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朱色の筆が待っていた

しんと静まりかえる木造2階建て住宅、1階の和室。
そこにいるのは私と父方の祖母のみ。
これから始まるのは毎年恒例、お正月の書き初めだ。

小学生だった私は冬休みに出る宿題「書き初め」が大嫌いだった。
理由はとても簡単。祖母からの厳しい指導が入るからだった。
「長い一日が始まる…」と憂鬱に感じていたことを鮮明に覚えている。


父方の祖母は千葉県に住んでいた。
夫は他界している。
正月になると私たちの家に来て一緒に過ごしていた。
そして、書き初めの宿題を一緒にやることが恒例になっていた。

小学生のころ、冬休みには必ずこの書き初めの宿題が出た。
小学1~2年の時は硬筆、3~6年は毛筆。
「お正月」とか「美しい春」とか、そんな文字を書いて提出する。
その中でよく書けた人の作品は廊下などに貼り出され、表彰を受けるという流れだった。

祖母は習字についてとにかく厳しい人だった。
「じゃあ、今年もやろうか」と祖母からの柔らかい一言でスタート。
和室に2人きりになり、延々と文字を書き続ける。
書き終えると、
「ここのハネをもう少し大きく書いた方がいいね」
「筆を入れるときは書き順の通りに。動きを止めないで」
「ここは太くなっちゃうと文字として見栄えが悪くなってしまうよ」
などと指導を受ける。
祖母は手に持った朱色の筆で半紙に線を入れていく。

祖母が半紙に朱を落とすたびに、「ああ」と残念に思った。
学校の宿題としては決められた枚数を出せばいいので、ささっと書いて宿題を終わらせることもできたからだ。
「せっかく書いたのに」
「冬休みなのに」
「なんでこんなことに厳しい指導をうけなくてはいけないんだ」
と、いつも心の中は文句の嵐だった。

大体1日2~3時間くらいやって、それが3日間くらい続く。
それぞれの日にうまくできた数枚を保管して学校に提出する。
後半になるにつれ、「気を抜かないで」「しっかり」と祖母から厳しい指摘も飛ぶ。とにかく嫌だった。

祖母は優しいが、少し怖い人だった。
ダメなことはダメというし、両親への口のきき方とか食事のマナーとか、とにかく物申してくる人だった。
父や母にあーだこーだ言っているというタイプではなかったが、兄と私にはしっかりとマナーなどについて言ってくる人だった。
そのため、私は苦手に感じており、その印象の上で習字のことがあったので、かなり嫌な時間だった。


学年も上がってきて徐々に自分の気持ちを言語化できるようになってきた折、父になぜそこまで祖母が習字にこだわるのか聞いたことがある。
「おばあちゃんは字がうまいからな〜文字を綺麗に書けることは今後の人生にとってもいいことだからね」
お酒で赤くなった表情でさらりと語った。
確かに祖母も父も、字がとても綺麗だ。
父も祖母から厳しい指導を受けたのか聞くと、「そりゃね」と笑う。

父曰く、祖母は私に指導するときよりも厳しく父に指導をしていたという。
そのおかげもあって習字で「優」などの成績を取り続け、しまいには学年でもかなり限られた人しか取れない「秀」を取ったこともあるという。
父もとても嫌だったらしいが、自分のためになっているんだと教えてくれた。
そんな話を聞いて「なるほど」と一時的に納得はしたものの、やっぱりこたつで寝ていたり、ゲームをしていたりすることの方が好きで、書き初めが待っている正月がとにかく嫌いになってしまった。


ただ、お正月に祖母から習字の指導を受ける恒例行事は中学に入るとなくなってしまった。
祖母が凍結した地面で転倒し腰を骨折して寝たきりになり、膵臓癌までみつかってしまったからだった。
私に習字を指導していた和室は祖母の療養部屋となり、介護用ベッドが置かれた。
そこで習字をすることも一緒にテレビを見ることも減っていった。



