出歯亀伝説 ②明治41年3月22日
時は、明治41年。日露戦争は3年前に終結している。
場所は、東京府豊多摩郡大久保村字西大久保。現在の新宿区大久保二丁目である。
今となっては想像しにくいが、当時の大久保は東京ではない。明治22年に市制・町村制が施行され、15区からなる東京市が誕生するが、大久保村は、その15区には含まれていないのだ。のちに三多摩も加えられることとなる、東京府なのである。15区に含まれている牛込区がすぐ目の前まで迫っていたものの、お隣の大久保村は、あくまでも東京市外、ぎりぎりの郊外であり、境界であった。
この頃の大久保は、人家もまばらな農村で、明治30年代後半から多くの文人が移り住んできた。中でも、小泉八雲は最も早かったひとりで、明治35年に、西大久保に移住している。島崎藤村は、明治38年に移り住んできた。当時の大久保の文人たちについては、茅原健の「新宿・大久保文士村界隈」(日本古書通信社)に非常に詳しいが、それによれば、このふたり以外にも、国木田独歩、大町桂月、戸川秋骨、水野葉舟、岩野泡鳴、前田夕暮などの錚々たる文人たちが、続々と移り住んできたという。大久保は「文士村」になりつつあった。彼らがこぞって大久保に移り住んできたその理由の一つは、この郊外の村が、武蔵野の面影を色濃く残す静謐な場所だったからである。
国木田独歩が、「武蔵野」で、武蔵野の自然を発見したのが、明治31年である。独歩は、この小説の中で、おそらく、日本の誰よりも早く、武蔵野の美を見出している。その頃の武蔵野は、現代の私たちが考えるそれよりも、はるかに東側まで広がっていた。東京の郊外である大久保も、武蔵野の一部だったのだ。実際、「武蔵野」を書いた時、独歩は渋谷に住んでいた。その頃の渋谷は、大久保と同じ豊多摩郡に含まれる郊外であり、雑木林などの残る田園だったという。独歩は、渋谷を拠点として武蔵野を歩き回り、武蔵野の美を発見した。それを文章として形にしたのが「武蔵野」なのである。川本三郎氏は次のように書いている。
「ちょうどのちに永井荷風が『日和下駄』によって、それまでほとんど語られることのなかった路地や横丁に着目したように、独歩は雑木林という日常的な景観の中に『樹林美』を発見した。(「郊外の文学誌」岩波書店)
また、「明治維新によって、人口が半減してしまい、郊外への関心は、ほとんど失せてしまう。人々の意識が郊外に向くようになるのは、東京の人口が幕末の頃の人口を回復する明治三十年代のことである。」と、「郊外の風景」(教育出版)の中で、樋口忠彦が書いている。一度縮小した江戸の郊外が、数十年たって、再び、東京の郊外と重なったのだ。樋口は続ける。「しかし、郊外は同じでも、郊外を見る目は同じではなかった。一つは、郊外を居住の場所と見るようになったことである。背景には、都市環境の悪化と交通機関の発達があった。もう一つは、武蔵野の美の新たな発見である。」
武蔵野台地そのものは、関東平野の、多摩川と荒川に挟まれて広がる一帯を指すものの、人々が「武蔵野」を思い浮かべるその範囲は、時代と共に異なってくるようだ。甲武鉄道つまり現在の中央線が、新宿・立川間で開通したのが、明治22年。そして、28年には、大久保駅が開業している。交通の発展によって都市が西へ西へと広がりを見せれば、郊外の境界線と共に、武蔵野もそれだけ西へ西へと収縮する。武蔵野の前線は常に移ろいできた。当時、渋谷が「武蔵野」の前線であったとすれば、同じ豊多摩郡、東京市と郊外との市政上の境界線にあって、渋谷村とは同心円上に位置する大久保もまた、武蔵野の前線にあったと見るべきだろう。明治39年に大久保に移り住んだ画家の曽宮一念は、当時の大久保を、「武蔵野の入り口」と書いた。独歩が大久保を選んだ理由はそこにあり、それだからこそ、大久保を愛したのだ。「東京で一番空気が好い」とも語っていたというが、大久保にも武蔵野の美を見出していたのだろう。当時の大久保の風景が、独歩が「武蔵野」に描いたものとほぼ同じようなものであったことは想像に難くない。
