見出し画像

出歯亀伝説 ⑥その後の出歯亀

 さて、出歯亀は、その後、どうなったのか。
 池田亀太郎に無期懲役の判決が下ったのは、明治41年8月10日、東京地方裁判所でのことだった。罪名は、強姦致死罪。亀太郎とその弁護団は、自白は警察における拷問のせいだとして、無実を主張し、控訴する。亀太郎には、敏腕弁護士もついた。それでも、翌年、明治42年4月29日、控訴審でも無期懲役の判決が下りてしまう。すぐさま上告をしたものの、これも棄却され、明治42年6月29日、とうとう無期刑が確定し、亀太郎は、東京監獄から小菅監獄に移監されたのである。
 ただし、当時から、冤罪の声が数多く上がっていたのも確かである。小説家・長谷川伸は、事件当時、横浜の毎朝新聞で記者をしており、出歯亀事件にも大きな関心を寄せていた。「私眼抄」という随筆の中で、長谷川は亀太郎冤罪説を唱え、次のような噂話を取り上げている。
 事件当夜、とある早稲田大学予科教授が、戸山ヶ原を抜け、森山湯の通りにかかった時、22、3歳の若者が慌ただしく駆けてきた。怪しいと思った教授が捕まえてみると、教え子だったという。若者が、「急用で、親戚の家に行くところです。」と言うので、そのまま別れた。翌朝、新聞記事で事件を知ったが、教授は、その若者が誰だったのかは口にしない。

画像3

 
 また、亀太郎の母親は息子が逮捕されてからというもの、生活が楽になったという。風説によれば、自白すれば、母親の面倒は見てやる、などと持ちかけられたらしい、など。
 長谷川の文章には、事実関係の誤りも多く、一概には信用はできないものの、裁判では出てこなかった話まで明かされている。小沢信男も、長谷川の冤罪説の材料の多くについては怪しいと疑問を抱きつつも、母親の暮らし向きが楽になったという話に注目し、「世間には表と裏があるもので、じつは裏では出歯亀はシロと、とりわけ地元では頷きあっていたのではないか。」と書いている。(「真説池田亀太郎伝」)
 何をやってもうまくいかず、借金ばかりが嵩み、老いた母親と妻子を抱えた亀太郎が、自ら泥をかぶることで、家族の生活が保証されるのなら、と考えたとしても、不思議ではない。いや、不思議ではない、と考える人々が少なからずいた、ということである。そのひとつひとつの真偽はさておき、事件発生当時から、亀太郎の冤罪説はさまざまな形で流布してきたことは間違いなさそうだ。弁護士である森長英三郎もこんなことを書いている。

「これらを綜合すると、池田は女湯覗きの悪癖があり、森山湯でも板塀の節穴から覗いたことはあったであろう。これとゑん子殺しを強いて結びつけられたでのはあるまいかと思われる。ほかに池田に結びつく物的証拠は何一つない。手淫を常習とする男が、強姦を企てることは不自然であるようにも思われる。」(「史談裁判」日本評論社)

 亀太郎は、森山湯の節穴から女湯を覗いたことがあるとは認めている。その悪癖が、亀太郎逮捕につながった。自然主義文学への揶揄が高まる中、「覗きの常習者」亀太郎は、警察にしてみれば、おあつらえ向きの存在だったかも知れない。まして、この時代の警察捜査に、現代のような科学的な手法は存在しない。当然、体液のDNA鑑定などできるわけがない。「亀太郎は、自白中心で、カンにもとづく捜査が主流だった時代の最後を生きた。犯人を特定するために血液型や指紋を照合する技術は用意されていない、その最後の時代である。」と書いているのは、永井良和氏である。(「尾行者たちの街角」世織書房 2000)
 実際、「出歯亀」事件以外にも、多くの冤罪事件が生まれていた時代だった。自白した、という事実さえ整えてしまえば、罪はいくらでも作ることができたのである。

 さて、小菅監獄に収監された亀太郎は、模範囚として15年ほどを過ごし、大正10年頃に仮出獄したという。時代は新しい年号を迎えている。東京論の名著「東京 下町山の手」(講談社学術文庫)の中で、サイデンステッカーは書いている。

