大久保風土記(猫目)

大久保に生まれ育ち、今も大久保に住み、日々、大久保を徘徊するフラヌール。 ↓↓↓ …

大久保風土記(猫目)

大久保に生まれ育ち、今も大久保に住み、日々、大久保を徘徊するフラヌール。 ↓↓↓ インスタグラム  https://www.instagram.com/nekome_okubo

最近の記事

少年探偵団、大久保に誕生す

◆少年探偵団誕生  怪人二十面相と長きにわたる闘いを繰り広げてきた少年探偵団。その誕生を描いているのが、昭和11年発表のシリーズ第一作「怪人二十面相」だ。  少年探偵団を結成したのは、明智小五郎でも小林少年でもない。羽柴壮二君という小学生である。実業界の大立者・羽柴壮太郎氏が所有するロマノフ家の宝冠を見事に盗み出して逃走しようとする二十面相に罠をしかけたのが、次男の壮二君。ところが、これに激怒した二十面相は、壮二君を誘拐してしまう。二十面相が壮二君解放の交換条件に挙げたの

    • 怪人二十面相と小林少年が見た戸山ヶ原     ①戸山ヶ原とは何か

       怪人二十面相は、戸山ヶ原にアジトを持っていた。    この事実は、少年探偵団シリーズの記念すべき第一作にして、シリーズ最高傑作である「怪人二十面相」にはっきりと記されている。  戸山ヶ原とは何か。  戸山ヶ原とは、新大久保駅と高田馬場駅との間、山手線をはさんで東西に拡がっていた広大な野原である。東側というのは、現在の大久保三丁目であり、西側というのは、現在の百人町三丁目・四丁目だ。東側には、戸山公園大久保地区と、早稲田大学西早稲田キャンパスや新宿区立中央図書館などがある。

      • 怪人二十面相と小林少年が見た戸山ヶ原       ②怪人二十面相の戸山ヶ原

         「車のとまったところは、戸山ヶ原の入り口でした。老人はそこで車をおりて、まっくらな原っぱをよぼよぼと歩いていきます。さては、賊の巣くつは戸山ヶ原にあったのです。  原っぱのいっぽうのはずれ、こんもりとした杉林の中に、ポッツリと、一軒の古い洋館が建っています。荒れはてて住みてもないような建物です。老人は、その洋館の戸口を、トントントンと三つたたいて、少し間をおいて、トントンと二つたたきました。」(『怪人二十面相』)  老人に変装した二十面相が車を降りたのは、戸山ヶ原百人町地

        • 怪人二十面相と小林少年が見た戸山ヶ原    ③小林少年が見た戸山ヶ原

           「窓の外は荒れはてた庭になっていて草や木がしげり、そのずっと向こうにいけがきがあって、いけがきの外は道路もない広っぱです。その広っぱへ、子どもでも遊びに来るのを待って、救いをもとめれば、もとめられるのですが、そこまで声がとどくかどうかも、うたがわしいほどです。  それに、そんな大きなさけび声をたてたのでは、広っぱの人に聞こえるよりも先に、二十面相に聞かれてしまいます。いけない、いけない、そんな危険なことができるものですか。  小林少年は、すっかり失望してしまいました。でも失

        少年探偵団、大久保に誕生す

          怪人二十面相と小林少年が見た戸山ヶ原      ④その後の戸山ヶ原

           二十面相が戸山ヶ原にアジトを構えていた頃、日本は、東京オリンピック招致に向けて動き出していた。開催予定は昭和15年。そして、昭和7年、正式に立候補を果たすと、昭和10年のロサンゼルスでのIOC総会で、ついに東京オリンピックの開催が決定された。   さらには、昭和11年というから、奇しくも、「怪人二十面相」が発表された年、戸山ヶ原の屋内射撃場がオリンピックの射撃競技に使われることが決まった。「大人国のかまぼこ」が、世界の表舞台に躍り出ることになったのだ。それにしても、二十面相

