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夏の風の神、パンに祈るために 第11話

 病室での宣言どおり、夕希ちゃんは一人で職業安定所へ通うようになった。職歴のない彼女はとりあえずアルバイトから始めることにしたそうだが、「相貌失認」というハンデを背負いながらの職探しは、極めて難しいようだった。
 しかし、夕希ちゃんは諦めなかった。失明の恐怖と戦う久野さんを懸命に介護しながら、閉ざし続けていた心を無理やりこじ開けて、たくさんの面接をこなしていった。

 そうして、街が秋色に染まる頃、宣告どおり、久野さんの瞳は光を失った。彼はすでに覚悟を決めていて、主治医も驚くほど毅然とした態度でそれを受け止めたが、目を開くことだけは断固として拒否していた。

「世界が見えないのは目を閉じているからだと、そう思いたいんだ」

 久野さんは強く、どこまでも前向きだった。いや、身をよじるほどの悔しさ、悲しさ、そういった負の感情を一切感じさせないよう、絶えず気丈に振舞っていた。

 当然ながら、久野さんがコンサートに参加することは不可能となり、彼の代役はNというピアニストが務めることになった。チケットのキャンセルも考えたが、久野さんはそれを頑なに拒むばかりか、自分も会場に行くと言って聞かなかった。彼は特別扱いをひどく嫌がり、今まで通りの振舞いを強く望んでいた。

 夕希ちゃんは、障害者支援施設で清掃のアルバイトとして働くようになった。理解ある職員たちの下、偽ることなくありのままをさらけ出すことで、なんとか交わることができたようだった。清掃という業種を選んだ理由として、「あんまり人と話す必要がないから」と話していたが、私が働いている姿に感銘を受けたのだと、久野さんがこっそり教えてくれた。

 月日が過ぎる中で、久野さんが白杖の扱いに慣れてきた頃、夕希ちゃんも職場に親しい人が増えてきたようで、三人で公園へ出掛ける日もあった。カフェで話すことはほとんどなくなってしまったが、共に過ごす時間は以前よりも増えていた。

 久野さんのリハビリに立ち会って、三人で最初に覚えたのは、机に置かれた物の位置をアナログ時計の文字盤に例える「クロックポジション」というものだった。そのおかげで、食事をはじめとする日常生活は比較的スムーズに行うことができるようになったが、使い慣れない食器が出てくる外食時は、カレーライスや丼物など一つの器に納まったものを選ぶことが多かった。

 コンサート当日、近くの喫茶店で昼食をとったときも、すぐさまメニューを確認し、ハヤシライスがあることに安堵した。

「こうしてコンサートの日を迎えられて、僕はすでに感動でいっぱいだ。わがままを聞いてくれて、本当にありがとう」

 深々と頭を下げる彼に、私たちも「どういたしまして」と会釈した。

「夕希、僕は失明してから、君が抱える恐怖心をやっと理解することができた。視力はあっても、相手の表情がわからないのは見えないのと同じだけの恐ろしさがあるだろう。そんな中で君は、立派に就職さえしてみせた。君は本当に強くなった。たいしたものだ」

 久野さんは手探りで夕希ちゃんに触れると、その背中をやさしく撫でた。

「僕は今まで視覚ばかりに頼って、目から入ってくる情報にすべてを委ねていた。だから相手の声や話すスピードなんて一切気にしていなかったんだけど、今になってようやく『声色』という言葉の意味がわかった気がするよ。華やかな色味を持つ声や、落ち着きのある色彩の声、今ではすべての声が、カラフルな絵になってまぶたの裏に映るんだ」

「今の久野さんは、音を見ているんですね」

 私がそう言うと、彼は強く頷いてみせた。

「そう、僕は視力を失って『音を見ること』を知った。以前の僕なら瞳が邪魔をして、音が持つ本来の色彩に気付くことができなかっただろう。だから、今の状態で人の演奏が聴ける日を迎えることができて、僕は嬉しさすら感じている」

 N氏の演奏は、本当に素晴らしかった。久野さんの言葉を借りるなら、彼は演奏という方法でステージという名のキャンバスを塗りつぶし、美しい作品を幾つも作り上げていた。約二時間半の公演時間はあっという間に過ぎ去り、彼が退場してからも、拍手の音は鳴り止まなかった。

 言いようのない高揚感に包まれたまま会場を後にし、帰りのバスを待つ間も、その興奮は続いていた。夕希ちゃんと私は、パンフレットを何度もめくりながら、一曲ずつそれぞれの感想を言い合っては、良かった、素晴らしかった、と締めくくるのだった。

「筆や絵の具がなくても絵画を描くことができる。彼はそれを証明してくれたんだわ」

 夕希ちゃんは恍惚とした顔でそう言ったが、私は「これが久野さんの演奏だったら、どれだけ素晴らしい絵を描いただろう」と悔やまずにはいられなかった。

 パンフレットには、その日演奏された曲と作曲家のプロフィールが簡単に紹介されていた。ショパン、ベートーヴェン、モーツァルト……名立たる音楽家たちと共にラヴェルとドビュッシーの名もあり、中でも特に目を引いたのはラヴェルの略歴だった。晩年の彼は軽度の機能障害に悩まされており、亡くなる十年前に交通事故に見舞われて以降、作曲が困難になってしまったのだという。私はそんなラヴェルに久野さんの姿を映し、心臓がきゅっと掴まれるような気持ちになった。


 クリスマスも慌しく過ぎ去り、気付けば本格的な冷え込みが街を包んでいた。テレビのニュースは暖冬であると報じていたが、一歩外を歩けばあっという間に芯まで冷える。
 年中無休のショッピングモールは、年末年始も大忙しだ。テナントはすべてモールの営業日に沿うため、飲食店街は特に活気づいていた。しかしフードコートは通常の土日と変わらない落ち着きで、まるでそこだけぽっかりと穴が開いたようだった。

 そんな折、夕希ちゃんから「サプライズでパーティーをしたいんです」という一通のメールがあった。なんとも珍しいことに、久野さんの誕生日は大晦日らしく、彼女が働いている施設の実習室を借りることができたというので、そこで一緒にお祝いをしたいとのことだった。

「私は大晦日の日も仕事だって言ってあるわ。外に誘うなら『一緒にディナーを食べに行きましょう』とか、そういう理由がいいかしら。とにかく、絶対にバレちゃだめだからね」

<続く>


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