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出歯亀伝説 ③出歯亀登場

 ところが、事件は意外な展開を見せる。事件から9日が過ぎた4月4日、嫌疑者のひとりが自白をしたというのだ。4月6日の東京朝日新聞には、「大久保美人殺 出歯亀の自白」という見出しが踊った。「出歯亀」という言葉が、初めて世間に登場したのである。「出歯亀」とは容疑者のあだ名、その本名は池田亀太郎、35歳。植木職人であり鳶でもある男で、住所は、東大久保409番地、新宿六丁目の西向天神社の裏手で、西光庵の門前である。23歳の妻・すずと、2歳の子があり、また、69歳の母親・ひさとも同居していた。普段から、湯屋を覗いたり、湯屋帰りの女性を付け回してはいたずらを繰り返しているとの情報が寄せられ、3月31日に新宿署に連行されて取り調べを受けていたが、4日の午前中になって、とうとう自白をしたのだという。

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 供述によれば、事件の顛末は次の通りである。

 事件当日、亀太郎は、四谷区荒木町で仕事をしていたが、5時過ぎに終えると、四谷の居酒屋で焼酎を1合ほど飲み、その後、床屋で散髪をした。その後、家路についたが、ほろ酔いでいい機嫌となったため、ふと湯屋覗きを思い立ち、西大久保の事件現場に赴いたのだという。そして、森山湯の入り口近くの節穴より女湯を覗いたところ、美しい人妻エン子を発見する。物陰に身を潜めた亀太郎は、エン子が湯屋を出て少し歩いたところで背後から襲いかかり、目の前の空き地に引きずり込んで押し倒した。エン子が悲鳴を上げようとしたので、慌ててエン子が持っていた手拭いを口にねじ込み、暴行をはたらき、殺害に至った。

 東京朝日新聞は、その前日まで徳坊を追っていたこともすっかり忘れ、亀太郎の素行をこれでもかと暴きたてている。それによれば、亀太郎は、4、5年ほど前に現在の借家に移り住んできた。怠惰な性格で、賭博と酒を好み、最近では植木職人の仕事もなく、毎日のように酒を飲んでいたという。職人としての腕も悪く、また、生意気な言動で、親方や同僚たちにも疎まれていたらしい。家賃も、1年ほど前から滞納しており、家主も立ち退きを迫ろうとしていたが、母親と妻とを気遣い、そのままにしていた。家賃だけではない。近所の酒屋でも酒代を踏み倒していた。母親も、女中などをしていたものの、手癖が悪かったりで長続きはしなかったということまで報じている。さらに、その母親に直接話を聞きに行っている。母親は取材に対し、「私の倅はそんな大反れた事の出来る奴ぢやないのです」と涙ながらに訴えている。湯屋を覗く癖は、2、3年ほど前から始まったと言う。
 さて、同日の東京朝日新聞には、「出歯亀」という言葉とともに、亀太郎の写真が掲載されている。「出歯亀」とは何か。「出歯亀」は、亀太郎が仕事仲間からつけられたあだ名である。写真の亀太郎は、確かに、いわゆる「出っ歯」であり、出っ歯の亀太郎、だから「出歯亀」となったというのが、当時も、今も、一般に流布している説である。亀太郎が世話になっていたという親方・伊藤鉄五郎も、「奴は前歯が出ているので仲間から出歯亀(でっぱかめ)と綽名を付けられて居ました。」(東京朝日新聞)と語っているし、あだ名の理由としては、もっともなものと思われるが、一方で、異説も存在する。6月になって裁判が始まり、人々の前に姿を現した亀太郎の出っ歯は、人々が思い描いていたほどのものではなかったという。
 亀太郎は、短気で気が荒く、何かにつけて出刃包丁を振り回していた。つまり、「出刃亀」から転じたという説もある。あるいは、亀太郎は生意気で知られ、何事にも口を出したがる、「出張り」たがるので、「出張亀」と呼ばれ、それが「出歯亀」に転じたという説で、実はこれが有力であるという。報道によれば、仕事仲間からの亀太郎の評判は芳しくない。植木職人としての腕前は半人前のくせに、生意気を言っては仲間を罵る。親方からも嫌われ、次第に爪弾きにされていったという。それが原因で植木の仕事を失う。その後、鳶の親方に弟子入りしたものの、怠惰な性格は変わらず、やはり、ものにならなかった。1年ほど前からは、とうとう鳶の仕事もなくなり、日雇いの仕事を続けていた。事件当日も、荒木町で、家の取り壊しの片づけの仕事をしていたという。
 亀太郎の風貌については、「獄中記」の中で、大杉栄が貴重な証言を残している。明治41年6月22日、社会主義者と警察とが衝突し、14名が逮捕されたという「赤旗事件」で、「主義者」のひとりだった大杉は東京監獄に収監された。重禁固刑2年6ヶ月が言い渡されて千葉監獄に移される9月9日まで、大杉は東京監獄におり、その時に、亀太郎と会ったようだ。後に触れるが、この時、亀太郎も公判の真っ只中。大審院で刑が確定する翌年の6月まで、大杉と同じく東京監獄に収監されていた。ちなみに、明治36年に富久町に建てられた東京監獄は、亀太郎の借家から目と鼻の先、歩けば、およそ3分ほどの距離であった。