文人たちを惹きつけた大久保の自然。大久保通りには、ぽつぽつと人家が増え始めていたが、町外れには、巨大な雑木林のような戸山ヶ原が広がっていた。彼らは、何かにつけて、戸山ヶ原を散策し、詩歌を作り、絵を描いた。大久保は、文士や画家たちの楽園となっていた。
事件は、そんな時代の西大久保で起きた。
明治41年3月22日の夜、8時頃、幸田恭の妻で、当時28歳だったエン子が、ひとりで、湯屋つまり銭湯へと出かけた。3月下旬にしては、この日は寒かった。気象庁の記録によれば、最高気温こそ11.7度で平均的なものだったが、朝晩は冷え込んで、最低気温にいたっては零度を下回っていた。夜も8時頃にとなれば、かなり冷え込んでいたことだろう。日曜日で夫も在宅しており、7時頃には、そろって夕飯を終えていた。実は、その日は、幸田夫妻の結婚一周年のお祝いで、昼間には、エン子は、世話になった知人に挨拶にも赴いていた。幸田家の住所は、西大久保309番地。明治44年の大久保の市街図で確認すると、この住所は、現在の大久保通りの、明治通りにほど近いNTT本社のあたりだろう。
幸田家を出て、右手、つまり通りの東側を望むと、通りは坂道となっていて、その向こうには巨大な窪地が広がっている。明治通りはまだ通っていない。坂道の左側には、陸軍戸山学校の正門が見える。門の前には大きな椎木があって、その鬱蒼とした枝に覆い隠されたこの坂は、椎木坂と呼ばれていた。坂の下には橋があり、その下を小川が流れていた。蟹川である。この窪地は、蟹川が作ったものであり、「大きな窪」だから、大久保という地名に転じたとされている。
幸田家を出て、左手、通りの西側を眺める。大久保の目抜き通りとはいえ、この頃には、民家や商店が、ぽつんぽつんと点在するだけの風景で、道幅も狭く、現在の大久保通りとはほど遠いものだった。はるか遠くに、大久保停車場が見える。甲武鉄道つまり中央線の大久保駅である。大久保駅は、13年前の明治28年に開業していた。曽宮一念は、このあたりの風景について描いている。
「暑い茅葺屋根、ヤッチャ場(農産物集散の家)に沿って大欅の並木が立ち、畑中の窪地には湧水が大根洗い場になっていた。農家から出る野菜車が未明に市内に列をなして続く。」(「日曜随筆家」)
大久保は農村だった。収穫した野菜を東京市内に出荷するため、早朝の仲通りは、大八車で賑わっていたというわけだ。
通りを数分歩くと、全龍寺の手前の道沿いに「万年湯」がある。今も残るこの湯屋は、水野葉舟、戸川秋骨、そして、2年後に大久保で同棲生活を始める岩野泡鳴と遠藤清も通っていた。大久保の文人御用達の湯屋だったようだ。幸田家からすぐ近くには違いないが、この夜、エン子が向かった湯屋は「万年湯」ではない。西大久保57番地の「森山湯」である。NTTの、大久保通りをはさんだ向かい側、大久保地域センターの角を北に入り、そのまま奥まで進むと、新宿区立中央図書館の敷地に面した道に突き当たる。その頃は、戸山ヶ原と呼ばれる広大な陸軍の敷地であり、その手前に「森山湯」はあった。幸田家からは、歩けば5分とかからない。この当時、大久保村には、「万年湯」も含め4軒ほどの湯屋があったが、中でも、この「森山湯」を、日頃から使っていたという。
夫婦の家には、恭の弟と叔母が同居していた。エン子は、ちょうど1年前に嫁いできて、妊娠五ヶ月の身重だった。報道によれば、エン子は、「少しく小柄にして色白く黒目勝の眼は分明として水晶に点を打ちし如くなるより近所にても美人の聞こえ高りき」(東京朝日新聞)という。牛込区に住む笠原三平の長女で、裁縫や茶の湯に親しみ、箏曲にいたっては、15歳で名取りになっていたという。
