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蟹川の文化誌 失われた水源を求めて                                           

大久保は蟹川の賜物

 蟹川本流の水源は、現在の西武新宿駅付近だとされている。

 例えば、駅のすぐ目の前、歌舞伎町の中心にそびえる東急歌舞伎町タワーのまるで噴水が吹き上がるような姿は、蟹川がモチーフになっているのだという。そのデザイン方針について、第64回新宿区景観まちづくり審議会報告資料「新宿TOKYU MILANO再開発計画」(2017)には、「蟹川や弁財天に代表される地域の歴史的文脈」を踏まえ、「歌舞伎町の根底に流れる水のエネルギーがこの地に再び湧き出し、その水の勢いが噴水のように天に伸びる姿を表現する。」と確かに明記されている。
 さらに、敷地の付近には水が湧き、蟹川となって歌舞伎町の花道通りを流れていたとも書かれている。まさに、この場所が、失われた蟹川の水源の一部だったことを認識した上での意匠なのである。

東急歌舞伎町タワーは、今や歌舞伎町のランドマークだ

 「噴水タワー」、あるいは、あえて「東急蟹川タワー」とまで呼ばせてもらうが、この新しいモニュメントは大久保のどこにいても眺めることができる。いや、むしろ、日々、嫌でも目に飛び込んでくる。私自身は、大久保にかかわるすべての人々に向けた、蟹川を忘れるべからずという戒めなのだと思うようにしている。「大久保は蟹川の賜物」、大久保は、その誕生も歴史も蟹川とともにあったからである。

鉄道敷設をめぐって

 何はともあれ、古い地図を繙くこととしよう。
 明治44年作成の「大久保町市街図」(逓信協会発行)を見ると、川の流れは、新宿駅を出て北上する日本鉄道山手線の線路と中央線の線路が分岐するV字の間まで続いている。もちろん、西武新宿線が敷設されるのは戦後のことだから、この時はまだ西武新宿駅は存在していない。蟹川の水源は山手線と中央線の両線路の狭間にあったということになる。この場所は、今では、中央線、山手線だけではなく、さらには埼京線や湘南新宿ライン、そして、西武新宿線の線路が複雑に交差し並走している。もちろん、立ち入ることはできず、西武新宿駅のホームから眺めるのみである。あるいは、私たちは山手線や中央線に乗車しては、それとは気づかずに水源の真上を通過していることになる。

西武新宿駅3番線から眺める蟹川の水源付近

 明治10年代作成とされる「武蔵国豊島郡大久保村地引絵図」でも、蟹川の水源はほぼ同じ場所だ。地図には、「鉄道線路」や「鉄道敷地」「鉄道用地」といった文字が書き込まれており、蟹川は、「鉄道敷地」のあたりで途切れている。これは、明治17年に敷設工事が着工された山手線の敷地だろう。

 大久保を描いた地図としてはおそらく最も古いと思われる、享保3年(1718年)頃に作成された「内藤新宿周辺村図」(花園神社蔵)も、西武新宿駅一帯説を裏づけているようだ。ただ、川は、もう少しだけ先、のちに山手線の線路が敷設される場所を越えて、落合道つまり今の小滝橋通りの手前まで延びている。さらには、水源と思しき場所には小さな池のようなものが描き込まれているのがわかる。

 「新宿の消失河川『蟹川』に関する一考察」の中で、「新宿つつじの会」の野嵜正興氏、中垣創三氏は、この池は、「東京淀橋誌考」や「大久保町誌稿」に記述のある「鏡の井」ではないかと推測している。

 「鏡の井」とは何か。「大久保町誌稿」には、次のように記されている。

 「(前略)淀橋街大字柏木字成子町北側、同町大字角筈字矢場及ビ東大久保字角筈裏ノ三字境界ノ邊ニモ溜井アリテ清水噴出セシ由其ノ脇ニ非人小屋アリテ俗稱清水ノ小屋ト呼シト古老ノ物語ヲ聞ケリ因テ其ノ所在ヲ調査セシニ中央線鐵道敷設ノ際埋没シ山手線鐵道トノ境界ノ中央ニ移轉現存セルニ依リ茲ニ附記ス」            (「大久保町誌稿」)

 続いて、「東京淀橋誌考」も開いてみよう。

 「角筈字矢場、柏木字成子町北、大久保町字角筈裏の三字境に、昔より溜井ありて清水噴出す是れ鏡の井なりと、昔傍に非人小屋ありて清水の小屋と呼び、此の邊一帯に水清く今も同所の通路を俗に清水横町と稱す、井は先年鐵道工事の際埋めたりとも云ふ。」    (「東京淀橋誌考」)

