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明治40年11月15日 午後4時              ② 大杉栄、堺利彦、出歯亀ふたたび

●● 大杉栄と堺利彦 ●●

 喜善が憑かれたような語りを続けていると、窓の外に、ふたりの男が激しく議論を交わす声が近づいてきた。通りを歩いているらしい。喜善が、ふと口を閉じる。
 ふたりの話の内容まではよくわからない。直接行動派が、とか、議会政策派が、とか、巣鴨が、などという言葉だけが断片的に飛び込んでくる。やがて、声が遠ざかり、あたりが静けさを取り戻すと、喜善は再び話を始めた。
 このふたりの男は、大杉栄と堺利彦である。

 大杉は、5日前の11月10日に、巣鴨監獄を出獄したばかりであった。3月に「平民新聞」に掲載した、クロポトキンの「青年に訴ふ」の翻訳が発売禁止となって起訴され、禁錮の判決を受けて、5月26日に入獄したのである。
 この頃の大久保百人町やお隣の柏木には、幸徳秋水、荒畑寒村、山川均などの社会主義者たちが居を構えていて、戸山ヶ原などでも集会を行っていた。警察からは「柏木団」などと呼ばれて監視されていたという。秋水は、一年ほど前から大久保百人町に住んでいたが、大杉の出獄直前にこの家を引き払い、今頃は生まれ故郷の土佐に向かっているはずであった。

 さて、この日は、大杉の出獄歓迎会を兼ねた「金曜講演」なるものが行われることになっており、ふたりは柏木の堺の家を出て、神田三崎町の「吉田屋」に出向くところであった。「金曜講演」は毎週金曜日に行われていた社会主義者たちの集会であるが、毎回のように警官に妨害されていたという。

椎木坂。坂下に蟹川が流れていた。左手が今の大久保通り。

●● 亀太郎ふたたび ●●

 大杉と堺は、通りを東に向かう。
 背後から、汽車の音が響いてきた。山手線までは600メートルほど、大久保停留所までは1キロ近く離れているが、夕方ともなると村のどこにいても蒸気の音や鉄路が軋る音が聴こえる。
 しばらく歩くと、左手に陸軍戸山学校の正門と塀が現れる。正門の前にそびえる大きな椎木の枝が長く伸びていた。通りは坂道となって深くまで下っていたが、枝がその長い坂を覆っているので「椎木坂」と呼ばれている。二十数年後、椎木坂の脇を並走するように平坦な道が敷設される。それが今の大久保通りで、それからというもの、椎木坂は大久保通りの旧道となってしまう。
 坂の上から見下ろすと、右手、つまり南の方角に、広く、そして深く沈んだ窪地が広がっているのがわかる。この窪地は、のちに東大久保と呼ばれる一帯で、今の新宿七丁目、そして、六丁目である。

 長い坂を下りきると、一筋の川が右手から左手へと流れている。蟹川だ。大久保の南端、山手線の線路付近に水源を抱いてここまで流れ、陸軍戸山学校の敷地の中へと消えている。
 川にかかる木の橋の手前で、大杉が言った。
 「時間はあるか?見てみたい場所がある。」
 「まあ、ないこともないが。」
 大杉は、橋を渡らずに右手に折れ、川沿いのあぜ道を進む。蟹川の左岸である。この当時は砂利場と呼ばれていた。川の西側、左岸には田圃が広がり、東側の右岸には段々畑や高い崖がそびえたっている。「大久保」は、蟹川がもたらした「大きな窪」なのだ。田畑には、ちらほらと農夫の姿が見えた。井戸も点在している。日は暮れかかっていて、時折、ひんやりとした秋の風が吹く。蟹川も、椎木坂が旧道となったと同じ頃に暗渠となって地上から姿を消すこととなる。

 しばらく歩くと川は右側へ折れており、ふたりは目の前の橋を渡って右岸へと移った。すぐ左手に急傾斜の梯子坂、そして、それと並行するような久左衛門坂の下に行き当たる。梯子坂とは異なり、長く緩やかで、うねるような坂だ。大杉と堺はこの坂を登り始めた。