一方で、エン子が再婚だったことも報じられた。二十歳の頃に結婚したという最初の夫は、その名を、野口米次郎という。碩学・紀田順一郎まで、エン子は、「詩人野口米次郎の先妻」(「近代事物起源事典」東京堂出版 1992)などと書いており、当時も、あっという間に、この風説が広まった。ヨネ・ノグチこと野口米次郎は、アメリカ帰りの詩人。明治38年に出版された「Japan of sword and love」という詩集の中で、「おえんさん」という詩まで書いていという事実も、風説を後押しした。すると、東京朝日新聞が動く。3月25日付で、すでにこの詩人本人に問いただしているから、動きは早い。詩人はこの噂を否定し、「おえんさん」という詩はまったくの偶然で、特定の婦人をモデルにしたものではない、と語っている。
事実はどうであったか。エン子の初婚は明治34年とされるが、そもそも、野口は、その時、日本にはいなかったのである。明治26年に渡米した野口が帰国したのは明治37年、事件の4年前だ。では、その後に、エン子と結婚した可能性はあるのか。確かに、野口の女性関係は放埒で知られている。アメリカでは複数の恋人があり、単身帰国直後の明治37年、恋人のひとり、レオニー・ギルモアが生んだのが、彫刻家のイサム・ノグチである。明治40年、レオニーは、イサムを連れて来日するが、一方、野口は、その1年前、武田まつ子という女性とすでに結婚していたという。野口は、出歯亀事件の前後には、まつ子とレオニーとの間、本宅と妾宅とを行き来する生活を送っていた。つまり、エン子と野口の間には、何の接点もなかった。結局、エン子の元夫は、野口米次郎でも、同姓同名の大蔵省官吏だったことが判明し、噂はすぐに沈静したのである。接点はなかった、が、実は、あった、とも言える。来日したレオニーは、来日後から、家庭教師として、小泉八雲の長男・一雄に英語を教えていた。つまり、幸田家から、歩けば二、三分の距離にあった、西大久保の小泉家に通っていたのだ。八雲は数年前に亡くなっていたが、小泉家の屋敷は残っており、妻節子が、子どもたちと住んでいた。この屋敷の庭で、イサムは八雲の子どもたちと遊んでいたという。米次郎とエン子に接点はなかったが、レオニーとイサムは、もしかしたら、通りで、生前のエン子とすれ違うこともあったかもしれない。
大蔵官吏の野口米次郎は素行の悪い男だったようで、それが離婚の原因となったという。その後、数年を経て、明治40年3月、エン子が26歳の時に結婚したのが、今の幸田恭だった。恭は、この時、32歳。下谷電話局長を務めていた。
さて、9時を過ぎてもエン子が戻らない。心配した叔母が森山湯まで見に行き、店の者にも尋ねたが、すでに湯屋を出ている、という。
実は、半年ほど前より、大久保では、女性に対する暴行事件が頻発していた。文士が憧れる静かな村であったその一方で、夜ともなれば、灯りも人気もない、物騒な場所に様変わりし、犯罪の温床となっていたようだ。時事新報によれば、被害者はいずれも若い人妻だったという。
「昨年十一月初旬以来、この界隈より大久保停車場までの間にて、何者とも知れず二人の悪漢出没し、通行の婦女を辱かしめし事十一、十二月中に約五回、本年一月、二月中に約四回、次いで本月六日午後八時頃にも、某家の女中が辱かしめられたる事実あり。これ全く同一悪漢の所業なる事、疑いもなき所なるべし。」
「一人は小男 犯人は常に二人連れにて、強姦被害者の中の某貴婦人遭難の時にも、二人がかりにて躑躅園に引き込まれたるよし。」(明治41年3月24日 時事新報)
東京朝日新聞も、こう書いている。
「今より数年前大久保が尚現在の如く開けざりし時戸山の原の諏訪神社に男八人に女一人の乞食住みしが放逐せられて行方不明となれり、日露戦後大久保は俄然膨張して人家疎らに立ち並びしも駐在の巡査極めて少なく、為に窃盗続々と生じて吾も吾も害を被れりと訴えるもの多かりしが昨年十二月頃より躑躅園付近に怪しの男立ち現はれ通行の婦人に対し獣欲を逞しうせんとし(後略)」
