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怪人二十面相と小林少年が見た戸山ヶ原     ①戸山ヶ原とは何か

 怪人二十面相は、戸山ヶ原にアジトを持っていた。
 
 この事実は、少年探偵団シリーズの記念すべき第一作にして、シリーズ最高傑作である「怪人二十面相」にはっきりと記されている。

 戸山ヶ原とは何か。
 戸山ヶ原とは、新大久保駅と高田馬場駅との間、山手線をはさんで東西に拡がっていた広大な野原である。東側というのは、現在の大久保三丁目であり、西側というのは、現在の百人町三丁目・四丁目だ。東側には、戸山公園大久保地区と、早稲田大学西早稲田キャンパスや新宿区立中央図書館などがある。また、西側には、ふたつの西戸山公園、西戸山野球場、東京グローブ座、桜美林大学などが含まれる。この東西のふたつの地区を合わせると、およそ20万坪に及び、実に、東京ドーム14個分という、とてつもない面積となる。
 さらには、大久保三丁目から明治通りを渡った東側の戸山公園箱根山地区までも、戸山ヶ原に含めることもある。箱根山をその中央に据え、マンモス団地・戸山ハイツの迷宮や、国立国際医療センターなどが広がる一帯だ。その面積はおよそ13万坪にも及ぶ。

夜の戸山公園大久保地区

 後に戸山ヶ原と呼ばれるようになる土地が陸軍に買い上げられていくのは、明治7年以降のことだ。尾張徳川家の下屋敷だった箱根山地区に兵学寮の戸山出張所が設けられたのを皮切りに、その西側、西大久保村、百人町、戸塚村の土地も、演習場の名目で次々と買い上げの対象となっていく。一連の買い上げは、かなり強引なものだったようだ。「新修新宿区町名誌」によれば、戸山学校に隣接する陸軍用地だから「戸山ヶ原」と呼ばれるようになったという。「新宿区史 第一巻」には、明治23年に戸塚村の一部が買い上げられた時に、戸山学校が使う原だから戸山ヶ原、と呼ばれるようになったと書かれている。山手線の西側の一部が戸山ヶ原発祥の地だと限定しているのだ。いずれにせよ、その範囲は東に広がっていき、やがて、陸軍戸山学校の敷地までも、戸山ヶ原として認識されるようになっていく。これが、本来、戸山という地名とは関係のない一帯に「戸山ヶ原」という通称が与えられた経緯であり、また、その範囲を分かりにくくしてしまう要因でもある。

 昭和5年に出版された「東京府郷土教育資料郊外篇」には、

「実は、山の手線を以て境する東部は陸軍射的場で西部一帯が眞の戸山ヶ原である」

 とあるが、これは、戸山ヶ原の、「西側」発祥説を示すものだろう。ここで言う「東部」というのが、山手線の東側の大久保三丁目のことで、「西部一帯」というのが、西側の百人町三丁目・四丁目のことだ。ここからは、「東部」を「大久保地区」、「西部」を百人町地区、そして、戸山公園箱根山地区を「箱根山地区」と、呼ぶこととしよう。

 陸軍が買い上げていった広大な土地は、畑や林だった。買い上げの際には、不要な樹木は前もって伐採するよう達しがあったという。
 やがて、戸山ヶ原の名は広まり、人々に親しまれていく。明治30年代以降には、散策や運動、そして、写生の名所として知られるようになり、地域住民のみならず、遠くから足を運ぶ人々も増えていった。
 明治から大正にかけて大久保やその周辺に移り住んできた文化人たちも、戸山ヶ原を愛した。国木田独歩、戸川秋骨、岩野泡鳴、若山牧水、金子薫園、松村英一、前田夕暮などの文学者、そして、中村彝、三宅克己、佐伯祐三、萬鉄五郎などの画家が、戸山ヶ原を歩き、詩興を得て、その姿を描いてきたのである。
 東京市内の名所を集めた「東都百一景」(昭和9年)には、次のように記されている。

 「淀橋区に在る戸山ヶ原は楢林にかこまれて茅山が点在し、狐狸なども住みたる茫漠たる廣野だった。明治十一年陸軍射的場となり畏れ多くも明治大帝の行幸を仰いだこともある。爾来追々人家も出来た。附近には陸軍科学研究所、陸軍技術本部がある。今は牛込、小石川、落合、大久保にかけて住む人々にとって戸山ヶ原は親しみ深い我家の庭の延長とも思へる。中学校の遠足、家族連れのピクニックにも好適だし、日曜祭日は会社員の野球チーム、学生の蹴球などのスポーツ風景で賑わふ。」(『東都百一景』)

 
 昭和に入って間もなく、その戸山ヶ原を活動の拠点、そして、隠棲の地として選んだのが、誰あろう、帝都を震撼させていた盗賊・怪人二十面相である。

江戸川亂歩著『怪人二十面相』,大日本雄辯會講談社,1936.12                     国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1873910(参照 2023-09-04)