久左衛門坂


 坂の途中に湯屋があって、暖簾の奥から湯上がりらしいひとりの男が現れた。出っ歯の男だ。大杉たちは男の前を通り過ぎる。続いて、男も、大杉たちの後ろから坂を登り始めた。この男、もちろん、池田亀太郎である。ついさっきまで、戸山ヶ原の湯屋「森山湯」あたりをうろついていたはずだが、あっちは覗きに限っているのだろう。自身が湯を使うのは、自宅からほど近い、久左衛門坂の湯屋と決めているらしい。

 ふたりの活動家と、ひとりの職人。互いに、わずかな距離を保ちながら坂を登り切り、余丁町に出た。大久保の窪を見下ろす高台には厳島神社がある。境内が南北に通り抜けられることから抜弁天とも呼ばれ、かつては鎌倉街道が通っていたという。

 「あいつを見ておこうと思ってね。」
 大杉が指をさしたその先には、高い煉瓦塀に囲まれた物々しい建物があった。
 「なるほど。東京監獄か。」
 堺がつぶやく。
 「ああ。そのうち、厄介になるだろう。」

⁡  東京監獄は未決監、今でいうところの拘置所で、4年前の明治36年に鍛冶橋から移転してきた。一方で、東京監獄には刑場も設けられており、明治44年の「大逆事件」では幸徳秋水や菅野スガら十二名が処刑されている。

東京監獄の跡地

 ややこしいことに、監獄のすぐ南側にはもともと市ヶ谷監獄というのがあって、そもそもが未決囚を収容していたが、のちに既決囚を収容することとなって明治43年に野方に移ることとなる。さらには、東京監獄は大正11年に市ヶ谷刑務所と名を改めているから、ことさらにわかりにくい。

 永井荷風は、随筆「監獄署の裏」で市ヶ谷監獄を描いている。

「土手はやがて左右から奥深く曲り込んで柱の太い黒い渋塗りの門が見えます。その扉はいつでも重そうに堅く閉されていて、細い烟出しが一本ひょろりと立っている低い瓦屋根と、四、五本の痩せた杉の木立の望まれる外には、門内には何一つ外から見えるものはない。 」(永井荷風『監獄所の裏』)

 荷風は、明治41年の夏にフランスから帰朝して余丁町の家に腰を据える。いわゆる「断腸亭」であるが、それはふたつの監獄の目の前であった。大逆事件後には、市ヶ谷監獄から日比谷の裁判所まで幸徳秋水らを輸送する囚人馬車を目撃している。(永井荷風『花火』)

 さて、冒頭にも記したように、翌年の明治41年3月22日、「森山湯」を出た人妻・幸田エン子が、すぐ近くの空き地で殺される。数日後に逮捕されるのが亀太郎。世間を大いに賑わせることとなる「出歯亀事件」だ。そして、明治42年6月29日に大審院での無期刑が確定し、小菅監獄に移監されるまでのおよそ一年間を、亀太郎は、東京監獄で過ごすのである。
 一方で、大杉栄は、出歯亀事件の三か月後の明治41年6月22日、社会主義者と警察とが衝突した「赤旗事件」で逮捕されることとなる。そして、重禁固刑2年6ヶ月が言い渡されて千葉監獄に移される9月9日までのおよそ三カ月間、やはり東京監獄で過ごしている。この時に、大杉は亀太郎と顔を合わせているという。

「出歯亀にもやはりここで会った。大して目立つほどの出歯でもなかったようだ。いつも見すぼらしい風をして背中を丸くして、にこにこ笑いながら、ちょこちょこ走りに歩いていた。そしてみんなから、
『やい、出歯亀。』
 なぞとからかわれながら、やはりにこにこ笑っていた。刑のきまった時にも、
『やい、出歯亀、何年食った?』
 と看守に聞かれて、
『へえ、無期で。えへへへ。』
 と笑っていた。」
             (大杉栄「獄中記」)

 大杉が書いている「刑の決まった時」というのは、明治41年8月10日の一審、東京地裁での判決のことだろう。
 明治40年11月15日、久左衛門坂ですれ違った亀太郎と大杉とは、その翌年、東京監獄で再び顔を合わすこととなるわけであるが、もちろん、今のふたりがそのことを知るはずもない。

