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明治40年11月15日 午後4時      ① 出歯亀、レオニー・ギルモア、イサム・ノグチ、戸川秋骨、国木田独歩、水野葉舟、佐々木喜善

●● 池田亀太郎とレオニー・ギルモア ●●

 明治40年11月15日、午後4時。

 その頃の大久保は、茅葺の民家や小さな商店がぽつぽつと見られるだけの静かな村だった。田圃があり、畑があって、肥溜めが置かれている。12年前には、村の西はずれに甲武鉄道の大久保停車場が作られた。現在の中央線であり、大久保駅である。線路は大久保通りを横切るように敷設され、一時間に一回か二回、汽車が現れては停車場に停まる。その時だけはあたりに白い蒸気がまかれ、線路が軋む音が村中に響いたが、汽笛一声、列車が行ってしまうと、またいつもの静かな村に戻る。山手線はすでに開通しているが、大久保にまだ停車場はなく、通過するのみだった。

現在の大久保駅。当時は、高架ではなく列車は地上を走っていた。


 汽車がいなくなって静けさを取り戻した夕刻、通りの北側に延びる細いあぜ道からひょこっと現れたのが、出っ歯の男。仕事帰りの職人といった風情で、年は三十代半ばと見える。男の名前は池田亀太郎。大久保村にいくつかある湯屋を回り、女湯を覗くのを趣味としている。このあぜ道の突き当りには戸山ヶ原が広がっているのだが、その手前に湯屋「森山湯」があって、おそらくはその帰りなのだろう。

 半年後の明治41年3月22日、「森山湯」を出た若い人妻が寂しい空地で襲われ、殺害される。事件は巷を大いに賑わせることとなるのだが、その時、被疑者として逮捕されるのが、この男、池田亀太郎だ。出っ歯の亀太郎ということで「出歯亀」というあだ名がつけられ、事件は「出歯亀事件」と呼ばれて後世に残るものとなった。それだけではない。「出歯亀」という言葉も、覗きや異常性欲を指す流行語となって日本の津々浦々にまで知れ渡る。

「出歯亀事件」の現場付近

 亀太郎が通りを東へ向かおうとして、ふと振り向くと、眼鏡をかけた若い西洋婦人が姿を現した。小さな男の子の手を引いている。この時代の大久保で西洋人を見かけることは稀だ。亀太郎が大久保に移ってくる前にヘルン先生という西洋人がいた、というのは、誰かに聞いたことがあるが、まして、女となると珍しい。女は、ちらっと亀太郎を見たようにも思えたが、そのまま通りを西へ、つまり、亀太郎に背を向けるようにして遠ざかっていった。停車場へと向かうのだろう。亀太郎は、しばらくその背中を見送っていたが、再び、通りを東へとぼとぼと歩き出す。 
 この西洋婦人の名前は、レオニー・ギルモアという。まさに、ヘルン先生、つまり小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの屋敷からの帰りである。ハーンの屋敷は、ここからやや南に入った大久保尋常高等小学校の隣にあった。ハーンは数年前に亡くなっていたが、彼女は、その長男に英語を教えていたのだ。レオニーに手を引かれていた男の子は、息子のイサム。のちに高名な彫刻家となるイサム・ノグチである。レオニーはアメリカで、日本人の詩人ヨネ・ノグチこと野口米次郎と恋仲となり、イサムを産んだ。その後、ひとりで日本に帰国した米次郎を追ってイサムとともに来日したのが、つい数か月前のことだ。

八雲邸があった場所

●● 戸川秋骨と国木田独歩 ●●

 人影もまばらな通りを歩くレオニーとイサムに、英語で声をかけてきた男がいる。英文学者の戸川秋骨である。ハーンの弟子だった秋骨は、師の死後もその屋敷に足を運んでおり、レオニーとも知己があった。
 一言二言、簡単な挨拶を交わす彼らを、通り沿いの竹垣の隙間に覗く縁側に座ってぼんやりと眺めている男がいた。背を丸め、時々、咳をしている。小説家の国木田独歩である。明治31年というから10年ほど前のこと、独歩は渋谷村を拠点として武蔵野を歩き回り、武蔵野の美を発見した。その発見が、随想的な小説「武蔵野」に結実したのである。

 「近年のいわゆる武蔵野趣味は、自分の知る限りにおいては故人国木田独歩君をもって元祖となすべきである。」(「武蔵野の昔」)

と書いたのは、柳田国男。また、川本三郎氏は、次のように書いている。

 「ちょうどのちに永井荷風が『日和下駄』によって、それまでほとんど語られることのなかった路地や横丁に着目したように、独歩は雑木林という日常的な景観の中に『樹林美』を発見した。」(川本三郎「郊外の文学誌」)

 武蔵野の樹林美を発見し、それを小説にまで高めた独歩であったが、その後、事業に失敗しただけではなく結核まで患ってしまう。そこで、療養を兼ねて、半年ほど前に、大久保に移ってきたばかりだった。

