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寂しさと戦っていたのかな

友達の愛ちゃんがくれた質問を何度も思い出す。
「環を1番占めている感情って何?」
僕は切なさだと思っていた。
だけど、それは合っているようで間違っていたかもしれない。
寂しさだったのかな、とふと思った。

きっかけは北海道に転勤で来たことだった。
私は元来、色々な場所に「住む」という行為が好きだ。
理由は明快。
住んでみないと分からないことが沢山あるから。
例えば街のリズム。
朝の慌ただしさを感じ、昼に太陽の光線を浴び、夜の静けさを吸い込む。
至る所にある渋い看板や新しい建物、商売をしていたお店が店じまいを行う姿。
その土地に根付く日常を感じるのはやはり旅行だけではできない。

また、自分に蓄積される地理的な知識も誇らしかった。
あそこを曲がればこんな店があって、こんな雰囲気で・・・と列挙出来ることがとても好きなのだ。
だけど、それは一時的な楽しさをくれるが、一人でいるとどこか自分の芯となるような真ん中の部分がぽっかりと空いたような気持ちになる。

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北海道で親友ができた。
名前を学という。

学も道外からの移住組だ。
だけど自分と違うのは、自ら選んでこの土地にきたということだった。
地元を離れた理由はスノーボードをするためだという。
生まれ育った土地に大好きな人たちを残してでも、自分が体験したいことをしにきたという。

私から見る学の生活はとても輝いて見える。
アウトドア好きの彼はよく外にいる。
キャンプをして、空を見上げ、大好きな音楽を聴き、美味しい野菜を頬張っている。
ただそれだけなのだが、にこやかに瑞々しく外の空気を吸い込んでいるその姿はいつも充実感でいっぱいだ。

学と一緒に出かける度、緩やかで綺麗な空気が自分の中にも吹き込む。
北海道に慣れてきてしまい、東京と大して変わらない生活をしている自分にとって、その空気はとても新鮮だ。味があって温かくて体を包んでくれるようなその雰囲気。
新しい自分らしささえ感じさせてくれるこの体験は貴重だなと感じている。
「環ちゃんもきなよ」と遊びに誘ってくれるその笑顔は、何度思い出しても温かい気持ちになるのだ。

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学から私と同種の寂しさを感じることがあまりない。
一人でいることは自分の自由な生活をできる特権だと冷静に自覚し、毎日をアクティブに動いているように思う。
(まだ知り合ってから浅いので断定はできないが)

私も割と行動的で性格も前向きな方ではあると思うが、曇りなく生活を楽しめているのかというと少し違う。
やはり寂しさというものを常に抱え、LINEや電話などのコミュニケーションで薄めながら生活を送っている。


そして、学はもう少しでこの土地を離れる。
海外へ移住するのだという。
期間は一定程度決まっているものの、延長になるかもしれないし、帰ってくるかもしれないという。
それは彼が現地に行って決めることであって、私や家族、友達だって縛ることはできないのだろうなと思う。

私と学は別にパートナーでもなければ、家族でもない。
ただただ仲が良く、親友だということ。
でもこの親友というのがなんというか厄介で、その人の生活を止めたり縛ったりすることはできないのに、相手を愛おしいと思い寂しくてたまらなくなるのだ。
学が北海道からいなくなったら。
想像するだけで鼻の奥が痺れる。

この感情は大いに既視感があり、パートナー、そして行天や桃香、美香に対して抱く感情と似ているのだ。ただしパートナーの場合は少しわがままを言えるから和らぐこともある。

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やはり親友という関係がどうにもならない。
特に行天と美香は海外に行ったり、関西へ移住したりしたことがあり、何度となく寂しさを感じてきた。そうこう言っている私も実はそうで、石垣島にいったり、茨城にいったり、大阪にいったり。日本国内ではあるがあちこちに住みながらパートナーや親友たちを置いてけぼりにしている。
パートナーや親友たちは多少かもしれないが寂しさを感じてくれていただろう。

自ら親友たちと離れている私だが、各地に行って、ある程度慣れてきたら、結局のところ寂しさを感じるのだ。
「パートナーちゃんは元気に会社に行っているかな」
「行天は今頃なにやっているんだろう」
「美香と桃香は今日遊んでいるのか。俺も行きてえ」
ここに学のことも入ってくるのだろう。
「学はうまいもん食えているのかな」ってな具合で。