抜弁天は、大久保の東側、その窪地を見下ろす台地にある

 大杉と堺は、抜弁天を右手に見ながら、通りをまっすぐに東へと向かう。ここから先は東京市内である。通りは、その先で大久保通りに合流する。そのまま進んで外濠に突き当たれば、神田三崎町は目と鼻の先である。一方、亀太郎は、抜弁天の目の前の細い路地を折れる。しばし歩くと、西向天神社の裏手、西光庵の門前に亀太郎の借家がある。妻と幼い子ども、そして、年老いた母親が待っている。生来の怠け癖もあって貧乏暮らしで、近頃では家賃の支払いも滞っている。かといって一家を追い出すわけにもいかず、大家も手を焼いているらしい。

 亀太郎は暗くなった家路を、大杉と堺は遠くにガス灯がちらちらと見えている通りを、それぞれ歩いていく。

 明治40年11月15日、午後5時を回った。

 大久保の一日が終わろうとしている。
 

●● 大杉栄・池田亀太郎 その後●●

 さて、明治43年に釈放された大杉は、大久保百人町に戻った。その後、何度かの逮捕を繰り返しながら、無政府主義者としての活動を広げていくのである。渡仏した時には、パリのラ・サンテ刑務所にも拘留されている。ところが、関東大震災直後の大正12年9月16日、伊藤野枝や甥の宋一と共に柏木の自宅近くにいたところを、甘粕大尉率いる憲兵隊に検束されてしまう。三人は大手町の憲兵隊本部に連行され、その日のうちに、殴る、蹴る、の残忍な暴行を受け、扼殺されることとなるのだ。38歳であった。

 小菅監獄で15年ほどを送った亀太郎は、大正10年頃に仮出獄をしたという。その後の足取りははっきりとしないが、亀太郎が再び新聞紙上を賑わせたのは昭和8年のことだ。早稲田の銭湯で覗きをしているところを現行犯逮捕されたのである。結局、微罪ということですぐに釈放され、世話になっていた牛込の植木職人の親方のもとに帰ったという。その後の亀太郎の消息については、何もわからない。

 大杉が殺されたのが大正12年、亀太郎が仮出獄したのが大正10年である。もしかしたら、このふたり、大久保界隈で、再び、いや、三たび、顔を合わせていたかもしれない。

参考文献


茅野健『新宿・大久保文士村』日本古書通信社 2005
星野文子『ヨネ・ノグチ 夢を追いかけた国際詩人』彩流社 2012
堀まどか『二重国籍詩人 野口米次郎』名古屋大学出版会 2012
ドウス昌代『イサム・ノグチ』講談社 2000
国木田独歩『武蔵野・忘れ得ぬ人々』講談社 1972
『国木田独歩』新潮社 1908
川本三郎『郊外の文学誌』新潮社 2003
赤坂憲雄『武蔵野をよむ』岩波書店 2018
曾宮一念『日曜随筆家』創文社 1962
柳田国男『柳田國男全集2』筑摩書房 1989
柳田國男『遠野物語』新潮社 2016
佐々木喜善『遠野奇談』河出書房新社 2009
水野葉舟『遠野物語の周辺』国書刊行会 2001
遠藤清「愛の争闘」『新編日本女性文学全集 第四巻』菁柿堂 2012
大杉栄『獄中記』土曜社 2012
大杉豊『日録・大杉栄伝』社会評論社 2009
宮沢聡「幸徳秋水、堺利彦と新宿」『新宿区立新宿歴史博物館 研究紀要』
                          第2号 1994
永井荷風『麻布襍記 ――附・自選荷風百句』中央公論新社 2018
永井荷風『雨瀟瀟・雪解 他七篇』岩波書店 1991
新宿の歴史を語る会『新宿区の歴史』名著出版 1977
『新修 新宿区町名誌』新宿歴史博物館 2010
籠谷典子編著『東京10000歩ウォーキング No.11 新宿区 大久保・余丁町コース』真珠書院 2004
森長英三郎『東京監獄・市ヶ谷刑務所 刑場跡慰霊塔について』1967
鈴木貞夫『市谷監獄・市谷刑務所』1999



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