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今年も赤城山の麓を思う

山がある。森がある。
カエルが鳴く。牛もいる。
東京出身の私にとって、初めて感じる”ふるさと”は群馬の祖父母の家だった。

祖父母は裕福ではない。
それなのに、木造2階建ての家には立派な庭があり、手作りの犬小屋があって季節の花々が咲いていた。日曜大工が好きな祖父と、草花が好きな祖母が愛情を注いでいた庭だった。
東京・住宅街育ちの私にとって、そんな立派な庭があるのは驚きだった。

祖父母の家の裏手にある舗装されていない道路を少し歩くと、立派な山が見えた。赤城山だという。冬には雪化粧をして綺麗だった。
さらに歩くと、桃の木が並んでいた。桃の木を抜けると田んぼがあって、もっと行けば牛舎があった。夜にはカエルが鳴いて、雨が降ると雨蛙がそこらじゅうを跳ねていた。
東京では決して見ることのない風景が、小学生の私にとっては新鮮だった。

春には祖母とヨモギを摘んで団子を作った。
夏には祖父とカブトムシをとって、プールにいった。
秋には祖母と落ちている栗を見に行って、押し花を作った。
冬には祖父と雪だるまを作った。
春夏秋冬に思い出があり、私は赤城山の麓にある祖父母の家を”ふるさと”と認識して育ったのだった。

中学生、高校生になっても定期的に群馬の祖父母の家に行った。
少しの照れや煩わしさは感じながらも、ふるさとではのんびりと過ごしていた。
祖父とホームセンターに行ったり、祖母と近くを散歩したりして自然を満喫していた。

社会人になって数年後、祖父が亡くなった。
大好きだったテニスができなくなり、プールにも行かなくなった。
車も運転できなくなるとあっという間に体力が衰えたようだった。
隠れて吸っていたタバコが悪かったのか、肺がんが見つかって余命もほとんどなかった。

私は少し、祖父が男らしく怖い一面もあった。だけど、祖父がガサガサの手でニコニコしながら時折頭を撫でてくる姿を、私は好きだった。
亡くなる前に会いに行った時も、そのガサガサの手はまだガサガサのままで、これがなくなるのかと切なくなったものだ。

祖父が亡くなると、急にふるさとに穴が空いた気持ちになった。
年に一回とか二回くらいしか行かないのに都合がいいかもしれない。
だけど、ふるさとがどこか変わっていってしまう気がして、やるせなかった。

後日、何も告げず、祖母に会いに行った。
急な来訪に驚きながらも、腰の曲げてニコニコする姿は、愛する祖母のままだった。
夕方になり、窓際で庭を見る祖母が寂しそうな顔をしていた。
「元気ないね」
「だってね、ずっと一緒にいた人がいなくなったんだからさ。寂しいよ」
いつもは「いつ死んだっていい」「私も長くないから」と憎まれ口でおちょける祖母が、本当に寂しそうだった。
私が泣いたらなんだか祖母が本当にいなくなってしまう気がして、グッと堪えた。

そして祖母もゆっくり衰え、髪が真っ白になった。
老人ホームに入るのを嫌がりながらも、渋々楽しんでいた。
コロナになり対面で会うことができなくなると、少しずつ周りが分からなくなっていったようで、ガラス越しに見る私の顔は分からないようだった。入院してしばらくして亡くなった。老衰だった。

赤城山にまだ雪が残るころ葬式が行われ、ふるさとにいた祖父母はいなくなったことを実感した。
「あーこの風景懐かしいな。私たちが学生のころはこの風景をずっと見ていたんだった」母と叔母はそう懐かしんだ。
でも、私にとって赤城山は「小さい頃に見た風景」として覚えているわけではないと、感じた。

私の見ていた赤城山の風景には必ず、祖父がいて、祖母がいて、その姿越しに見る山だった。
もしかすると、私のふるさとは祖父母だったのかもしれない。

私は東京出身で、東京が大好きだ。
だけど、「ふるさと」と聞くと、いつも祖父母の手が曲がった腰が、笑顔が浮かぶ。
赤城山の麓にはあまり行かなくなることは目に見えているが、きっと心の中で何度も祖父母を思い出し、ふるさとを感じるだろう。

祖父も祖母もこの世からいなくなった。
でも私が2人の笑顔を覚えている限り、”ふるさと”は私の心を温かくし続ける。


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