これまでの自分は、寂しさとどう向き合っていたか。
とにかく仕事を詰め込みまくるのだ。
自分が限界を迎えるまで働き、ぎりぎりを渡り歩いて、タスクをガンガンこなしていく。
上司や部下にイライラして、自分がやれる最も高いクオリティーのものを差し出して、これでもかと酒を飲む。
そして体調を崩して、寝込んで、そしてもう一回仕事に戻る。
パートナーいわく、突然高価なものを買ったりもするらしい。

でも仕事で寂しさを紛らわせるのは、本当になんの解決にもなっていない。
事実、新聞記者時代はその生活で体を壊し、一人でいるのが嫌になって、どんどんと自分が落ちていった。
北海道にいる今も仕事はどんどん進むが、一体なんのために働いているのかがわからなくなり、結局パートナーや親友たちに会いたいということをぐるぐる考える。
学と仲良くなれたから寂しさに支配されるような時間は減ったものの、この出会いがなければもっともっと仕事を詰め込んで、休みさえも取らないようなことをしていただろう。
寂しさと対峙したとき、「避ける」「紛らわす」という行為でしか戦うことができない自分が実はいまだに残っている。

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ただ、一筋の希望があって、それは創作活動をすることだ。
創作活動というとカッコよすぎるかもしれないが、このコラムや小説、美香と一緒にやっている曲作りの作詞、友達たちと集まって録音しているポッドキャストの編集などなど。
これらの活動は寂しさがエネルギーとなり、確実に消化(昇華)できている。
創作活動をしているときは寂しくないし、しっかりと寂しさと向き合い、勝っていけている気がするのだ。

この創作活動をするには時間が必要だ。
なので仕事で寂しさを誤魔化し続けていると、創作活動に割くエネルギーがなくなるだけではなく、寂しさを消化できずにどんどんと自分に溜まっていく。
それはいつか自分を滅ぼすことになって、仕事をやめたり、誰かと喧嘩をしたり、金がなくなったりする。
つまり仕事をしすぎればしすぎるほど、悪巡回に陥ることになるのだ。

そして勘違いをしてはいけないのは、パートナーと一緒に暮らし、親友たちと頻繁に会っていたとしても創作活動はできるということだ。
日々の寂しさがなくなることはないし、創作活動は怒りや悲しみ、楽しさをエネルギーにできることもある。
事実、自分の写真は楽しいという感情が乗ったときの方が美しくなるし、パートナーと暮らしているときの方が深い愛や日々の切なさがうまく増したりする。
自分を陥れない、悪循環に巻き込まないために適度に寂しさを解消できる状態を保つべきなんだとわかってきた。

20代のころは、この寂しさを抱えながら仕事で奮闘していることが正義なんだと思っていた。
こうやって寂しさと戦っていることが、もうすでに勝っていることなんだと。
パートナーや親友たちを置いてけぼりにしてでも仕事に一人で打ち込んでいるのがすごいのだと。

でも違うのだ。
私はまだ30歳だが、たとえば行天と出会ってから15年が経つ。その時間はあっという間だった。本当に早かった。
年をとる、時間がたつというのは止められないから、会えなくなったり、もしかしたら亡くなったりすることが知らず知らずのうちに忍び寄ってきているかもしれない。
その時が来ることを無自覚のまま、「会いたいな〜」といって、明日を一緒に作ることを放置したままにするのは、絶対に後悔が残ると感じる。
寂しいから会いたいって、僕はもっともっと大切な人たちに伝えて、しっかりと対話を続けていきたいのだ。
そして、そのエネルギーを創作にもあてて、作品を作っていきたいと思う。

仕事を選ぶ時、忙しくて刺激的で寂しさがたっぷりな職業に惹かれていた。
でもそんなよくわからない達成感のために自分を粉にしていくのはやめよう。
大好きな人たちと、一緒にいたい人たちといれることを選び、寂しささえも昇華しながら瑞々しく生きていけるように人生を送っていこうと思う。

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自分が寂しさと戦っているかもしれないことについて、ツイッターで呟いたらアクションをくれる友達がいた。
そいつは僕にとっての創作活動みたいに、寂しさに勝てたり、和ませたりすることがあるのだろうか。
たとえなかったとしても、僕と話して解消されるのであれば・・・うん、会って話そうっと。


学からもらった温かい風、そしてそこから気づいた寂しさとの向き合い方に、これから胸を張っていこうと思う。
好きな人(広義)には好きって、ちゃんと伝えなくちゃね。



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