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「出歯亀にもやはりここで会った。大して目立つほどの出歯でもなかったようだ。いつも見すぼらしい風をして背中を丸くして、にこにこ笑いながら、ちょこちょこ走りに歩いていた。そしてみんなから、
『やい、出歯亀。』
 なぞとからかわれながら、やはりにこにこ笑っていた。刑のきまった時にも、
『やい、出歯亀、何年食った?』
 と看守に聞かれて、
『へえ、無期で。えへへへ。』
 と笑っていた。」

 大杉が書いている「刑の決まった時」というのは、明治41年8月10日の、東京地裁での判決のことだろう。いずれにせよ、大杉の証言からも、亀太郎の出っ歯は、それほどのものではなかったということがうかがえる。遺伝子的に、もともと日本人には出っ歯の傾向があり、江戸時代から明治時代の頃の日本人に残る特徴として、歯槽性突顎という、出っ歯、反っ歯の骨格があったともいう。栄養状態の悪かった明治の頃までは、現代よりもはるかに出っ歯は多かったようだ。幕末に来日して日本人を描き続けた漫画家ワーグマンが、明治8年に描いた絵の中で、すでに、出っ歯で、さらにメガネをかけた日本人を登場させている。その後、明治15年に来日したフランスの漫画家ビゴーは、日本で初めて触れた日本人の醜悪な容貌と貧弱な体に驚いたという。そして、ワーグマン同様、小柄で出っ歯、つり目に眼鏡というステレオタイプの日本人像を描き、海外に伝えていくのである。つまり、当時としては、多少の出っ歯は、それほど突出した身体的な特徴ではなかったというわけだ。なるほど、「出歯亀」の語源は、「出張亀」との説が正しいのかもしれない。
 かくして、池田亀太郎は逮捕され、「出歯亀」という言葉が、連日、新聞に躍った。「出歯亀」という滑稽な言葉は、人々の野次馬的な好奇心をかきたて、やがて流行語になって、ひとり歩きを始める。

 そんな中で、明治41年6月13日、亀太郎の公判が始まったのである。
 東京地方裁判所には、世間で噂の亀太郎を一目見ようと多くの傍聴人が詰めかけた。当日は雨だったにもかかわらず、朝から行列ができたという。
 しかし、驚くのはここからで、検事の問いかけに、亀太郎は、「そんなことは全く知りません。新宿署で刑事に圧制されて、耐えられずに自白したのです。」と、いきなり犯行を全面否認したのである。亀太郎の弁護を担当した沢田弁護士も、「被告は、この事件には関係がありません。」と、亀太郎の潔白を主張した。実際、その後の公判で、亀太郎は、取り調べにおいて、殴られたり、紐で打たれたり、天井に吊るされたり、という拷問を受け、虚偽の自白をしたのだと訴え続けている。つまり、自白は、警察が描いたストーリーの上に作られたものだというのだ。

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