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少年探偵団、大久保に誕生す

◆少年探偵団誕生

 怪人二十面相と長きにわたる闘いを繰り広げてきた少年探偵団。その誕生を描いているのが、昭和11年発表のシリーズ第一作「怪人二十面相」だ。

 少年探偵団を結成したのは、明智小五郎でも小林少年でもない。羽柴壮二君という小学生である。実業界の大立者・羽柴壮太郎氏が所有するロマノフ家の宝冠を見事に盗み出して逃走しようとする二十面相に罠をしかけたのが、次男の壮二君。ところが、これに激怒した二十面相は、壮二君を誘拐してしまう。二十面相が壮二君解放の交換条件に挙げたのが、やはり壮太郎氏が所有する観世音像だった。壮太郎氏は、名探偵明智小五郎に依頼をするのだが、その時、明智は日本におらず、その代わりにやってきたのが小林少年である。小林少年は、大胆なトリックを用いて、二十面相を逮捕寸前まで追いつめることになる。その活躍を間近で見ていたのが壮二君なのだ。

 その後、帰朝した明智は、二十面相との闘いに身を投じるものの、自らも誘拐されてしまう。不安の渦中にいる明智夫人と小林少年のもとを壮二君が訪れるのは、そんな時である。
 壮二君は、小林少年に向かって語り始める。

江戸川亂歩 著『怪人二十面相』,大日本雄辯會講談社,1936.12.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1873910 (参照 204-02-24)

 「あのね、いつかの事件のときから、ぼく、きみを崇拝しちゃったんです。そしてね、ぼくもきみのようになりたいと思ったんです。それから、きみのはたらきのことを、学校でみんなに話したら、ぼくと同じ考えのものが十人も集まっちゃったんです。 それで、みんなで、少年探偵団っていう会をつくっているんです。むろん学校の勉強やなんかのじゃまにならないようにですよ。ぼくのおとうさんも、学校さえなまけなければ、まあいいって許してくだすったんです。 きょうは日曜でしょう。だもんだから、ぼくみんなを連れて、きみんちへおみまいに来たんです。そしてね、みんなはね、きみのさしずを受けて、ぼくたち少年探偵団の力で、明智先生のゆくえをさがそうじゃないかって言ってるんです。」(江戸川乱歩『怪人二十面相』)

 小林少年率いる少年探偵団誕生の瞬間である。団員数は10名ほどだという。それにしても、壮二君の言葉に単なる憧れ以上の何かを感じてしまうのは、私だけではあるまい。もっとも、このような感情の発露は、「怪人二十面相」に限ったことではなく、また、少年同士だけのものでもなく、少年探偵団シリーズ全体に通低音のように響き続けている。

 さて、壮二君は、学校のともだちを募ったというが、その学校とはどこなのか。物語の冒頭近くに、こんな一節がある。

 「門脇中学校三年生の早苗さんと、高千穂小学校五年生の壮二君とは、時間が来ると、いつものように、自動車でやしきを出ました。」

 早苗さんは、壮二君の姉である。門脇中学というのは、山脇学園のことだろう。山脇学園は、明治36年に創設され、その後、山脇高等女学校となって、当時はすでに赤坂にあったから、羽柴家からも近い。中学三年生というのは、高等女学校三年生ということになる。

◆高千穂学校とは

 一方、壮二君が通う高千穂小学校とは、その当時、東大久保にあった高千穂尋常高等小学校のことに相違ない。現在の新宿七丁目で、大久保通りと明治通り、そして、抜弁天通りに挟まれた場所にあり、陸軍戸山学校へも、歩いて数分の距離だ。現在、敷地の一部は東大久保児童遊園になっており、片隅には、「高千穂学校発祥の地」という碑がたたずんでいる。 

公園の片隅の「高千穂学校発祥の地」の碑

 高千穂学校は、明治36年(1903)に、川田鉄弥によって創設され、尋常高等小学校が作られた。その後、続けて、中学校、幼稚園、そして、高等商業学校が開校されている。川田は、明治32年に東京帝国大学文科漢文科を卒業し、翌33年には、陸軍幼年学校教授に就任している。帝国大学卒業生としては、はじめての小学校教員だったというが、36年にこの職を依願退職し、三十歳という若さで高千穂学校の創設に尽力した。その創設には、渋沢栄一も関わっている。高千穂学校は、新宿、四谷、大久保を中心とした地域の良家の子女を多く迎え入れ、幼稚園から大学までの一貫した教育を行う学校として、高い社会的評価を得ていたという。 
 羽柴家は麻布にあり、壮二君も、早苗さんも、お抱え運転手の運転する自動車で登校していのである。前述の通り、山脇学園は赤坂にあったから、まずは早苗さんを降ろし、その後、東京市内を北上して東大久保に向かったのだろう。