 発行は、「大久保町誌稿」が明治38年、25年ほど遅れて、「東京淀橋誌考」が昭和6年である。泉の位置についての記述にほぼ相違はないものの、その現状についてはやや異なる。「大久保町誌稿」には、泉は中央線の敷設の際に埋没してしまったが、中央線と山手線との間に移転され現存していると書かれている。一方、「東京淀橋誌考」では、「鐡道工事」の際に埋めたらしいと記されているのである。

 日本鉄道山手線の敷設工事の着工は明治17年1月のことで、開通は翌年の明治18年3月である。山手線に遅れることほぼ4年、甲武線つまり後の中央線が明治22年に開通している。敷設工事の着工が明治20年頃だとすれば、「大久保町誌稿」に記されている中央線と山手線との間へ移設したというのは、その頃だろう。
 明治38年当時には残っていたかもしれない泉も、その後、ほどなくして姿を消してしまったのだろう。昭和6年の時点では、かつての泉は鉄道工事の際に埋められてしまったと考えられていたようだ。何しろ、この頃、すでに蟹川そのものの大部分が暗渠化されていたはずで、水源もろとも地上から消えようとしていた時期でもあった。
 線路敷設によって川の流れが断ち切られる例は珍しくないようだ。例えば、「春の小川」で知られる河骨川は、昭和2年に開通した小田急線の敷設時、線路を横切っていたその一部が線路の側溝に変えられてしまったという。        (田原光泰「『春の小川』はなぜ消えたか」)

「鏡の井」があったと思われる場所の向こうに東急歌舞伎町タワーを望む

 そもそも、「鏡の井」はどこにあったのか。小滝橋通りに近く、また、矢場、成子町北、角筈裏、という3つの字の境付近という条件から導き出されるのは、現在のドラッグストア「ココカラファイン」付近である。それにしても、新宿大ガードや西口広場が見渡せるこのような場所に、清水が湧く泉があったということに驚かされる。

 ちなみに、新宿駅は、もともと、追分つまり今の伊勢丹付近がその建設予定地だったが、地元の旅籠などの反対を受けて今の場所に落ち着いたという経緯がある。もしも、追分での敷設計画が進んでいれば、鏡の井の寿命はもう少しだけ延びていたかもしれない。
 明治の半ば、山手線と中央線というふたつの鉄道の敷設が、蟹川の水源やその風景を大きく変えてしまったことは間違いないようだ。

雷が窪の伝説

 ただ、水源をめぐる考察はそれで一件落着とはいかない。そのさらに西側、西武新宿線やJRの線路を越えた西新宿が、蟹川の水源だとする声も多いのである。

 古地図や東京の地誌などを出版している之潮の代表・芳賀啓氏も次のように書いている。

 「けれども谷地形はもう少し西南方向、尾根道である青梅街道の辺りまでたどることができるようです。」(芳賀啓「『蟹川』の行方 その1」)

かつての雷が窪 新都心歩道橋

 確かに、明治30年代に作成された「東京府豊多摩郡淀橋町大字角筈地籍図」では、川筋はさらに伸び、現在の大ガードの向こう、青梅街道の起点である新都心歩道橋のあたりにまで達していることが確認できる。この付近は今でも浅い窪地を形作っており、かつては「雷が窪(らいがくぼ)」と呼ばれていたという。この地名の由来については、先の「東京淀橋誌考」に次のように書かれている。

 「享保八年の頃、北町奉行中山出雲守時春歿し、其の葬列此の窪地に來りし時、恰も落雷あり其の棺を破る。蓋し中山は生前裁決過酷の評あり。世人以て罪因怨霊の祟となす。」   (『東京淀橋誌考』)

 享保八年というから、1723年、北町奉行であった中山出雲守時春の葬儀の日のこと。葬列がこの地にさしかかった時、突然の雷が鳴り響き、棺に落ちた。生前の中山はその裁きがあまりに過酷だったため、命を奪われた罪人の祟りだと噂された。それ以来、この窪地を「雷が窪」と呼ぶようになったというのだ。
 この雷が窪あたりに蟹川の水源があった可能性も否定できないのである。

湿地帯としての歌舞伎町

 では、蟹川の水源は、果たして、これらの候補地のうちのどれなのだろうか。答えは、どれでもない。いや、そのすべて、である。秘密は、付近一帯の土壌にある。今では想像もつかないことだが、歌舞伎町はもともと湿地帯であった。
 おそらく、蟹川の水源はいくつも存在した。その最先端は、確かに雷が窪だったのかもしれないが、この湿った土地全体が蟹川の水源だったと考えるのが妥当であろう。そこかしこに湧水が出ていたのだ。     
 暗渠について多くの著作のある本田創氏も、「川は歌舞伎町にいくつかあった池の水を加えて」流れていたと書いている。
           (本田創「地形を楽しむ東京『暗渠』散歩」)