「例の江戸の浦島太郎も、明治の初めから四十年後にひょっこり帰ってきたよりも、日露戦争後の十年間留守をしていて帰ってきた場合のほうが、変化の大きさにもっと驚いたのではあるまいか。文化史でも、政治史上の区分に倣って、天皇の治世の終わりを区切りにするのが慣例だが、明治と大正との区切りは、むしろ日露戦争の直後、かりに明治四十年としたほうが、はるかに鮮明になるのではあるまいか。」

 サイデンステッカーは、明治40年を、年号の区切り、時代の変わり目として捉え、その後の10年間の劇的変化を語っている。明治41年に逮捕され、10年以上を刑務所で暮らした亀太郎の時間と見事に一致する。亀太郎が放り出されたのは、新しい年号の、新しい時代だった。亀太郎も、また、浦島太郎となって、町を歩いたのだろう。
 小菅監獄を出た亀太郎は、どこへ向かい、何をしていたのか。そして、15年ぶりの大久保は、亀太郎の目にどのように映ったのだろう。事件の夜、亀太郎が歩いた蟹川沿いには、大正3年に市電が開通していた。電車は、蟹川の右岸を走り、西向天神社の眼下を抜けると、高台の抜弁天へ向けて、長い坂道を騒々しく駆け上がっていく。それだけではない。市電の開通に伴い、蟹川の水田は埋め立てられていた。あの夜、静まり返っていた田園には、「チンチン!」という警鐘が響いている。蟹川も生活排水にまみれ、汚れ、淀み、悪臭を放っていた。かつて亀太郎が暮らした東大久保の風景は一変していた。

画像1


 いや、そもそも、亀太郎は、大久保に戻ったのだろうか。
 こんな話が残っている。書いているのは、作家にして演劇評論家の正岡容である。
 「この出歯亀の出獄した時、機をみるに敏なる上野鈴本亭は、さっそく、本人に交渉して、松平紀義や五寸釘式の懺悔談の口演を依頼した。(中略)当日、鈴本亭の前に麗々と『池田亀太郎出演』の看板の掲げられるやいなや物見高い都雀はソレ行けヤレ行け早くも開場早々にして、未曾有の超満員とはなった。どうですちょいと頭をつかえばこのお客さま、これだから寄席稼業は止められませんやと席亭大恐悦でいる時しもあれや、たちまちにして下谷署から出歯亀の出演まかりならぬの一大厳命。さしもの大盛況も、あはれ、一夜の夢とはなり果ててしまった。」(「艶色落語講談鑑賞」あまとりあ社、1952)
 うまい話というのは、そうそうあるものではない。それからの亀太郎は、再び、植木職人として地道に働いていたようだ。暗い過去の記憶を消すために、と、前歯も抜いてもらったという話もある。出っ歯が出歯亀の由来であるか否かはさておき、そのトレードマークである出っ歯を抜き、ただの亀太郎として歩み始めたのだ。一度は、再婚もしたらしい。亀太郎は、関東大震災も生き延び、時代はさらに新しい年号、昭和を迎える。
 さて、冤罪説が根強く囁かれる一方で、出歯亀事件は、猟奇事件としても、人々の好奇心をつなぎとめていたようだ。例えば、江戸川乱歩である。昭和5年、「世界犯罪叢書」の一巻として出版された「変態殺人篇」(天人社)に収められた「湯帰りの惨劇」がそれだ。見事なエログロ描写ではあるのだが、基本的な事件の経緯については、意外と事実に忠実である。おそらくは、裁判記録を元に書いたのだろう。ただ、そこに、幸田家の会話、警官たちの会話、そして、亀太郎と同僚たちの会話、などのフィクションが挿入されている。さらには、亀太郎は、以前からエン子を知っていて、密かに想いを寄せていた、ということになっている。

「待つ間程なく、彼女は、湯上がりの挑発的な匂ひを、闇の中に放散しながら、亀太郎の前を通っていった。亀太郎は直ぐに追ひ縋った。そして声をかけると、驚いて逃げ出ささうとしたので、もう夢中になった彼は、それに二軒で呷った焼酎は彼をどんなに勇気付けたか知れないのだったが、(ここから、伏せ字が続く。)」(「湯帰りの惨劇」)