 その時分、同じ豊多摩郡で東京市と郊外との境界線にあり、渋谷村とは同心円上に位置する大久保もまた、武蔵野の前線にあったと見るべきで、独歩は、大久保にもまた武蔵野を見出していたに違いない。独歩は、自らの養生の場として空気の良い大久保を選んだ。当時の大久保の風景が、独歩が「武蔵野」に描いたそれとほぼ同じようなものであったことは想像に難くない。明治39年に大久保に移り住んだ画家の曽宮一念は、この頃の大久保を「武蔵野の入り口」と書いている。この数年、大久保に魅了された多くの文人が移り住んできていた。とりわけ広大な戸山ヶ原は、まさに雑木林の「樹林美」を体現する場所だったのかもしれない。

 ところが、独歩の病状は確実に悪化していた。今もこうして、薄暗くじめじめした縁側で咳をしている。誰が見ても、この咳はよいものではない。実は、この頃、すでに、右の肺も、左の肺も、結核菌に冒されていたという。


独歩や秋骨が住んでいたのはこのあたり

 気がつくと、独歩の目の前、やや距離を置いて秋骨が立っている。ふたりは隣人同士で、つい最近、大久保に住む文人たちの親睦を深めるために「大久保会」なるものを作ったばかり。ただ、このふたりが出逢ったのは独歩が大久保に越してきてからだから、その交流はまだ数ヶ月にしかならないものの、同い年ということもあって馬が合う。
 「具合はどうだね?」
 秋骨が尋ねると、独歩は咳をしながら、とぎれとぎれに答える。
 「相変わらずだな。咳が、止まらん。ことに、夕方となると、熱も出て、苦しい。」
 大久保に住むことを願ったものの、実は、この地に住んだのはわずか一年足らず。結核が重篤化した独歩は、翌年の明治41年2月に茅ヶ崎の療養所に入る。3月22日に大久保で出歯亀事件が起きた後、茅ヶ崎に見舞いに訪れた秋骨は、その時に漏らした独歩の言葉を書き残している。

 「『僕は大久保が好い、大久保が一番好きだ。出歯亀があったって何があったって、僕は少し身体が好くなったら是非一度大久保に帰る。』」(『大久保時代の独歩氏』)

 しかし、その願いはかなわず、独歩は、同じ年の6月に亡くなった。

●● 戸川秋骨と水野葉舟 ●●
 
 秋骨は独歩の家を辞し、木戸を出た。すぐ脇には小川があって、ちょろちょろという水音がしている。このまま北上して戸山ヶ原を縦断し、神田川に注ぐ秣川である。ほんのひと跨ぎの細流だが、それでも、川沿いには田圃が連なって、その風景は戸山ヶ原の手前まで続いている。
 通りの、川の水源と思しき場所のすぐ目の前に、「万年湯」という小さな湯屋がある。大久保に住む文士御用達の湯屋だ。

 「番台には親父が無愛想な顔して座っていた。」
 「男湯と女湯の区劃の羽目板の上に山吹がさしてあった。」

 などと、万年湯の様子について日記に書き残しているのは、この翌々年の明治42年に、岩野泡鳴とともに大久保に移ってくる遠藤清である。(遠藤清『愛の争闘』)


万年湯は今も営業している

 秋骨は、万年湯の暖簾をくぐり、番台に銭を置く。無愛想な親父がそれを受け取った。
 湯殿に入ると、先客が湯船に浸かっていた。詩人の水野葉舟である。一昨年の1月に大久保に移ってきた。ふたりとも「大久保会」の世話人でもあり、家も近い。しかし、葉舟はまだ二十代半ばで、秋骨よりも一回りも若いので、その世代差はなかなか埋められず、何度顔を合わせても会話はどことなくぎこちないままだ。その日の話題は、近頃、大久保で頻発する婦女暴行事件に及んだ。実は、それ以降も、同様の事件は増加していき、ついには、「出歯亀事件」に進展することになる。
 半年後、「出歯亀事件」を報じる「時事新報」には、次のような記事が載っている。

 「昨年十一月初旬以来、この界隈より大久保停車場までの間にて、何者とも知れず二人の悪漢出没し、通行の婦女を辱かしめし事十一、十二月中に約五回、本年一月、二月中に約四回、次いで本月六日午後八時頃にも、某家の女中が辱かしめられたる事実あり。これ全く同一悪漢の所業なる事、疑いもなき所なるべし。」
 「一人は小男 犯人は常に二人連れにて、強姦被害者の中の某貴婦人遭難の時にも、二人がかりにて躑躅園に引き込まれたるよし。」(明治41年3月24日 時事新報)

 躑躅園というのは、大正から昭和に代わる頃まで大久保百人町にあって「江戸名所図会」にも描かれた躑躅の名所であったが、数年前に日比谷公園が出来て、そのの多くが移植されてからというもの、次第にさびれ始めていた。夜ともなれば真っ暗になり、あたりの民家もまばらで人影もなく、不逞な輩たちの悪さの舞台となっていたようだ。そんなわけで、日も落ちてしまうと往来からご婦人たちの姿が消える。女湯もからっぽになる。挙句の果てには、「無警察の大久保」などと揶揄する記事まで新聞に書かれる始末だった。