 「怪人二十面相」事件の発生年については、「怪人二十面相と小林少年が見た戸山ヶ原」でも検証したが、昭和6年から昭和10年の間であると考えられる。事件当時、壮二君は5年生だったというから、入学は、昭和元年あたりから昭和5年までの間ということになる。

学校の敷地の一部は東大久保児童遊園に

 「高千穂学園八十年史」(高千穂学園 1983)によれば、当時の小学部の定員は300名ということだが、この中の10人ほどが、少年探偵団員になったということだろう。
 同書には、昭和7年の職員表が載っている。校長は、創設者の川田鉄弥であり、教員として、現役将校らの名前も見ることができる。また、評議員として、伯爵、子爵、男爵、といった貴族や、法学博士、医学博士が多くみられることからも、当時の学校の社会的地位といったものが垣間見られるだろう。その中には、時の総理大臣・犬養毅の名がある。犬養毅は、この年の5月15日に暗殺されている。いわゆる「五・一五事件」である。また、その翌年の昭和8年には、創立三十周年の記念式典が行われており、元帥海軍大将だった東郷平八郎からも祝辞が届いている。
 とにかく、実業界の大立者・羽柴壮太郎氏の子息が通う小学校としては、まさに申し分のないものだったと思われる。ちなみに、昭和8年、校庭内に高千穂神社を建立するにあたって評議員や父兄などの寄付が行われており、同書には300人を超える寄付者の名前も掲載されているが、残念ながら、羽柴壮太郎氏の名前を見出すことはできなかった。 
 高千穂学校は、その後、空襲で校舎を焼失してしまい、戦後になって、杉並区に移転する。現在の高千穂大学へとなるのである。

道の左側一帯が、学校の敷地だった。

 それにしても、少年探偵団が関わるのは、ただの探偵ごっこではない。学校の勉強に差し支えなければ、と、親も許したというが、その見通しは甘かったようだ。何しろ、相手は、怪人二十面相という稀代の犯罪者である。実際に、その奸計に陥ることも珍しくない。それでも、少年探偵団は、何度も二十面相を追いつめている。とはいえ、ただでは済まないのが二十面相で、戦後まで続いた「少年探偵団シリーズ」は、明らかに、少年探偵団への二十面相の復讐譚の執拗なバリエーションだと言えよう。

 シリーズ第2作『少年探偵団』では、桂正一君という団員が活躍する。

 「桂君のおうちは、世田谷区の玉川電車の沿線にあって羽柴壮二君たちの学校とはちがいましたけれども、正一君と壮二君とはいとこどうしだものですから壮二君にさそわれて少年探偵団にくわわったのです。」
          (江戸川乱歩『少年探偵団』ポプラ社)

 壮二君を始めとする高千穂小学校の少年たちが中心となって結成された少年探偵団であったが、やがて、学校の枠を飛び出していく。世代交代を繰り返しながら、おそらく、高千穂学校の子どもたち以外の団員も増えたのだろう。創始者である壮二君も、『怪人二十面相』以降は、その姿を現していない。


◆蟹川のほとりで

 高千穂学校の目の前には、蟹川が流れていた。歌舞伎町の沼地を水源とする川で、大久保の「大きな窪」をもたらした流れである。蟹川の流域には、かつては美しい田園風景が広がっており、高千穂学校はその片隅にあったのである。
 ただ、都会を流れる川は、都市化と共に汚染が深刻化し、昭和に入る頃には、多くの川が暗渠となったという。蟹川も、壮二君たちが通学していたと思われる時期には暗渠化が進み、昭和8年頃にはほぼ全域が地中に隠れてしまっていた。壮二君たちが美しい蟹川を見ることはなかったかもしれない。


新宿七丁目を見下ろす梯子坂。かつては、向こう正面に、高千穂学校が見渡せたはず。

 一方で、高千穂学校の敷地から蟹川を眺めることができたであろう人物を、ふたり、挙げておきたい。蒋介石と田辺茂一である。
 明治40年に来日した若き日の蒋介石は、河田町の軍人養成校である振武学校に通っていたが、その際、高千穂学校に隣接する豊香園という植木屋に下宿していたという。 
 紀伊國屋書店を興した田辺茂一は、明治38年に生まれている。一度は公立の淀橋尋常小学校に入学した茂一少年は、2年生になって、高千穂小学校に転入している。明治46年のことである。

 「私立の高千穂校は、当時、良家名門の子弟が多かった。草履袋をさげて、下駄履きで通っていたのが、靴になり、帽子も洋服も、学校出入りの洋服屋、四谷の和田屋の註文品であった。洋服は、フチをモールで、学習院まがいであった。」(田辺茂一『わが町・新宿』)

 登校の際、茂一少年は、公立小学校の子どもたちに、「『高千穂学校良い学校!あがってみたらボロ学校!』」などと、からかわれるのが嫌で、遠回りをしていた。茂一少年の実家は、現在の紀伊國屋書店。その頃は炭問屋だった。毎朝、現在の職安通りから抜弁天通りに入り、そこから正門へと向かったようだ。茂一少年は、中学校まで、この高千穂学校に通った。同級生には、のちに作家となる舟橋聖一がいた。