 ただし、この作品は代作、つまり、恩人に頼まれ、その出版事業に名前を貸し出しただけと、後に、乱歩自身が書いている。(「探偵小説四十年」)

 その後、亀太郎は、再び新聞沙汰を起こす。出獄から11年、出歯亀事件から25年がたった昭和8年のこと。5月5日付の東京朝日新聞に、「老痴漢、捕えてみれば往年の『出歯亀』」と報道されたのである。還暦を迎えようとしていた亀太郎が、早稲田の銭湯「松の湯」の裏手で、覗きの現行犯で捕まったというのだ。亀太郎は、「立ち小便をしていただけだ。」と主張した。結局、微罪ということで、すぐに釈放されたが、本人は、「何分にも、あの前科ですから、そう思われても仕方がありません。」と語ったという。釈放された亀太郎が帰った先は、牛込薬王寺町の植木職人・井川親方の家で、取材に対し、親方は、2年ほど前に仕事先で知り合って世話をしているといい、「よく働くお爺さんですよ。」と答えている。亀太郎は、その二、三年前に、唯一の身寄りにも先立たれ、孤独な老後を過ごしていたらしい。

 この事件を最後に、亀太郎の消息はとだえる。いつまで生きて、いつ死んだのか、誰も知らないのである。昭和9年に還暦を迎えるはずだった亀太郎は、この後、二・二六事件を目にし、そして、第二次世界大戦をもくぐり抜けていただろうか。さらには、70歳を迎えて、戦後の東京を生きただろうか。
 その二・二六事件が勃発した昭和11年、愛人・吉蔵を殺して、その性器を切断して逃亡を図ったという、いわゆる「阿部定事件」の犯人・阿部定は、懲役を終えた後、昭和16年に出所した。その後、住居と職業とを転々とするが、その中で、「妖婦」阿部定として、やはり、芝居小屋に出たことがあるという。その後、映画(「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」)にも出演したが、昭和50年頃から消息をたっており、その後の生死は誰も知らない。
 出歯亀と阿部定。デバカメとアベサダ。あだ名と本名の違いこそあれ、それぞれの四文字の名前が、記号となって流通したこのふたりは、その衝撃的な事件により、近代日本の性犯罪史に残る存在となった。そして、その晩年については誰も知らず、おそらくは、ひっそりと亡くなった。ただし、このふたりを同列に並べるつもりは毛頭ない。定が、愛人である被害者・吉蔵に対して抱いた強烈な欲望や、自らが犯した殺人への意思というものが、亀太郎には決定的に欠けている。なりゆきの殺人であったことや、そもそも、冤罪であったかもしれない、ということだけではない。自ら物語を作った定に対し、亀太郎本人は何の物語も生み出していない。もしかしたら、「覗き」という一点だけは、亀太郎の意思であり欲望だったかもしれないが、そこから先には、亀太郎の意思や感情、そして、人間性というものは一切見えてこない。見事な空洞なのである。「出歯亀」という滑稽なあだ名、自然主義の流行と検閲、冤罪疑惑、すべては、亀太郎の同僚や、世間の潮流が作り上げた物語だったのだ。「出歯亀」という言葉は、やがて、空っぽな亀太郎本人を置き去りにして、ひとり歩きを始め、100年を超える旅を続ける。ただ、亀太郎の、そのあまりの空虚と、その空虚さゆえに巻き込まれた運命に、言いようのない悲哀を感じてしまうのである。