 「そういえば、戸山ヶ原のとこの湯屋ね、あそこに、この間、覗きが出たって話ですよ。」
 話題を変えたのは葉舟である。
 秋骨が答える。
 「つい最近、夜中に戸山ヶ原を歩いてみたら、無宿者たちがゴロゴロしていて、いかにも物騒だったよ。躑躅園も湯屋も、おおかた、あの連中がうろついて悪さをしているんだろう。」
 「ああ、その連中のことなら聞いたことがあります。政坊組って、言ったかな。」
 「戸山ヶ原も、昼間はいいんだが、夜は近づくもんじゃない。」
 「独歩氏は、朝の四時に戸山ヶ原を散策されるという話ですが、本当ですか?」
 「ああ、そいつは確かだ。朝の戸山ヶ原を大層好んでいるようだね。越してきたばかりの新緑の頃には、戸山ヶ原の武蔵野の趣をよく見ておきたまえ、なんて言っていたものだよ。近頃では、病状も思わしくないので滅多には出歩かないが。」
 早朝の戸山ヶ原を散策していた独歩は、その帰り道、山手線の轢死者を目撃してしまったこともあったといい、その時の体験を、「窮死」という短編に仕上げている。線路は、戸山ヶ原を縦断するように走っているのである。 
 
 ぎこちない会話を続けた後、葉舟は先に湯屋を出た。

●● 水野葉舟と佐々木喜善 ●●

 葉舟の家は、秋骨の家から目と鼻の先にある。2年後の明治43年には、歌人の前田夕暮もこの一角に移り住んでくることとなる。暗くなってきた通りを渡り、葉舟が家に戻ろうとすると、木戸のあたりに大柄な青年が立っていた。その名を佐々木喜善といって岩手県の出身、文学を志して上京したばかりの学生である。


このあたりに、秣川の水源があった


 葉舟と喜善とは、二年ほど前に同じ下宿で知り合った。初めて出会った夜のことを、葉舟は「北国の人」という小品で描いている。それによれば、葉舟にお目にかかりたい、と言って、葉舟の部屋に通されたのが喜善だったという。最初は、お互いに、ぽつりぽつりの言葉を交わすのみだったが、喜善が東北の人と知った葉舟が何気ない質問をしたことがきっかけで、その重々しさが破られた。

 「『それはそうと変な事を聞くようですがね、お国の方では迷信がひどくはありませんか、・・・お怪談なんぞが・・・』
   (中略)
 『盛んです。・・・そんな話ばかりですよ』
   (中略)
 『国ではまだ巫女だとか、変な魔法を使うと言う女などが沢山いましてね』」
            (水野葉舟『遠野物語の周辺』国書刊行会)

 続けて語り始めたのが、喜善の故郷・遠野の怪異譚である。近頃、心霊研究に傾倒していた葉舟は、喜善の話にすっかり魅了されてしまった。その後、結婚を機に大久保の借家に移ってからも、折に触れて喜善と会っている。

 葉舟が、喜善を柳田國男に引き合わせるのは翌年のことだ。柳田は、喜善の語る怪異譚を「遠野物語」としてまとめ上げることになる。ところが、柳田と葉舟の関心は異なっていた。心霊研究者、怪談を収集するオカルティストとして、怪異譚そのものに興味を抱いた葉舟に対し、柳田は、怪異譚を生み出し伝えてきたその背景と構造とに関心を抱き、民俗学の出発点とした。葉舟は、柳田の「遠野物語」を評価しながらも、同時に不満も抱いたという。

 さて、葉舟は喜善を借家に招き入れた。
 部屋は暗い。そして、喜善の訛りは強い。しかも、小さな声でぽつぽつと話すので、聞き取りづらい。それでも、一度、熱を帯びると、語り部のような抑揚が生まれ、その訛りがゆえに妖しい力がみなぎるようになる。この語りに葉舟は魅了されていた。
 「船幽霊なんぞについては、古より、よくよくお聞きになると思いますが、近頃では、偽汽車なんていうものが現れるといいます。奥州に汽車が走ったのは20年ほど前のことで、それから間もなくの話ですが・・・」
 と前置きして語り始めたのは、喜善が後に「偽汽車の話」としてまとめた奇譚だ。

 「いつも夜行の時で、汽車が野原を走っていると、時でもない列車が向こうからも火を吐き、笛を吹いてぱっぱっぱとやって来る。機関士は狼狽して汽車を止めると向こうも止まる。」(佐々木喜善『遠野奇談』)

 ある夜、機関士が思い切ってその汽車に向かおうとすると、汽車は消えてしまった。翌朝、調べてみると、そこには大きな古狸が数頭、轢死していた、というのだ。



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