 江戸川乱歩による「怪人二十面相」の連載開始は、雑誌「少年倶楽部」の昭和11年1月号だ。実際には、事件はいつ発生していたのか、つまり、二十面相のアジトが戸山ヶ原にあったのは、いつのことなのか。
 「明智小五郎年代学とその周縁」(『明智小五郎読本』所収)の中で、推理小説研究家の平山雄一氏は、作中に散りばめられたヒントをつなぎ合わせて考察し、事件は昭和6年に起きたと推定している。確かに、昭和6年以前には遡ることはないだろう。というのも、アジトに監禁された小林少年が、自分の位置を特定する決定的な材料となった「大人国のかまぼこ」、この屋内射撃場の完成が昭和3年なのだ。この奇妙な建築物が、誰もが知っているランドマークとして認識されるまでに要する時間を考えても、確かに、事件の発生は昭和6年よりも前に遡るとは考えにくい。
 ところが、「東京にたった一ヵ所しかない、きわだって特徴のある建物」とまで書かれていることを考えると、それまで市外だった戸山ヶ原一帯が、淀橋区として東京市に編入される昭和7年以降の可能性も残るとは言えないだろうか。もちろん、「怪人二十面相」の連載が昭和11年1月開始ということから、昭和11年以降の事件であるはずはない。平山氏の考察を尊重する一方で、遅ければ、連載開始直前の昭和10年に発生したという可能性も、ばっさりと切り捨てられるわけでもないのだ。
 つまり、事件の発生については、昭和6年から昭和10年までの5年間は、その可能性があるはずだ。言い換えれば、二十面相が戸山ヶ原にアジトを構えていたのは、この5年間のうちのどこか、ということになる。

 「怪人二十面相」に次いで、「少年探偵団」、「妖怪博士」という一連の事件が発生しているが、戦前の二十面相の活動期間は意外と短く、発表されているものはこの3つに過ぎない。昭和13年に発表された「妖怪博士」を最後に、二十面相の消息はぷっつりと途絶えてしまうのだ。
 平山氏によれば、「少年探偵団」事件の発生は昭和7年、「妖怪博士」事件は昭和8年のことだという。つまり、「怪人二十面相」事件の翌年、翌々年に、このふたつの事件が起きているということになる。この時系列を基にするならば、仮に、「怪人二十面相」事件が昭和10年だとすると、「妖怪博士」事件は、昭和12年ということになるだろう。二十面相の活動期間は、昭和6年から昭和12年の間の数年間に限定されてくる。

 さて、二十面相が潜んでいた時代の戸山ヶ原、そして、小林少年が目にした戸山ヶ原とは、どんなものだったのだろうか。

 昭和7年、東京は、その市域を拡張した。それまでの15区に、近隣の5郡82町村つまり荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域を編入して新たに20区を置き、35区としたのだ。この時、大久保も、豊多摩郡大久保村から、東京市淀橋区大久保に、つまり、それまでの郊外から東京市内となった。平山氏の考察通り、事件発生が昭和6年であれば、その時、戸山ヶ原はまだ市外だったはずだ。ところが、昭和7年以降であれば、すでに市内ということになる。このように、二十面相が戸山ヶ原にアジトを持った時代というのは、戸山ヶ原が、東京郊外から東京市内へと編入される、その狭間でもあった。

戸山ヶ原鳥瞰図   濱田熙『記憶画 戸山ヶ原 今はむかし・・・』(自費出版)より

 この時代の戸山ヶ原の風景を伝える、第一級の資料がある。濱田熙氏の画集「記憶画 戸山ヶ原 今はむかし・・・」(自費出版)である。大正11年生まれの濱田氏は、戸塚で育った。戸山ヶ原のすぐ目の前だったという。その頃から、戸山ヶ原をスケッチしていたが、残念なことに、空襲ですべて失ってしまった。その後、昭和40年代の終わりから、失ったスケッチを取り戻すべく、記憶の中の昭和13年頃の戸山ヶ原を描き始めた。鳥瞰図、あらゆる角度からの眺望、微に入り細に入り、生き生きと再現された戸山ヶ原は、眺めても眺めても、飽きることがない。実際、この素晴らしい画集から多くの示唆を得てきた。昭和11年撮影の航空地図と突き合わせてみても、地理的な整合性も素晴らしく、この画集の資料としての信頼性はかなり高い。ひとつひとつの絵については、是非、実際に本を手にとっていただきたいので、ここには、戸山ヶ原全体を見渡す鳥瞰図だけを転載しておく。描かれた戸山ヶ原の片隅に、二十面相のアジトがあった、そして、この風景を小林少年は見ていたのだと想像を巡らせながら、眺めていただきたい。

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