 また、少年探偵団が誕生した頃、同じ高千穂学校の敷地内にいたのが、作家の加賀乙彦だ。加賀は、昭和4年に生まれ、幼少時を西大久保で過ごしているが、高千穂学校幼稚園に通っていたようだ。壮二君よりもかなり年下ではあるが、昭和9年前後に幼稚園に通園していたとすれば、壮二君たちとも顔を合わせていた可能性がある。
 加賀の自伝的小説『永遠の都』には、こんな描写もある。

「幼稚園は急斜面にへばりつくように建っていた。」
          (加賀乙彦『永遠の都』新潮文庫)

 高千穂学校は、確かに、大久保の「大きな窪」の斜面に建っていたのだ。学校の裏手、つまり、西側は高台になっており、地蔵山と呼ばれていたという。もちろん、加賀が入園したころには、もう、蟹川もその姿を消していた。


◆約束の地・大久保

 「怪人二十面相」で登場する二十面相最初のアジトが、戸山ヶ原、つまり、大久保にあった当時のことは、「怪人二十面相と小林少年が見た戸山ヶ原」に書いた通りである。このアジトで、二十面相は小林少年と初めて出会っている。
 一方、高千穂学校とアジトとは、直線距離にして、1.3キロほどしか離れていない。歩いても、20分あまりの距離だろう。羽柴家の宝冠に狙いをつけた二十面相は、行方不明の長男・壮一になりすましたくらいだから、当然、次男の壮二君がアジトのすぐ近く、同じ町の学校に通っていることも間違いなく知っていただろう。

二十面相のアジトがあった場所。高千穂学校は、ここから、1.3キロほど南東に。

 ただ、まさか、その壮二君が同級生を集めて、二十面相と対峙するために少年探偵団を結成することになるとは思いもよらなかったはずだ。思わぬ邪魔が入ってしまった。それも、子どもである。二十面相の運命はここで大きく狂ってしまうのである。実際、大久保で誕生した少年探偵団は、その後、長きにわたって、二十面相と敵対関係を続け、死闘を繰り広げることになる。 
 まず、壮二君のしかけた罠。そして、戸山が原で、仏像に変装した小林少年にまんまと一杯食わされたこと。そして、その後、このふたりが結成した、高千穂小学校の子供たちによる少年探偵団にぶざまに捕獲されたこと。プライドの高い二十面相にとっては、すべてが屈辱だったに違いないのだ。「怪人二十面相」で受けた傷は、「少年探偵団」、「妖怪博士」と、その後の二十面相の復讐劇を突き動かしてゆく。
 一方で、少年探偵団に対する二十面相の手口は残忍なようでいて、その実、あくまでもお子様向けだ。「子供だまし」と言い換えても良い。その傾向は、後年になればなるほど顕著となる。「透明怪人」「宇宙怪人」「鉄人Q」「魔人ゴング」と、手を変え品を変え繰り出す変装は、もはや、コスプレとも言えるもので、徐々にエスカレートしていく。小林少年と少年探偵団に対する復讐心から始まった一連の変装だったのに、いつの間にか、彼らの関心を惹き、共に戯れるための「玩具」と化している。復讐は、二十面相が少年たちと戯れるための言い訳に過ぎず、ただ単に、少年探偵団と戯れることだけが目的となってしまったかのようでもある。

 屈辱、復讐、戯れ、と、少年探偵団に対して、様々な表情を見せる二十面相。仮面と変装の下に隠したその感情は、どうやら一筋縄ではいかないようだ。「怪人二十面相」は、その悪事によって「怪人」なのではなく、その矛盾に満ちた感情によって「怪人」なのかもしれない。そして、その感情の源泉は、戸山ヶ原や高千穂学校のある大久保と分かちがたく結びついている。

「少年探偵団」シリーズは、間違いなく、大久保で始まったのだ。

参考文献

江戸川乱歩『怪人二十面相』ポプラ社 2009
江戸川乱歩『少年探偵団』ポプラ社 2008
黄金髑髏の会『少年探偵団読本』情報センター出版局 1995
高千穂学園八十年史編集委員会『高千穂学園八十年史』
            学校法人 高千穂学園 1983
高千穂学園80年史編集委員会『図説高千穂学園80年史』
            学校法人 高千穂学園 1983
田辺茂一『わが町・新宿』旺文社 1981
譚 璐美『帝都東京を中国革命で歩く』白水社 2016
田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたか』之潮 2011
加賀乙彦『永遠の都 1 夏の海辺』新潮社 1997
加賀乙彦『加賀乙彦自伝』ホーム社 2013
『新修新宿区町名誌』新宿歴史博物館 2010


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