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大久保が失ったもの


◆新大久保と大久保
 
 明治28年、大久保村に甲武鉄道の大久保停車場が作られた。現在の中央線大久保駅である。そして、大久保駅に遅れること30年、大正4年に完成したのが山手線の新大久保駅だ。「大久保駅」に続く新しい駅だから「新大久保駅」と命名された。今では、この駅名から生まれた「新大久保」というエリア名が定着している。韓国語の発音に倣って、「신오쿠보(シノクボ)」などとも呼ばれることもあるらしい。ところが、「新大久保」という地名、住所は存在しない。「大久保」があるだけだ。つまり、「新大久保」は、架空の町なのである。おそらく、大久保一丁目、二丁目、そして、百人町一丁目、二丁目、といった地域が、その範囲に相当する。
 町名で分かりにくければ、道や施設を基準にして考えてみよう。
 西端は小滝橋通りまで。東端は明治通りまで。北端は戸山公園大久保地区や中央病院通りまで。そして、南端は職安通りまで、というのが妥当なところだろうか。実際、このエリアの中心、つまり、大久保通り一帯が、いわゆる「コリアンタウン」であり、韓国系の店舗が密集している。そして、その一帯の内外で、韓国系以外の国の店舗も増加の一途をたどる。このエリア全体で、多国籍都市を形成しているのが、新大久保なのだ。小滝橋通りを越えてしまうと、町名は柏木や北新宿となる。北の戸山公園を越えると高田馬場で、南の職安通りを越えれば歌舞伎町、そして、東の明治通りを越えると、新宿七丁目であり、戸山である。すべて新大久保、あるいは大久保の圏外、とも思える。一方で、地名としての大久保は新大久保の一部ではあるが、例えば、大久保三丁目は、新大久保とは考えにくい。
 一方で、新大久保ではない、大久保の範囲を規定しているのは、社会学者の阪口毅氏で、その範囲規定にはいくつかの捉え方がある、としながら、今、私が「新大久保」として規定した、大久保一丁目、二丁目、百人町一丁目、二丁目、という範囲を、「大久保の『中心地区』と呼称したい」と書いている。

新大久保駅周辺

 「『中心地区』の範囲が、とりわけ社会学者や都市エスニシティ研究者によって切り出されるのは、後述するように、外国人の流入とエスニック・ビジネスの集中がこの範囲に集中し、低成長期以降の東京圏のインナーエリアの特徴が象徴的に現れているからである。これもまた大久保の〈象徴的空間〉の一つである。」(「流されゆく者たちのコミュニティ」)

 その上で、阪口氏は、社会学者としてのフィールドワークの、「大久保の概観を記述する範囲」に、大久保三丁目、百人町三丁目、四丁目を加えている。つまり、ここで考察されているのは、観光・商業の中心地区「新大久保」ではなく、外国人居住者を含む住民たちの生活圏としての「大久保」でもある。

 ちなみに、大久保三丁目というと、その範囲の多くを、戸山公園大久保地区や早稲田大学西早稲田キャンパス、などが占めている。また、百人町三丁目、四丁目、というのは、中央病院通りの北側を指し、西戸山公園や、新宿消防署のある一帯である。これらの地域には、観光客が期待するような多国籍料理店などはほとんど存在していない。つまり、観光客にとっての「新大久保」ではないのである。
 実は、この、大久保三丁目、百人町三丁目、四丁目、という、阪口氏が加えた3つの町は、かつては戸山が原と呼ばれた陸軍の広大な敷地であった。阪口氏の「大久保」は、「新大久保」に戸山が原を加えた範囲、とも言えるだろう。

◆大久保は蟹川の賜物

 さて、「大久保」という地名の由来とは何だろう。諸説あることは承知の上だが、その中で最も有力なものが、「大窪」、つまり、この土地に大きな窪があったから、という説である。ところが、「新大久保」にはもちろん、この「大久保」のどこを探しても、それらしいものを発見することはできない。では、「大きな窪」はどこにあったのか。

 その謎を解く鍵は、蟹川にある。

 蟹川は、かつて大久保を流れていた川。その水源については諸説ある。明治10年代の「武蔵国豊島郡東大久保村地引絵図」を見ると、水源は、今の西武新宿駅のあたり。一方で、明治30年代に作成された「東京府豊多摩郡淀橋町大字角筈地籍図」では、大ガードの向こう側、青梅街道の起点である新都心歩道橋あたりを水源としている。もっとも、小川の水源というものは、時代によって動くものらしい。何しろ、かつての歌舞伎町は広大な湿地帯で、至る所で水が湧き出ていた。むしろ、水源だらけだったと考える方が妥当なのだ。ゴジラで有名なTOHOシネマズ一帯は大きな池で、池は鴨場、つまり、鴨猟が行われていたという。

蟹川の水源付近に建つ東急歌舞伎町タワー

 現在、かつての池の畔には東急歌舞伎町タワーがそびえ立っている。蟹川や池など、水と関係の深い歌舞伎町の象徴として、タワーには、まるで噴水のような意匠が施されていることは周知の通りである。タワーは、蟹川の水源を指し示す象徴的なランドマークであり、つまりは、大久保の起源を示しているのだ、と、私は考えるようにしている。