躑躅園というのは、「江戸名所図会」にも描かれ、大正から昭和に代わる頃まで百人町に存在した躑躅の名所であったが、明治の終わり頃から次第に荒廃し、悪さを働くにはもってこいの場所となっていたのだろう。「戸山の原」というのは、戸山ヶ原のことで、「森山湯」のすぐ目の前に広がる広大な敷地。明治時代になってまもなく、陸軍の所有となって、主に、射撃訓練などが行われる練兵場だった。歴史家の大江志乃夫が、小説の中で、この演習場について描いている。時は、まさに明治41年。日露戦争後、大逆事件前夜の、社会主義者たちの姿を描いたものだ。
「射撃場は三方をたかい土手にかこまれている。射弾が場外に飛びだすのを防ぐためである。正面の的を設置する側の土手を「射だ」といい、ひときわたかい。
(中略)
戸山ヶ原は子供たちのよい遊び場所であった。射撃場の周囲には演習中危険をしめす赤旗が立てられ、関係者以外の立ち入りを禁じていたが、(後略)」(大江志乃夫「凩の時」ちくま学芸文庫)
2年後の明治43年には、この射撃場で、日野大尉による、日本最初の飛行機実験が行われている。長い滑走路を走った後も、機体は宙に浮くことはなく、実験は失敗に終わった。あまりに多くの見物客が押し寄せたことが障害となったという。同じ明治40年代には、ゴルフの愛好家たちが入り込んで草ゴルフを楽しんでいたという。山あり谷ありの敷地は、ゴルフにうってつけのコースだったのかもしれない。このように、人々が比較的自由に出入りできたのは確かなようだ。一方、陸軍用地という性格上、倉庫なども多く、また、敷地のはずれにある諏訪神社にも、無頼の徒が住み着いていたようだ。新聞に「無警察の大久保」などと書かれるほど、当時の大久保は物騒だったのである。
その戸山ヶ原の土手のすぐ前に、森山湯はあった。
エン子のみならず、家族の者たちも、当然、近頃大久保で噂になっている暴行事件については聞き知っていたようだ。実際、暴行事件が頻発してから、夜分に湯屋に出かける女性の数は半減し、警官たちの警戒も増していた。そうでなくとも、夜は暗くて足元も悪く、提灯なしでは歩けない、人家があっても生垣続きで人の気配のない大久保村である。普段なら、明るいうちに湯屋に行くはずだったが、昼間は出かけていたこともあって、その日に限って、エン子は、暗くなってから湯屋に出かけた。とうとう、家族は、帰りの遅いエン子の身を案じ、派出所に届け出た。捜査にあたったのは、加藤巡査と坂本巡査のふたりで、幸田家の人間もそれに加わり、自宅から湯屋付近一帯を捜索した。人々の頭にはすでに、昨今付近を騒がしている暴漢の存在があったものだから、もし犯行に及ぶとすれば空き家ではないか、という見込みから、まずは、近辺の空き家が徹底的に捜索されたが、手がかりが見つからない。
事態が変わったのは午前2時頃であった。森山湯に面した道の片隅に、エン子の下駄が落ちているのを発見したのである。捜索の目は、森山湯から数十メートル先の広大な空き地に向けられた。果たして、空き地の東北側の隅に立つ、高い青桐の根元に、北を枕にして仰向けに倒れ、絶命しているエン子が発見されたのである。その場で巡査が調べたところでは、着物も羽織も着たままで目立った外傷はなかったが、エン子が湯屋で使ったであろう手拭いが口に押し込まれており、暴行されたことがうかがえた。東京朝日新聞は次のように書いている。
「えん子はその夜モスリンの綿入に伊勢崎銘仙縞の羽織を着せしが湯帰りの事とて足袋は穿たず、頭は丸髷に結びて茶色の手柄を掛け可憐なる顔面には濃化粧を施したり。」
