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高校生の私は阿佐ヶ谷で熱唱した

たしか火曜日だったと思う。私は男子バレーボール部に所属していたが、火曜日は体育館を使うことができず、筋力トレーニングしかできない日だった。体育館が使える日より1時間早く部活が終わり、放課後に時間があった。私は高校2年の約2ヶ月だけ、この火曜日にボイストレーニングに通った。

ボイストレーニングに通った理由をはっきり思い出せないが、歌いたかったというシンプルな気持ちだったと思う。高校生になり、本格的に音楽が好きだと自覚した私は、音楽で表現したいという欲が湧いていた。ただ、軽音楽部に入ったり、友達とバンドを組んだりする時間的な余裕はない。そこで、一人で歌えばいいと考えていた。

ネットで少し調べて出てきたボイストレーニングの案内に申し込んだ。メールで申し込みをして、案内されたのが阿佐ヶ谷駅から徒歩3分ほどにあるマンションの5階とかだった。心臓をバクバクさせながら、防音仕様になった重い扉を押した。

「あ、こんにちは〜」芯のある女性の声がした。優子さんはサバサバとした印象で、物怖じしているところのないフラットな人だった。部屋の広さは5畳ほど。カーペット敷の部屋で、電子ピアノとマイク、音響設備、楽譜が置かれていた。少し湿った匂いがして、「不思議な空間だな」と思った。優子さんはその雰囲気を察したのか、「ここレンタルしているんだけどね。狭いよね」と笑った。「さて、何を歌おうか」

私は歌うことが大好きだ。ただ、人前で歌うことがすごく恥ずかしくもあった。その理由は好きなアーティストが女性ボーカルである場合が多かったからだ。当然、女性ボーカルの曲を原曲キーのまま歌うことができず、キーを下げて歌うとなんだか盛り上がらないことが嫌だった。音痴だとも思わないけど、上手いかどうかも分からない。そんなよく分からない状態を、誰かに晒すのが嫌だった。

ただ、繰り返すが歌いたかったのだ。私が当時歌いたかったのは、aikoの「かばん」だった。なぜ歌いたいか。だってaikoが歌っているとき、めちゃくちゃ気持ちよさそうだったから。私はかばんをでかい声で歌いという衝動が抑えられず、阿佐ヶ谷の狭いマンションに来たのだ。優子さんにaikoのかばんを歌いたいというと、驚いたりする様子もなく、淡々と楽譜を探し、ピアノで弾き始めた。

すごい恥ずかしかった。知らない女の人の前で、急にかばんを歌っているのだから。でも、優子さんは乗っていた。仕事だからそうしているのだろうけど、即興でピアノを弾きながら、聞いてくれていた。歌い終わって一言優子さんがいった。「いいじゃんいいじゃん。でもやっぱり男の人が歌う客も歌ってみよう。何かない?」

私は当時よく聞いていたRADWIMPSの「青い春」をチョイスした。また優子さんは楽譜を探して、即興でピアノを弾いた。私が歌っていると、今度は先ほどと違って少し顔をしかめた。「さっきの曲みたいに1オクターブ下で歌う必要ないよ。声出してみてよ」。私は恥ずかしながら、キーを下げて歌っていたようだった。曲と同じキーで歌うと優子さんの目が丸くなった。「さらにいいじゃん!!!!それ!!!!」ただ、私はあるトラウマを一瞬思い出した。

中学1年の頃、音楽の時間が大好きだった。合唱したり、楽器を触ったりすることが好きで、音楽の時間が待ち遠しかった。年に一度くらいのペースで合唱コンクールがあり、全校生徒の前で歌う機会があった。

私は中学時代、弱小男子バレー部に所属していた。思春期特有の持て余した自己承認欲求が爆発しそうだった。ただ、運動会とかのイベントでは目立てることがあり、合唱コンクールにもクールを気取りながらも気合いが入っていた。

合唱コンクールで楽しく歌い終えると、女子バレー部の先輩が近寄ってきた。「環の声でかすぎて、音痴なのかと思ったわ」その後、何かの機会で見た合唱コンクールの映像でも、私の声が爆音で響いていた。消えていなくなりたかった。

私が「青い春」を熱唱したとき、一瞬中学の悪夢がよぎった。ただ、優子先生の「いいじゃん」がすかさず消し去ってくれたのだ。私は自分の声のデカさと特異性から一瞬で解放されたのだった。

その後、優子先生とのボイトレは楽しかった。腹式呼吸を練習したり、リズムの取り方を勉強したり、強弱の付け方を学んだりした。ただ、部活に専念したい気持ちが強くなり、途中でフェードアウトした。阿佐ヶ谷は学校から近い場所ではあったから、たまに行ってはマンションの最上階を見上げたりしていた。

この前、久しぶりに阿佐ヶ谷へいった。友人とお茶をのみ、近くの神社をウロウロした。そのときにもまだあのマンションはあって、小さいけど重そうな扉もあった。優子さんに背中を押された私は、音楽が大好きで、友達とカラオケに行っては好きな曲を歌い散らかして、毎日の生活に音楽がある。ライブに行って泣いたり笑ったりを繰り返して、大人になった。

高校生の私が阿佐ヶ谷で勇気を出せたから、私の生活で音楽が鳴っている。


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