          怪人二十面相と小林少年が見た戸山ヶ原      ④その後の戸山ヶ原

          大久保が失ったもの

          ◆新大久保と大久保    明治28年、大久保村に甲武鉄道の大久保停車場が作られた。現在の中央線大久保駅である。そして、大久保駅に遅れること30年、大正4年に完成したのが山手線の新大久保駅だ。「大久保駅」に続く新しい駅だから「新大久保駅」と命名された。今では、この駅名から生まれた「新大久保」というエリア名が定着している。韓国語の発音に倣って、「신오쿠보(シノクボ)」などとも呼ばれることもあるらしい。ところが、「新大久保」という地名、住所は存在しない。「大久保」があるだけだ。つま

          大久保が失ったもの

          出歯亀伝説 ①出歯亀とは何か

           「出歯亀(デバカメ)」という言葉、もしかしたら、すでに死語かもしれない。それでも、「岩波国語辞典」や「三省堂国語辞典」、そして、「大辞林」など、現在使われているほとんどの辞書の見出し語になっており、つまりは、すでに市民権を得ている言葉だと言えるだろう。例えば、「広辞苑(第七版)」では、「(明治末の変態性欲者、植木職の池田亀太郎に由来。出歯の亀太郎の意)女湯をのぞくなど、変態的なことをする男の蔑称。」とされ、他の辞書でも、ほぼ同じように定義されている。要するに、性的暴行事件の

          出歯亀伝説 ①出歯亀とは何か

          出歯亀伝説 ②明治41年3月22日

           時は、明治41年。日露戦争は3年前に終結している。  場所は、東京府豊多摩郡大久保村字西大久保。現在の新宿区大久保二丁目である。  今となっては想像しにくいが、当時の大久保は東京ではない。明治22年に市制・町村制が施行され、15区からなる東京市が誕生するが、大久保村は、その15区には含まれていないのだ。のちに三多摩も加えられることとなる、東京府なのである。15区に含まれている牛込区がすぐ目の前まで迫っていたものの、お隣の大久保村は、あくまでも東京市外、ぎりぎりの郊外であり、

          出歯亀伝説 ②明治41年3月22日

          出歯亀伝説 ③出歯亀登場

           ところが、事件は意外な展開を見せる。事件から9日が過ぎた4月4日、嫌疑者のひとりが自白をしたというのだ。4月6日の東京朝日新聞には、「大久保美人殺 出歯亀の自白」という見出しが踊った。「出歯亀」という言葉が、初めて世間に登場したのである。「出歯亀」とは容疑者のあだ名、その本名は池田亀太郎、35歳。植木職人であり鳶でもある男で、住所は、東大久保409番地、新宿六丁目の西向天神社の裏手で、西光庵の門前である。23歳の妻・すずと、2歳の子があり、また、69歳の母親・ひさとも同居し

          出歯亀伝説 ③出歯亀登場

          出歯亀伝説 ④出歯亀の歩いた道

           それでは、予審調書と、裁判で亀太郎本人が語った証言をもとに、改めて、事件当日の亀太郎の行動を追っていこう。  明治41年3月22日。早朝、亀太郎は、四谷愛住町に住む親方・高野源吉の家に行き、仕事にありついた。場所は荒木町。亀太郎の家からはすぐ近いとは言え、四谷区だから、東京市内である。仕事は、取り壊した家の材木の運搬だったようだ。作業はふたりで始めたが、途中で3人合流し、結局、5人になった。夕方、5時を回ってから仕事を終えると、一度、愛住町の源吉の家に戻り、その妻から、50