 事件後の大久保に、時を戻そう。
 出歯亀事件が起きた明治40年代は、大久保にとっても、大きな転換期であった。明治30年代の後半から、大久保が「文士村」と化していたことは、冒頭に書いた。国木田独歩を始めとする多くの文士や画家が、大久保に移り住んだ。
 そんな時に、出歯亀事件が起きる。人気の少ない、静かな環境は、一歩間違えれば、犯罪の温床となりかねない。昼間は、文人たちがこぞって散策を楽しんだ戸山ヶ原も、夜ともなれば、無頼漢たちのたまり場となっていたのも確かなようだ。
 出歯亀事件が起きた時、実は、国木田独歩は大久保にいなかった。結核の療養で、茅ヶ崎の病院にいたのである。事件のことは、もちろん、独歩の耳にも入っていた。病院を見舞った戸川秋骨は、独歩のこんな言葉を聞いている。
 「僕は大久保が好い、大久保が一番すきだ。出歯亀があったって何があったって、僕は少し身体が好くなったら是非一度大久保に帰る。」(「大久保時代の独歩氏」)
 秋骨も、大久保に移り住んでおり、その後も、小泉八雲の屋敷を間借りするなど、昭和に入る頃までこの町に残ったという。独歩の気持は痛いほどわかったはずだ。ところが、独歩が大久保に戻ることはなかった。出歯亀事件の3ヶ月後の明治41年6月、療養先で亡くなったのである。

画像2

 「出歯亀事件」も落ち着きを見せる頃から、大久保も、その風景が様変わりしてくる。交通網の発達により、武蔵野の前線は、さらに西へ西へと移動して、大久保の都市化が進み始めるのだ。人口も増加する。出歯亀事件の数年後には、大久保にも市電が開通した。路線のひとつは、蟹川沿い、亀太郎が歩いた、西向天神社の前の道である。同時に、水田も埋め立てられて農家は激減した。農業用水路であった、蟹川や西大久保の秣川は、その役割を失い、荒廃していったと考えられる。

「大正時代、東京市周辺における急速な住宅地の広がりによって、小さな川ほど、水質の悪化は目立つようになり、小川はいわゆる『下水』とみなされるようになってゆく。それにともなって、さまざまな問題が生まれるようになる。臭気による不快感もさることながら、当時、見過ごすことができなかったのは衛生問題だった。」 (「『春の小川』はなぜ消えたか」田原光泰 之潮)

 亀太郎が歩いた蟹川も、西大久保を流れていた秣川も、昭和に入った頃に暗渠となった。それでも、蟹川の流路の多くの部分は、現在では、第二戸山幹線という下水道となっており、昔と変わらず、神田川へと注いでいる。
 事件の起きた明治41年には、1万人に満たなかった大久保の人口も、関東大震災の起きる大正12年には、3万人を超えている。つまり、15、6年ほどの年月で、実に3倍に増えていることになる。すぐ隣の新宿も、盛り場として急発展を遂げていた。
 大久保の変化は、そのまま、東京の変化であり、拡大化でもあった。日露戦争を勝利した日本は、そして、東京は、劇的に変わろうとしていたのだ。出歯亀は、そんな時代の大きな変節、裂け目に、ふらっと出現した徒花であった。


参考文献

■出歯亀事件
松本清張編『明治百年100大事件 下』三一書房 1968
小沢信男『ぼくの東京全集』筑摩書房 2017
小沢信男『定本犯罪紳士録』筑摩書房 1990
青柳淳郎編『明治九十九年』オリオン社 1966
正岡容『艶色落語講談鑑賞』あまとりあ社 1952
加太こうじ『東京事件史』一声社 1980
井上章一&関西性欲研究会『性の用語集』講談社 2004
森長英三郎『史談裁判』日本評論社 1969
『長谷川伸全集 第十巻』朝日新聞社 1971
宮地正人編『明治時代史大辞典 第二巻』吉川弘文館 2012
『明治・大正・昭和 事件・犯罪大事典』東京法経学院出版 1986
半藤一利『漱石・明治 日本の青春』新講社 2011
暉峻康隆『すらんぐ(卑語)』勉誠出版 2010
爆笑問題『ニッポンの犯罪12選』幻冬舎 2005
紀田順一郎『近代事物起源事典』1992
岩井茂樹『「痴漢」の文化史』(「日本研究」所収)2014
永井良和『尾行者たちの街角』世織書房 2000
小林祥次郎『人名ではない人名録』勉誠出版 2014
永井荷風『荷風全集 第11巻』岩波書店 1993
末國善己『夜の日本史』幻冬舎 2016
唐沢俊一『猟奇の社怪史』ミリオン出版 2006
江戸川乱歩『変態殺人篇』天人社 1933
朝倉喬司『スキャンダリズムの明治』洋泉社 2007
中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか』新潮社 2010
『宮武外骨・滑稽新聞 第六冊』筑摩書房 1976
槌田満文『明治大正の新語・流行語』角川書店 1983
北村一夫編『江戸東京市井人物事典』新人物往来社 1976
『朝日新聞100年の記事にみる⑤ 奇談珍談巷談 明治編』朝日新聞社 1979
『明治ニュース事典 明治41年−明治45年』毎日コミュニケーションズ 1986