病気の進行は着実に進んでいった。
祖母は徐々に痩せていき、大学病院へ入院した。
私は受験なども重なりお見舞いに行く回数もそこまで多くとることができなかった。そして受験の前、祖母が亡くなった。
私はまだ子供だったから、集中治療室に入ることもできず祖母の死を知ったのは家のリビングでだった。
あまり良い思い出がないと思っていたが、初めての親族の死に動揺し、かなり泣きじゃくった。
母に頭を撫でられたときもまだまだ現実が遠く、何が起こっているのかわからなかった。

祖母の家の近くにある寺で法事が行われ、しんしんと悲しみが押し寄せた。
でも祖母に対してはどこか苦手意識があるまま帰らぬ人となってしまい、後悔というか、何かモヤモヤとしたものが残り続けていた。
笑顔は思い出せるが、それは私が祖母を笑わせたというよりは、祖母が優しさで笑ってくれたようにしか思えない状態だった。

祖母の遺品を整理し、祖母が持っていた家を売り払うこととなった。
一部の遺品は、書き初めで使っていた、祖母が療養部屋として使っていた和室に置かれることとなった。
私専用の棚があるスペースの前に置かれた段ボールをふと見たとき、原稿用紙のようなものがあるのを見つけた。

原稿用紙は冊子に挟まっていて、その冊子は交通事故で死亡した遺族へ向けたものだった。そこに掲載された文章のところに、その会の支部会長として祖母の名前があった。原稿用紙はどうやらこの冊子に掲載するための文章のようだ。
読み進めると、子供たち(つまり私の父)が中学生のころ、夫を交通事故で亡くしたということが書かれていた。悲しみのなかで、どうにか子供たちを自立させるべく働き、考え、教育をする中でこの会で同じ境遇の人に会え、そこで救われていたのだという。子供たちが自立した後もその会での活動を続けていたようだ。冊子の中に収まっている写真には祖母を真ん中に50人くらいが整列していた。祖母は笑顔だった。
祖母がその会を取りまとめていた様子は作文と写真を見れば明らかだった。

そしてその作文を読んだ時にどきりとした。
そこにあった筆跡は間違いなく祖母のものだったからだ。
一つ一つの線が細く、それでいてしっかりとトメハネされた文字。
とても読みやすく、感情の込められた文字は私の心を動かすものだった。
正直なところ、祖母に対してはいい思いより、あまり思い出したくないような思いが過半数を占めている。
ただ、祖母が残そうとした意志や思いがあったのだと感じた。





私はいまだにそんなに文字を書くのがうまくはない。
でもある日、元職場の先輩に言われたことがある。
「坂本の字って、なんか愛着湧くんだよな。読みやすいというか優しいというか」
それはきっと祖母が残してくれたものが私の中から滲み出た瞬間だったのだろうと思う。

私は現在、仕事で定期的に祖母のお墓の近くに行くことがある。
その時は祖母のお墓を綺麗にして、手を合わせることをルーティンとしている。
祖母とはちょっと苦い思い出が多いけど、残してくれた意志や思いは引き継いでいきたいから。

これからも、ちょっと勇気を出してお墓まで会いに行こうと思う。

<環プロフィール> Twitterアカウント:@slowheights_oli
▽東京生まれ東京育ち。都立高校、私大を経て新聞社に入社。その後シェアハウスの運営会社に転職。▽9月生まれの乙女座。しいたけ占いはチェック済。▽身長170㌢、体重60㌔という標準オブ標準の体型。小学校で野球、中学高校大学でバレーボール。友人らに試合を見に来てもらうことが苦手だった。「獲物を捕らえるみたいな顔しているし、一人だけ動きが機敏すぎて本当に怖い」(美香談)という自覚があったから。▽太は、私が尖って友達ができなかった大学時代に初めて心の底から仲良くなれた友達。一緒に人の気持ちを揺さぶる活動がしたいと思っている。▽好きな作家は辻村深月

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