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夏の風の神、パンに祈るために 第9話

 彼らは時間ぴったりに現れた。今日のユキちゃんはいつもと違い、淡い水色のカーディガンにキナリのシフォンスカート姿で、久野さんは髪をおろし、いつもよりずっとカジュアルな格好でいた。

「待たせてしまったみたいで申し訳ない。さあ、行こうか」

 リネン素材の白シャツがふわりと香る。それに続いて、ローヒールのパンプスがコツコツと控えめな音を立てた。そんな高貴な二人の後を、履き古したスニーカーが慌ただしく床を擦りながら、ぱたぱたと追うのだった。

 余裕を持って乗り込んだバスの車内では、一番後ろの窓側席に久野さんが滑り込み、その横にユキちゃんが並んだ。私は久野さんの前に座り、通路側の席に荷物を置いた。出発する頃には、程よく席も埋まり、人が増えていくにつれ、二人の口はきつく閉ざされていった。元々大勢が混在する場所では気配を消す彼らだったから、それはさしてめずらしいことではなかったが、私は少し寂しさを感じた。

 回転木馬のように過ぎる街並みは、二人がそばにいるだけで、まったく違うもののように思えた。そんな瑞々しい景色を眺めているうち、私は恐ろしい事実に気が付いた。休日といえど、思えば外出らしい外出はほとんどしていない。図書館さえもこのバスのルート内であり、生活必需品や食料の買出しはもちろん、美容院などの自己メンテナンスもすべてショッピングモールで事足りた。私の生活は、すべてこの無料バスのルートで完結していたのだ。

 思えば今の職場に勤める前から、私は完結された世界の中でしか生きていなかった。しかし、周りに何もなかったわけではない。自分自身が何もしようとしていなかったのだ。

 ベルの音がまた響く。ああ、もう駅なんだ。私は心の中でつぶやく。友達と話しながら、重たい荷物を背負いながら、皆がぞろぞろとバスを降りていく。この人たちはここから、一体どんな世界へ旅立っていくんだろうか。

 そのレンタルショップは今どき珍しい個人経営で、駅前という好立地にも関わらず、驚くほど人の気配がなかった。メインで置かれているのは映像作品のようで、DVDやブルーレイ・ディスクが主体となるこの時代に、ビデオテープが堂々と鎮座している不思議な店だった。

 CDはレジから遠く離れた一角にひっそりと、まるで投げ売りされるように乱雑に並べられ、五十音順はおろかシングルとアルバムの区別すらつけられていなかった。ジャンルはかろうじて分かれていたが、クラシックは特にないがしろにされているらしく、「西洋音楽」と銘打って、ジャズやボサノヴァと一括りにされていた。しかし、その枚数は長い棚の反面をすべて覆うほどの量で、品揃えだけはしっかりしているのが恨めしい。

「なんだか宝探しをしているみたい」

 ユキちゃんはこの状況を楽しんでいるようで、手にしたCDが目当ての物でなくても、ひとつひとつのジャケットを入念に眺めていた。頻繁に手を止めてはあまりに真剣に見入ってしまうので、温厚な久野さんもつい注意を促した。

「ユキ、そんなにのんびりしていたら、宝物は永遠に見つからないよ」

 テキパキと選別する彼に生返事をしながら、それでもユキちゃんはケースをじっくり見つめている。

「わあ、ビートルズのカバーアルバム。ゴスペルアレンジだって」

 雑すぎるジャンル分けとマイペースなユキちゃんに、もはや久野さんも私も苦笑いをするしかなかった。

 隅々まで根気よく探し、彼はドビュッシーの他にラヴェル、ムソルグスキーのピアノ全集を見つけ出した。特にムソルグスキーのCDを目にしたときなどは、なんということだ、と感嘆の声を漏らしていた。

「彼も印象主義の作曲家なんですか?」

 興奮冷めやらぬ久野さんは、笑みを湛えたまま大きくかぶりを振る。

「いや、彼は違う。だが、ドビュッシーが編み出した『全音音階』は、彼の音楽から着想を得たと言われているんだよ」

 そう言いながら、彼はドビュッシーのCDを上に重ねた。

「全音音階といえば有名なのが、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』だ。僕はムソルグスキーの作品を民謡的だと捉えているけど、この曲はそんな彼のイメージをそのまま連想させてくれる」

 今度は、その上にラヴェルを乗せた。

「そしてラヴェル。オーケストレーションにおける才能に長けていた彼が編曲し、有名になったのが、ムソルグスキーの『展覧会の絵』だ。ちなみにラヴェルはさっき話した『牧神の午後への前奏曲』も編曲しているんだよ。ああ、すべてのピースが揃った気分だ」

 結局、私はラヴェルとムソルグスキーの作品集、それに、久野さんがコンサートで演奏する曲が入った、クラシックのオムニバスを借りた。レンタルショップを出ると辺りは薄暗くなっており、帰宅ラッシュのせいか、わずかながらに人波ができていた。

「原田さんは明日も早いんじゃないかい? ここらで解散としようか」

 久野さんは胸ポケットに指を潜らせ、時刻表を取り出した。

「ああ、私の家はこのあたりなんです。歩いて帰るので大丈夫ですよ」

 おかまいなく、という調子で手を振って見せると、彼はユキちゃんの様子をうかがい、時刻表をしまった。

「そうかい。僕たちはひとつ先のバス停なんだけど、今日は久しぶりに疲れてしまったみたいだ。タクシーで帰ることにするよ」

 見れば、ユキちゃんは確かに疲労感を纏っていた。彼女にとっても、今日は刺激的な一日だったに違いない。タクシーを拾い、二人が乗り込むところまで見送って、私は家路を急いだ。早くこのアルバムを聴こう。そしてまた三人で音楽の話をするのだ。高鳴る想いで帰宅したときには、この後二人の身に起きる重大な事態など知る由もなかった。

 翌日の朝、ぼんやりとメールチェックをしていると、覚えのないアドレスからメールが来ていることに気付いた。未登録のアドレスだったが、件名は「原田さんへ」となっており、知り合いからのメールであることは間違いなく、何やら不穏な思いが過ぎる。慌てて開封すると、それはユキちゃんからのメッセージだった。

――いまK病院にいます。ヒロさんが大変です。 夕希――

 文面はいたってシンプルで、それが余計に不安をかきたてた。送信時刻は昨夜の二十三時。ああ、どうして気付かなかったんだろう。
 だが、今は焦っても仕方がない。出勤時間も刻一刻と迫っている。

――返事が遅くなってごめんなさい。仕事が終わったら向かいます。十四時は過ぎるかもしれません。本当にごめんなさい。――

 急いで入力を済ませて送信ボタンを押し、祈るような気持ちで家を出た。バスに揺られていても一向に気持ちは落ち着かず、メールの送受信を何度も更新してみる。当然ながらすぐに返事がくるわけでもなく、しょうがないことだとわかっていても、焦りはつのる一方だった。従業員入口を抜けたあたりでやっと有希ちゃんから返信があり、立ち止まって食い入るように文面を見た。

――とりあえず、今のヒロさんは元気です。でもしばらく入院になりそう。病室は、三〇三号室です。――

<続く>


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