■文学作品 / 文学史

田山花袋『蒲団・一兵卒』岩波書店 2002
森鴎外『ヰタ・セクスアリス』新潮社 1972
筒井康隆『俗物図鑑』新潮社 1976
『夏目漱石全集 第22巻』岩波書店 2004
『武者小路実篤全集 第1巻』小学館 1987
永井荷風『日和下駄』講談社 1999
大杉栄『獄中記』土曜社 2012
国木田独歩『武蔵野・忘れ得ぬ人々』講談社 1974
『現代日本文學体系 29』筑摩書房 1980
江戸川乱歩『探偵小説四十年』沖積舎 1989

大江志乃夫『凩の時』筑摩書房 1992

吉田精一監修『国木田独歩』株式会社日本図書センター 1990
恒藤恭『旧友芥川龍之介』株式会社日本図書センター 1987

『岩波講座 日本文学史 第12巻』岩波書店 1996
臼井吉見『大正文学史』筑摩書房 1985
中村光夫『日本の近代小説』岩波書店 1967
中村光夫『風俗小説論』講談社 2011
ドナルド・キーン「日本文学史 近代・現代篇2」中央公論社 2011
ジェイ・ルービン『風俗壊乱』世織書房 2011
伊藤整『日本文壇史 12』講談社 1996
橋本治『失われた近代を求めて 上』朝日新聞出版 2019

■地域研究 / 歴史研究 / その他
森永卓郎監修『物価の文化史事典』展望社 2008
『値段史年表』朝日新聞社 1992
大杉豊『日録・大杉栄伝』社会評論社 2009
星野文子『ヨネ・ノグチ 夢を追いかけた国際詩人』彩流社 2012
堀まどか『二重国籍詩人 野口米次郎』名古屋大学出版会 2012
ドウス昌代『イサム・ノグチ』講談社 2000
茅原健『新宿・大久保文士村界隈』日本古書通信社発行 2005
井上勝純『ゴルフ、その神秘な起源』三集社 1992

堀之内雅一『阿部定正伝』情報センター出版局 1998
曾宮一念『日曜随筆家』創文社 1962
林順信『東京・市電と街並み』小学館 1983
横関英一『江戸の坂 東京の坂(全)』筑摩書房 2010 
新宿園町会『新宿園町会誌』(非売品)1982
国友温太『新宿回り舞台』1977
野村敏雄『新宿うら町おもてまち』朝日新聞社 1993
芳賀善次郎『新宿の散歩道』三交社 1973
芳賀善次郎『新宿の今昔』紀伊國屋書店 1970
新宿の歴史を語る会『新宿区の歴史』名著出版 1977
『豊多摩郡の内藤新宿』東京都新宿区立図書館 1968
サイデンステッカー『東京山の手下町』講談社 2013
『大東京繁昌記 山手篇』講談社 1976
田原光康『「春の小川」はなぜ消えたか』之潮 2011
譚璐美『帝都東京を中国革命で歩く』白水社 2016
川本三郎『郊外の文学誌』岩波書店 2012
樋口忠彦『郊外の風景』教育社 2000
本田創『東京暗渠学』洋泉社 2017
清水勲『絵で書いた日本人論』中央公論社 1981
清水勲編『ワーグマン日本素描集』岩波書店 1988
埴原和郎『日本人の顔』講談社 1999
三田村鳶魚『江戸生活事典』1962
『新宿区史 第一巻』新宿区 1998
『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』東京都新宿区教育委員会 1984
『地図で見る新宿区の移り変わり 四谷編』東京都新宿区教育委員会 1984
『新修新宿区町名誌』東京都新宿区教育委員会 2010

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?