夏の風の神、パンに祈るために 第5話
あれから時折、仕事中に久野さんが演奏する姿を想像することがあった。しかし、脳裏に浮かぶのは彼の運指ではなく、落ち着きのある声から連想される柔らかな旋律だった。彼の作り出す音は、きっと彼の声質と似ているのだろう。私は、聴いたことのない音色を思い描くたびに、「人によって感覚器の感度は違う」という言葉を思い出していた。
「違い」とは、私にとって個性の定義だった。長年、劣等感を抱き続けてきたために、「誰もが等しく優れているわけではない」という想いを、ぼんやりとした概念として心に留めていた。人と違うことは決して恥ずべきことではない、と信じることで、無意識のうちに自分自身を慰めていたのかもしれない。久野さんの言葉は、そんな信念をすっきりとまとめてくれていた。
仮に五感のすべてが高感度であるならば、それはとても恐ろしいことだ。冴え渡る視覚はあらゆるものを捕らえ、聴覚は聞きたくない音まで拾いあげてしまう。さまざまな匂いが常に嗅覚を刺激し、食事をとれば素材や調味料の激しい主張が味覚の調和を乱すに違いない。皮膚感覚は研ぎ澄まされて、些細な怪我すら激痛を伴うだろう。
こんな状態が続けば、どんな人間でもあっという間に気を病んでしまうはずだ。劣っている部分があるからこそ、人は人として正常に生きていけるのだ。
そうして私は、「印象派」と呼ばれるアーティストに深く興味を持った。二人を繋いでいる共通点についてもっと知りたかったし、同じ場所に立って話がしたかった。
そのために、私は何度も図書館を訪れた。最初は何から手に取れば良いのか見当がつかなかったため、とりあえず久野さんが言っていた、クロード・モネの画集を探すことにした。
館内の一番奥に設けられた絵画コーナーは、どこか厳粛な雰囲気すら感じられたが、同時にうら寂しく、おかげで気兼ねなく、ゆっくりと資料を探すことができた。資料はどれも英字タイトルだが、五十音順に並べられており、アルファベットの羅列とあかさたなが頭の中で混同した。まみむめも……M……M、O……ぶつぶつと声にならない声でつぶやきながら棚を凝視していると、ついにそれらしき一冊を見つけることができた。表紙には、青空の下で日傘を差し、こちらを見つめる女性が描かれており、それはポスターなどでもよく見かける、非常に有名な絵だった。
ぱらぱらとページをめくり、中を確認してみると、「睡蓮」だけでもかなりの枚数があることに驚いたが、皆等しく既視感があり、どれが一番有名な睡蓮の絵なのかはわからなかった。
もちろん絵画だけでなく、「印象主義音楽」についても調べた。西洋音楽のコーナーで「印象派」や「印象主義」と書かれた資料を手当たり次第開き、サティ、ラヴェル、ドビュッシーの名を目で追った。
そのうちに気が付いたことだが、三人はもちろん、印象主義の作曲家はフランス人が多かった。もしや、と思いモネの画集を開くと、彼もまたフランス人なのだった。
絵画に関しての知識は、学生の頃に美術の授業で習った程度で、ほとんど記憶になかったが、何故かモネの絵には強く惹きつけられた。彼の作品には他の絵画とは圧倒的に違う「何か」をひしひしと感じて、一枚一枚に釘付けになり、取り憑かれたようにページをめくっていった。親近感を覚えるのは浮世絵の影響を受けているからだろうか。生涯についての記述も穴が開くほど眺め、私の心は画集の中に広がる世界へ吸い込まれていった。
モネは晩年、後の代表作となる睡蓮の連作に着手し、亡くなるまでの間に二百点以上の睡蓮を描き上げた。はじめは細かいモチーフまでしっかりと描き込まれていたのが、徐々に水面と睡蓮だけという簡素なものになっていき、最晩年の作品ではそのほとんどが抽象的な描かれ方となっている。これはモネが重度の白内障を患っていたためであると推測され、私はユキちゃんのことを、また久野さんの言葉を思わずにはいられなかった。異なる病気、そして対象とはいえ、晩年のモネもまた、判別することが難しい人間だったのだ。
第一印象というものを、人は通常、顔で判断するだろう。美醜に関係なく、まず顔を見ることで「良い人そうだな」「ちょっと気難しそうだな」などの印象を抱き、大体の性格を判断する。また顔に現れる年齢を読み取って、その人にあった話し方で接することもある。つまり、顔はすべての入口なのだ。その入口が閉ざされている場合、一体どこから相手の心に入り込めば良いのだろうか。
一番の疑問ではあったが、このことをユキちゃんに直接聞くことは憚られた。本来病気に関する質問というのはとてもデリケートなもので、健常者からされる質問というのは、本人が幾度となく聞かれていることであったり、自身なりの答えを出して諦めていることであったりという場合も少なくない。回答を簡潔に説明することができない場合も考えられ、心無い質問によってその病気である当事者が嫌な思いをすることがほとんどなのだ。私はユキちゃんのことを傷つけたくなかったし、できることならばこれからもずっと大切に付き合っていきたかった。だからこそ特に、彼女のペースを大事にした。
印象派の画家で言うならば、ユキちゃんの絵はルノワールの作品によく似ていた。とはいえ、私はブックカバーに描かれた花の絵しか知らないのだけれど、それは水滴の一粒までが綿密に表現されていて、そこに触れれば、指先が濡れてしまいそうなほどだった。水滴は陽の光を吸い込んでまばゆく煌めき、花たちは笑うように咲き誇っていた。
久野さんの演奏に思いを馳せる一方で、ユキちゃんがキャンバスに向かって絵を描いている姿を想像することも多かった。彼が奏でる、ゆったりとした優しいジムノペディの横で、彼女は暖かな微笑みの絵を描く。モデルはピアノを弾いている久野さんかもしれないし、庭に咲き乱れる花かもしれない。ユキちゃんなら、雲一つない晴天を見ながら、そこに差し込む光を美しく再現することができるはずだ。彼女が光を描くとするなら、久野さんはきっと、光を音にすることができるだろう。
私はいつしか、二人が表現する光について考えるようになっていた。そうして机を拭きながら、椅子を直しながら、窓から差し込む光に強く照らされるたび、二人のことを強く想った。
<続く>
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