          出歯亀伝説 ④出歯亀の歩いた道

          出歯亀伝説 ⑤自然主義の徴しの下に

           事件は、すぐに日本中の耳目を集め、連日の報道合戦も加熱した。亀太郎のあだ名「出歯亀」も、早速、流行語となる。裁判には、多くの傍聴人が押し寄せた。事件は、ひとりの植木職人が犯した暴行殺人にとどまらかなったのである。果たして、その背景には何があったのか。  冒頭に載せた森鴎外の言葉を改めて見てみよう。 「そのうちに出歯亀事件というのが現われた。出歯亀という職人が不断女湯を覗く癖があって、あるとき湯から帰る女の跡を附けて行って、暴行を加えたのである。どこの国にも沢山ある、極て普

          出歯亀伝説 ⑤自然主義の徴しの下に

          出歯亀伝説 ⑥その後の出歯亀

           さて、出歯亀は、その後、どうなったのか。  池田亀太郎に無期懲役の判決が下ったのは、明治41年8月10日、東京地方裁判所でのことだった。罪名は、強姦致死罪。亀太郎とその弁護団は、自白は警察における拷問のせいだとして、無実を主張し、控訴する。亀太郎には、敏腕弁護士もついた。それでも、翌年、明治42年4月29日、控訴審でも無期懲役の判決が下りてしまう。すぐさま上告をしたものの、これも棄却され、明治42年6月29日、とうとう無期刑が確定し、亀太郎は、東京監獄から小菅監獄に移監され

          出歯亀伝説 ⑥その後の出歯亀

          岡本綺堂の大久保②

           大正12年。  その頃でもまだ大久保は東京の郊外だった。淀橋区大久保として、東京市に編入されるのは、昭和7年のことだ。大久保に住んだときのことを、綺堂は「郊外生活の一年」という随筆にまとめている。  「省線電車や貨物列車のひびきも愉快ではなかった。(中略)湯屋の遠いことや、買物の不便なことや、一々かぞえ立てたら色々あるので、わたしもここまで引込んで来たのを悔むような気にもなったが、馴れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春が来て、庭にある桜の大木二本が

          岡本綺堂の大久保②

          岡本綺堂の大久保①

           「その年の春はかなりに余寒が強くて、二月から三月にかけても天からたび/\白いものを降らせた。わたしは軽い風邪をひいて二日ほど寝たこともあった。なにしろ大久保に無沙汰をしていることが気にかゝるので、三月の中頃にわたしは三浦老人にあてゝ無沙汰の詫言を書いた郵便を出すと、老人からすぐに返事が来て、自分も正月の末から持病のリュウマチスで寝たり起きたりしていたが、此頃はよほど快くなったとのことであった。そう聞くと、自分の怠慢がいよ/\悔まれるような気がして、わたしはその返事をうけ取っ

          岡本綺堂の大久保①

          その夜の戸山ハイツ②

           「腰巻お仙」の戸山ハイツでの公演は、この時だけにとどまらなかった。それから半年後、状況劇場は再びこの地に戻ってきた。  昭和41年10月28日、29日、30日、と、3日連続で行われた「腰巻お仙 忘却篇」がそれであり、今となっては伝説となった公演である。「口笛の歌が聴こえる」では、あくまでも小説ということなのか、この2回の公演の様子があえて1回にまとめられており、少々、史実がつかみにくい。小説中の描写は、プールの部分を除けば、ほとんどは2回目の公演を描いたものであるとも思われ

          その夜の戸山ハイツ②

          その夜の戸山ハイツ①

           嵐山光三郎の「口笛の歌が聴こえる」は、60年代の東京を舞台にした著者の自伝的な青春小説で、この時代のスーパースターたちが実名で続々と登場するが、これが実に痛快で、興味が尽きない。三島由紀夫、澁澤龍彦、寺山修司、檀一雄、赤瀬川原平、横尾忠則、など、誰もが知る文化人から、有象無象のアングラの怪人たちまでが入り乱れ、、まさにオールスターキャストで、安田講堂事件や新宿騒乱事件などで揺れ動いていたこの激しく破天荒な時代を、生々しく描き出している。    それは、東京オリンピックの2年

          その夜の戸山ハイツ①