 東京で湧水などというとどこか場違いな感じもするが、実は、西側に武蔵野台地を抱く東京は地形学的にも湧水に恵まれた都市である。新宿区内に限っても、新宿御苑、おとめ山公園、甘泉園、など、おびただしい湧水が存在した。ほとんどの湧水は枯渇してしまったが、落合崖線に位置するおとめ山公園には今でも自然の湧水が残っている。東京の地形学の古典ともいうべき「東京の自然史」の中で、貝塚爽平は書いている。

 「今日ではこれらの谷底低地の川は下水を集めているが、もともとは、台地のすそから湧き出る地下水によって養われており、その水は谷底低地の下流部でしばしば、湿地や池をなしていた。」 (貝塚爽平「東京の自然史」)

この一帯が大きな池だったという

 東急歌舞伎町タワーの目の前、TOHOシネマズ一帯にも大きな池があった。明治になって、池は、長崎の大村藩主大村伯爵の屋敷の一部となる。深い緑に覆われた屋敷は「大村の山」とも「大村の森」とも呼ばれ、今の歌舞伎町一丁目の広範囲を占めていた。池には鴨が集い、鴨場、つまり、鴨の漁地として知られていたという。 紀伊国屋書店を開業した田辺茂一は明治38年に新宿で生まれているが、この屋敷について書き残している。

 「この大村の山は、現在の歌舞伎町一帯だが、そのころは、鬱蒼とした大木が茂っていて、山鳥や山犬がいた。 
 山の真ん中に池があり、その池のまた真ん中に島があり、小さな舟が舫っていた。」        (田辺茂一「わが町・新宿」旺文社)

 この池は、蟹川のもっとも有力な水源であったという。東京の原初の地形の記憶が人間にもたらしてきた作用をシンボリックに描いた「アースダイバー」の中で、中沢新一氏はこの池について触れ、やはり、蟹川の水源だとしている。

「そのあたりから大ガードあたりを越えて大久保に近づくと、そこにもじめじめとした沼地が広がっていた。沼地の中心には弁天様を祀った湧水地があり、そこが水源地となって一本の川が東大久保村、戸山村を抜けて、神田川に合流していったのである。」 (中沢新一「アースダイバー」)

 ただ、この大村の山の池が水源であったという説も、実は怪しい。どういうことかというと、この池の水が蟹川に注いでいたのではなく、その逆で、蟹川から引き込んで作られた人工のため池だという可能性もあるというのだ。例えば、元新宿歴史博物館館長の橋口敏男氏は、池は、この敷地の所有者だった大村伯爵が、鴨猟のために明治20年以降に作ったものだとしている。 (橋口敏男「すごい!新宿・歌舞伎町の歴史」)
 確かに、明治20年以前の地図をいくつかあたってみても、池を見つけることが出来ない。もともと存在した小さな泉を大きくしたのか、それとも、川の水を引いて作ったかのか、今ひとつはっきりしないのである。

 蟹川の水源については、尻尾を捕らえたと思ってはそのたびに逃げられ、堂々巡りが続く。ひとつだけ言えるのは、蟹川は湿地全体の湧水を集めるようにして誕生したらしい、ということ、それだけなのだ。

 明治42年測図の「淀橋・大久保の地形図」には、大村邸の池ほどの規模ではないものの、その周囲にいくつかの池も確認することができる。いくつもの水源から水を得ると、いよいよ、一筋の川となって流れ出すのだが、その流路は、実は地盤によって運命づけられていた。
 武蔵野台地の東端に位置する新宿区は、武蔵野面と下末吉面という二つの異なる地形面からなっている。現在の歌舞伎町の北側、つまり西大久保一帯は武蔵野面という段丘。これに対し、それよりも南側は下末吉面といって、武蔵野面よりも一段高い段丘である。この下末吉面と武蔵野面というふたつの段丘の境の、そこかしこで水が沸いていた。湿地に生まれ、湧水を蓄えながら水かさを増した蟹川は、そのまま、境に沿って東へと流れてゆくのだ。歌舞伎町交番などがある現在の花道通りが、その流路であった。

蟹川の流路跡である花道通り

 そして、蟹川の流路の北側、つまり左岸は大久保村となった。地名は、その後、時代によって西大久保村や西大久保一丁目、などと変遷するものの、一貫して、この土地は大久保であった。それが、現在のように歌舞伎町二丁目という町名となり、大久保と蟹川とが切り離されてしまうのは、昭和53年のことである。