巡査はただちに新宿署へ報告した。新宿署から当直の森田警部以下数名の警官がかけつけ、非常線を張る一方、警視庁より小田部医師らも来て、現場検証を行った。早朝、エン子の遺体は医科大学に搬送された。司法解剖の結果、エン子はやはり乱暴されており、直接の死因は窒息であった。
検死と並行して、現場検証も進められている。殺害現場となったと思われるのは、大久保村47番地の空き地、森山湯からは80メートルほどの距離。その夜、現場付近の家で、不審な物音などを聞いた者はいなかった。「森山湯」で入浴中のエン子にも、特に変わった様子はなかったという。
警察は、大久保で頻発していた婦女暴行事件の犯人と同一と考えた。それまでの捜査によれば、犯人は二人組で小柄、手ぬぐいなどを女性の口に押し込むのを手口としていたという点でも、エン子殺しと一致する。警視総監からの檄もあって、新宿署の捜査は非常に活発だった。私服刑事を村の内外に散らばらせて聞き込みに当たせるだけでなく、破れた帽子に法被股引、さらには古草履や草鞋という変装で、新宿内外の居酒屋や、労働者が多い場所への潜入捜査も敢行した。数日の間に、かなりの者が嫌疑者として拘引されたが、いずれも容疑不十分として釈放されている。捜査網はやがて新宿近辺だけでなく、赤坂、麹町、上野、浅草、芝公園などまで広められた。
「美人絞殺事件」を追う報道も加熱してゆく。東京朝日新聞は、依然、捜査は藪の中であるとして、独自に、「戸山原の乞食」などという記事の連載まで始める始末であった。特に、その中で、政坊なる無宿者を頭とする「政坊組」という集団について調査を試みているのである。とりわけ、徳坊という男が怪しいという。徳坊は、年の頃、二十二、三、中肉中背の、色の白い好男子だそうで、「縞の半纏を着て腹掛の下には絞絹紬の兵児帯を締め黒の股引を穿ち黒の手甲を指し足は何時でも足袋跣といふ身軽な扮装、昼は附近にゴロゴロして居て夜になると仲間の奴と牒し合せて大久保一帯を始め戸塚附近を縄張りにして泥棒を働いて其金で飯を食って酒を呑んで偶には新宿の青楼に一刻の春夢を貪るといふ意気筋を遣って居る是でなぜ其筋の目を逃れ得るか夫處等に抜け目のある兄哥ぢやない。」 (東京朝日新聞 明治41年4月2日)
さらには、「女を狙ふは月夜」などといって、この一党は、強姦もするが、月夜でないと女の顔が見られず、それが老婆であったりすれば、金を奪うくらいで済ます、などと書き、とにかく、「美人絞殺事件」の犯人の特徴と酷似している、などと続けている。とりわけ、徳坊は「標致の好い奥様を狙ふ、身分のある人を狙ふ。」と。
そして、記事は、ひとつの「物的証拠」らしきものについて触れている。それは、徳坊の「貝爪」である。「貝爪」とは、短くて平たい爪のことを指すというが、徳坊は、爪を齧る癖があり、そのために「貝爪」になったという。「決して爪を齧るものに悪人が多いからと云ふやうな薄弱なのではない。」としながら、「死美人えん子の頬に存して居た爪の傷と徳坊の爪との間に或る秘密が伏在して居るやうに考えられるからである。(中略)即ちえん子の彼の傷は烈しく抵抗の際是を鎮めやうとして犯人が傷けたものといふのである。要点は此処で、若し普通の爪を有して居る人なら今少し酷い傷で又敷あるべき筈だ然るにただ此の一箇所のみといふのは或は徳坊の如き貝爪の故ではないか又其傷の頗る浅いのは噛み残りの爪の先が当たったからではないかと云ふのである。」
記事は、いよいよ、徳坊犯人説にむかいつつあった。興味深いことに、徳坊が、事件の翌日から姿を消してしまったというのだ。東京朝日新聞の記者は、徳坊の潜伏しそうな場所を推理しながら、「大概是でフケ場所と警戒の方法は判っただらうが今一つまだ誰も知らぬ又知っても捜せぬ最大秘密の隠れ場所がある筈だから素破抜いてやらう。」
いかにも鼻息の荒い記事だ。その素性、湯屋のすぐ目の前の戸山ヶ原を根城にしているという地理的条件、読者なら、この「徳坊」が怪しいとにらんだことだろう。