしい。

 もっともな意見ではあるが、閉店時に入ることがほとんどない金子さんだから言えることだ、と遅番スタッフの中には良く思わない者もいた。私も伊澤さんも特に悪く思っているわけではなかったが、それでも翌日の早番が金子さんだと、ごみ捨てには人一倍気を遣っていた。

「大丈夫ですよ、明日は私がオープンなので。そういえば、金子さんからお土産がありますよ」

 私はそう言って、バックルームにある生もみじの説明をした。子供のいない金子夫婦は旅行が趣味で、それが長期間でも日帰りでも、かならずお土産を買ってきてくれる。

「生もみじ、っていうの。日持ちしないから早く食べるよう、わっちゃんにも言ってあげてね」

 金子さんはそう言うと、銀色が光る前歯を見せて笑った。「わっちゃん」とは伊澤さんのことで、金子さんは誰にでも苗字をもじった愛称をつける。「原田」という苗字から、私のことは「だっちゃん」と呼び、その一風変わったネーミングセンスに最初は戸惑ったが、今ではすっかり馴染んでしまった。

「あらそうなの。私、あんこ苦手なのよね」

 伊澤さんはどうでもよさそうに返事をして、小さくため息をついた。彼女は少しでも嫌な部分があると、すぐに拒否反応を示す。サバサバしているといえば聞こえは良いが、なんでもはっきり口にする彼女の性格が、私は少し苦手だった。

「原田さん、良かったら私の分もあげる」

 今日もまた、伊澤さんは自分の口から出た言葉の冷たさに気付いていなかった。胸のざわつきが伝わらないよう慎重に礼を言い、仕上げに一通りテーブルを拭こうと手洗い場の方に目をやると、件の二人組が歩いてくるのが見えた。
 彼女はロールアップした細身のデニムを穿いていたが、トップスは相変わらずグレーのパーカーだった。彼はいつもどおりワイシャツとベストをきっちり着こなし、黒いモンクタイプの革靴を履いていた。はっと息が漏れたが、不審に思われないよう、テーブルを拭きながら動向を見守った。

 二人はフードコート内に入ると、真っ先にアイスクリーム・チェーンへと並んだ。ショーケースにはドレスの品評会のように色とりどりのアイスたちが収まっていたが、注文はすでに決まっているのか、鮮やかなドレスには目もくれず、まっすぐに前を見つめていた。彼らの前後で待つ人々は皆、だらしなく張り付くようにショーケースを凝視しており、二人のピンとした立ち姿は際立って、威厳すら感じられるほどだった。

 会計を終えて彼らが向かった先は、座席部分に穴のあいた、窓際のソファー席だった。それに気付いた途端、何故かそのソファーが二人にふさわしくない、ひどく汚らわしい物であるように思えた。その直感のような衝動から、気付けば私は、二人に話しかけていた。

「恐れ入ります、お客様。こちらの席は痛みがひどく、差し支えなければ隣のソファー席をご案内いたしますが……」

 シートの穴はほつれが浅く広がった程度で、さして気になるものでもない。そのため、このように声掛けをしたのは初めてで、すぐに己の衝動を恥じた。

「もしかして、これから清掃に入られるところでしたか。それならば申し訳ない。僕たちは他所へ移りましょう」

 要らぬ世話であったというのに、それは怒りには程遠い、丁寧で柔らかな声だった。

「いえ、そういうわけではありません。どうか、どうかお座りになってください」

 目の前の空気をかき混ぜるように大きく手を振ってみせると、その姿がおかしかったのか、ぷっと女性が吹き出し、つられるようにして男性も笑った。

「ああ、失礼。では、お邪魔させていただきます」

 男性はちょうど穴の真上に腰掛けた。綿のはみ出かけた様子など、まるで気にしていないようだった。

「かえって気を遣わせてしまい、申し訳ございませんでした。では、失礼いたします」

 やっとの思いでそう言うと、私はすぐさま二人に背を向けてごみ袋をつかみ取り、伊澤さんへの挨拶もそこそこに、バックルームへと逃げ込んだ。

<続く>


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