 さて、歌舞伎町から流れ出した川は、北東に向けて蛇行する。
 TOHOシネマズや歌舞伎町交番に挟まれた花道通りが流路で、そのまま明治通りを越え、その後、新宿六丁目で、新宿二丁目を水源として北上してきた支流と合流すると、まっすぐに北へ向かっていた。その結果、ふたつの川が合流する新宿六丁目から、新宿七丁目、そして、戸山ハイツの敷地が広がる戸山公園一帯には、深くて巨大な窪地が形成された。もちろん、蟹川がもたらした窪である。やがて、この「大きな窪」が「大久保」という地名に転じていく。
 少なくとも、16世紀には、大久保村が存在した。その範囲は、現在の歌舞伎町二丁目、つまり、花道通りから北側、そして、新宿七丁目、六丁目一帯、もちろん、今の大久保や百人町も含め、「大久保村」と呼ばれていたのである。とにかく、蟹川の流れるところは大久保。これほどわかりやすいことはない。

 大久保村は、1591年、つまり、家康入府の頃、蟹川を境に東西に分けられた。より正確に言うならば、蟹川が作った窪地が東大久保、西の台地側が西大久保とされたのである。以来、蟹川は、大久保の人々に豊かな水をもたらし、畑や田圃が耕された。明治時代に入る頃までは、美しい田園風景が広がっていたのだ。「東京スリバチ学会会長」である皆川典久氏は、蟹川を、「グランド・スリバチ=大久保の母なる川」と書いている。(「東京スリバチ地形散歩2」)ヘロドトスのひそみに倣うならば、さらに、「大久保は蟹川の賜物」と、言い換えることもできるだろう。


蟹川の流域を見下ろす梯子坂

 蟹川が暗渠となったのは、昭和に入った頃だ。
 明治時代の終わりから、大久保は都市化して宅地化が進み、田畑を耕す川は不要となっただけでなく、増加する生活排水によって、美しかった蟹川も汚染が進んでしまう。関東大震災後の都市計画もあって、この頃、東京を流れる多くの小川が姿を消したという。
  
 東大久保を東西に横切る大久保通りは、かつては今よりも細い坂道だった。深く窪地へと下り、蟹川を渡って、再び上がる。現在もその姿を残す椎木坂である。また、上り・下りが向かい合っていることから、向坂とも呼ばれていたという。ところが、蟹川が暗渠となるのと時期を同じくして、坂と並行する新しい道が誕生する。この、東大久保の頭上を遮る「空中バイパス」は、新しいメインストリートとなり、椎木坂は旧道となって、傍流に追いやられた。確かに、蟹川やその窪地を上り下りする必要はなくなり、東京市内へと向かう大久保通りの往来は便利になっただろう。しかし、その利便性は、大久保の窪地を分断しただけでなく、窪地そのものの存在を覆い隠してしまった。その様子は今も変わらない。大久保通りを行き来するだけでは、その両側に広がる巨大な窪地に気がつかないのである。

空中バイパス・大久保通りから、蟹川の窪へと降りていく椎木坂

◆町名変更

 さて、新道の敷設以降、大久保の町名をめぐる状況はおかしくなってくる。
 まず、大久保の隣に、歌舞伎町が誕生する。意外なことに歌舞伎町の歴史は新しく、その誕生は戦後、昭和23年のことだ。ところが、繁華街・歓楽街として急成長した歌舞伎町が、その範囲を徐々に広げ、大久保を侵食してゆくことになる。

 決定的な事件が、昭和53年の町名変更である。
 長いこと西大久保と呼ばれてきた町は、その町名を、ただの「大久保」に戻した。実に400年ぶりの「大久保」復活である。そのまま、ベルリンのように東西の大久保が統合されると思いきや、むしろ、その範囲を著しく狭めてしまう。西大久保一丁目は歌舞伎町二丁目となった。現在、ふたつのバッティングセンターや多くのホストクラブが密集する一帯だ。そして、窪地である東大久保は新宿七丁目、新宿六丁目、と町名を変えた。つまり、大久保は、その地名の由来である蟹川から切り離されてしまうのだ。

 大久保は、蟹川の水源も流域も、そして、その流れによって作られた窪地まで奪われた。蟹川の水源付近、そして流域からは、「大久保」の三文字が消えた。大久保に残されたのは、窪地のない北西の台地側のみ。つまり、「新大久保」エリアや、地名としての「大久保」の、どこを歩いても、その地名の由来である「窪」と、蟹川とを見出すことができなくなってしまった。400年ぶりにその地名を取り戻した「大久保」は、代償に、アイデンティティを喪失してしまったことになる。地名、つまり大久保は、地理、つまりは蟹川や窪地を失い、逆に、地理も地名を失った。

 かつての「大久保」から、「窪」、つまり蟹川の痕跡を差し引いた地域が、現在の「大久保」となった。「大久保村」-「蟹川・窪」=「大久保」。大久保のどこを探しても、「大きな窪」を発見することができないのは、こういう経緯による。

 大久保は、新しい町に侵食されて蟹川を失い、架空の町「新大久保」にも惑わされている。町は生き物だから、それもまた運命。ただ、町の起源が見えにくくなってしまったことは残念だ。「新大久保」を訪れる観光客は、「大きな窪」など想像すらしないだろう。いや、この町の住民でさえ、今ではもう、知らないかもしれない。

 大久保誕生の秘密を解く鍵、それは、町の外に隠されているのである。


参考文献
阪口毅『流れゆく者たちのコミュニティ―新宿・大久保と「集合的な出来  事」の都市モノグラフ』ナカニシヤ出版 2022
皆川典久『凸凹を愉しむ東京「スリバチ」地形散歩2』洋泉社 2013
『新修新宿区町名誌』新宿歴史博物館 2010
田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたか』之潮 2011
鈴木理生『江戸の川・東京の川』井上書院 1990
横関英一『江戸の坂・東京の坂』筑摩書房 2010

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