埋め立てられた水源

 話を元に戻そう。

 蟹川を生み出した広大な湿地帯。
 その土壌に変化がもたらされたのは、明治時代の後半である。
 明治25年、今の都庁付近で淀橋浄水場の建設工事が始まる。その際に掘り返された残土がこの地に運ばれてきて埋め立てられ、湿った土地が乾いた土地へと生まれ変わっていくのだ。
 さらに、明治44年、大村家の敷地は、江戸時代から続くという老舗の質屋「尾張屋」に買い取られる。当時の五代目当主は峯島喜代といって、「大正評判女番附」なるものでは東の横綱を張るほどのやり手の実業家だったという。そして、ついには池も埋め立てられた。
 実はこのあたりの逸話も、手放しで信じるわけにはいかない。淀橋浄水場建設の残土が歌舞伎町を埋め立て、さらには大村邸の池も埋めたという話はまことしやかに伝えられ、さかんに人々の口にのぼる。ところが、淀橋浄水場の建設工事が明治20年代後半として、大村邸の土地を購入した峯島喜代がこの池を埋め立てたという明治時代の終わりから大正の初めまで、二十年あまりの時間の隔たりがあり、そこがどうしても腑に落ちなかった。「淀橋浄水場史」にも、残土が歌舞伎町に運ばれたことを明確に示す記述はない。
 前出の「すごい!新宿・歌舞伎町の歴史」は2023年という近刊であるが、著者の橋口氏が峯島家九代目の現当主である峯島茂之氏に確認し、池の埋め立ての話は誤りであるという証言を得ている。そして、橋口氏は、残土で築かれたのは、今も新宿中央公園に残る六角堂の建つ富士見台だとしている。

六角堂の建つ富士見台


 一方、新宿歴史博物館の学芸員・宮沢聡氏は、浄水場の残土が歌舞伎町を埋め立てたという可能性はあるとしている。その上で、池に関しては、「東京淀橋誌考」にある、淀橋浄水場の残土で築かれた桜山という山が、十二社の池の東側つまり今の中央公園付近にあったという記述に注目し、後年、このような盛土に残し置いた残土で改めて池を埋めた可能性が高い、という。(宮沢聡「水を澄ましめた新宿」『東京府のマボロシ』所収)

 とにかく、鏡の井に続いて、蟹川の水源の可能性を秘めたものがまたひとつ、姿を消した。蟹川の失われた水源探しは、いつだって迷宮に入り込む。都市伝説じみた話も多い。蟹川は、おいそれと尻尾をつかませてはくれないらしい。

 いずれにしても、池や湿地は埋め立てられ、さらに、昭和初期には蟹川の流れそのものが暗渠化された。水源一帯は乾いた土地に生まれ変わったのだ。この一連の営みが、土地の開発や発展へと結びついたのである。戦後になって「歌舞伎町」という地名が誕生し、東洋一の繁華街・歓楽街となるための下地が築かれた。歌舞伎町の繁栄は、蟹川の水源を埋め、蟹川そのものを地下に追いやることでもたらされたのだ。

 今となっては、湿地の名残りを見出すことはもちろん、蟹川の水源を目の当たりにすることもできなくなってしまった。唯一、目を凝らすと見えてくる土地の高低差から妄想を広げる以外に術はない。

 蟹川という一筋の川が歌舞伎町のどこかで生まれ、大久保を流れていたことを知る人は、今や、わずかである。

参考文献


野嵜正興 中垣創三『新宿の消失河川「蟹川」に関する一考察」新宿つつじの会 2017
芳賀啓「蟹川の行方 その1」『地図中心2008‐6通巻429号』財団法人日本地図センター 2008
菅原健二『川跡からたどる江戸・東京案内』洋泉社 2011
本田創『地形を楽しむ 東京「暗渠」散歩』洋泉社 2012
皆川典久『凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩』洋泉社 2012
佐藤洋一『地図物語 あの日の新宿』ぶよう堂 2008
神田川ネットワーク『神田川再発見』東京新聞出版局 2008
田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたか』之潮 2011
貝塚爽平『東京の自然史』講談社 2011
松田磐余『対話で学ぶ江戸東京・横浜の地形』之潮 2013
中沢新一『アースダイバー』講談社 2005
陣内秀信『東京の空間人類学』筑摩書房 1995
戸沼幸市他『新宿学』紀伊國屋書店 2013
橋口敏男『すごい!新宿・歌舞伎町の歴史』PHP研究所 2023
『新宿区史 区成立50周年記念 第1巻』新宿区 1998
芳賀善次郎『新宿の散歩道』三交社 1973
ほろよいブックス編集部『東京府のマボロシ』社会評論社 2014
『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』新宿区教育委員会 1984
『図録「内藤新宿ーくらしが創る歴史と文化」』新宿区教育委員会 1998
『東京淀橋誌考』武蔵郷土資料科学会 1931
保坂三男衛『大久保町誌稿』1913
『新宿TOKYU MILANO再開発計画』第64回新宿区景観まちづくり審議会報告資料 2017
田辺茂一『わが町・新宿』旺文社 1981
中村建治『中央線誕生』交通新聞社 2016
中村健治『山手線誕生』イカロス出版 2005
東京都水道局『淀橋浄水場史』東京都水道局 1966


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