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怪人二十面相と小林少年が見た戸山ヶ原       ②怪人二十面相の戸山ヶ原

 「車のとまったところは、戸山ヶ原の入り口でした。老人はそこで車をおりて、まっくらな原っぱをよぼよぼと歩いていきます。さては、賊の巣くつは戸山ヶ原にあったのです。
 原っぱのいっぽうのはずれ、こんもりとした杉林の中に、ポッツリと、一軒の古い洋館が建っています。荒れはてて住みてもないような建物です。老人は、その洋館の戸口を、トントントンと三つたたいて、少し間をおいて、トントンと二つたたきました。」(『怪人二十面相』)

戸山ヶ原への入り口はこのあたり。進んでいくと小高い林になっていた。

 老人に変装した二十面相が車を降りたのは、戸山ヶ原百人町地区への入り口である。戸山ヶ原の入り口のひとつが、今の諏訪通りの山手線沿いにあったのだ。その頃の戸山ヶ原は、1.8メートル間隔に立てたコンクリートの杭に有刺鉄線を通した柵に囲まれていたが、何箇所か、木戸が設けられて、そこから中に入れるようになっていた。二十面相は、この木戸を開けて、戸山ヶ原へと入っていったのだろう。「こんもりとした杉林」は、今の西戸山公園一帯であり、ここの片隅に、古い洋館が建っていたことになる。
 と、あっさりと書き進めてしまっているが、実はアジトの場所については諸説ある。私の考察では、二十面相のアジトはこの場所でしかありえないのであるが、その考察については、改めて書いてみたい。あくまでも、今の西戸山公園の一角にアジトがあったという前提で先を進めていく。

 線路沿いに広がっていた「杉林」の北側は、小高い丘になっていた。その地形は、現在の西戸山公園となっても、それほどは変わっていないはずだ。樹々の中に公園が作られてはいるものの、十分に当時の面影を偲ぶことができる。ここでは「杉林」となっているが、実際には楢の木が多く、他にも、椎の木、栗の木などが生息していたようだ。自然林というよりも、明治以降に植樹された雑木林といった趣だろうか。小径もいくつかあったという。線路と林との間には、小川が流れていた。戸山ヶ原の南端の陸軍科学研究所の敷地を水源として、戸山ヶ原を縦断して神田川へ注ぐ清水川である。といっても、その幅1.5メートル、むしろ、溝と呼ぶべきものだったようだ。研究所の排水が流れ込んでいたとすれば、その水質も推して知るべしといったところか。
 この林に隠れている洋館、それが二十面相のアジトだった。

二十面相のアジトはこのあたりか

 実は、この洋館をアジトとして利用したのは、二十面相が初めてではない。フランスの怪盗アルセーヌ・ルパンがいる。江戸川乱歩の「黄金仮面」(昭和5年)である。日本国内で、次々と盗難事件を起こしていたルパンは、大鳥家の美しい令嬢不二子と恋に落ちる。ふたりの逢い引きの場所であり、また、盗難品の収蔵場所だったのが、戸山ヶ原の洋館だったのだ。

 「結局、行きついたところは、郊外戸山が原のはずれの実に淋しい場所に、ポツンと建っている古い洋館で、場所といい建物といい、何となく無気味な感じがする上に、(後略)」(『黄金仮面』)

 二十面相がルパンの洋館を受け継いだ経緯はわからないが、その描写からして、同じ洋館を使っていたことはほぼ間違いない。平山氏は、「黄金仮面」事件を昭和4年のことと推定している。また、「怪人二十面相」を昭和6年の事件と推定しているから、だとすれば、その時間差はわずか2年しかないことになる。明智小五郎に敗れたルパンは、アジトを捨てて日本を脱出しているが、ほどなくして、そのアジトを二十面相が手に入れたということなのだろう。

 松岡圭祐のミステリー「アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実」(角川文庫)は、「黄金仮面」を忠実になぞった上で、カリオストロ伯爵夫人に誘拐されたルパンの息子や、張作霖爆殺事件なども巻き込んで、物語を展開させている。当然、ルパンのアジトである戸山ヶ原が登場するのだが、ルパンの敵対グループのひとり、リュカがこんなことを口にする。

「戸山ヶ原は尾張徳川家の下屋敷だったが、ところどころ地盤が悪くてな。戸山荘の庭園や池になってた。今も部分的に沼も同然の地面がある。」(松岡圭祐『アルセーヌ・ルパン対明智小五郎 黄金仮面の真実』)

 この説明は正確さを欠いている。まず、尾張徳川家の下屋敷だったのは、明治通り東側の戸山公園箱根山地区だ。現在、マンモス団地・戸山ハイツが広がる、蟹川が作った巨大な窪地であり、戸山荘の時代には蟹川の水をせき止めて作られた大きな池もあったから、地盤が悪いのは間違いない。ただし、ルパンのアジトがあったのは、下屋敷からは1キロ近く西に離れた百人町地区であり、こちらは、尾張徳川家とは関係がなく、もともと民間の土地だった。こればかりは、リュカの勘違いだろう。調査が不十分だったか、ルパンのアジトが、尾張徳川家の下屋敷があった場所なのだと思い込んでしまったようだ。

箱根山周辺。江戸時代は尾張徳川家の下屋敷。その後、戦前までは、陸軍戸山学校の敷地だった。

 もっとも、リュカだけを責めることはできない。この誤解は、広すぎる戸山ヶ原と、その範囲のわかりにくさに起因している。戸山、と聞いて、尾張徳川家の下屋敷、つまり戸山荘に結びつけてしまうのも当然だ。土地勘のないリュカが、百人町地区、大久保地区、そして、箱根山地区、と、戸山ヶ原の3つの地区を混同してしまうのもやむを得ない。
 ただし、「黄金仮面」の時代には、箱根山地区は陸軍戸山学校の敷地だった。大久保地区や百人町地区とは異なり、そもそも一般人が立ち入ることはできなかったのである。

 さて、諏訪通り、つまり、北側から戸山ヶ原百人町地区へと入った二十面相に対し、その反対側、おそらくは南側の入り口から入ったであろう人物がいる。日本のSF小説の父と呼ばれる海野十三の「第四次元の男」(昭和15年)の主人公だ。

 「深夜の戸山ッ原!

 それは知る人ぞ知るで、まことに静かな地帯である。地帯一帯を蔽う、くぬぎ林は、ハヤシの如くしずまりかえっているし、はき溜を置いてあるでなし、ドブ板があるでなし、リーヤ・カーが置きっ放しになっているではなし、ましてやネオンサインも看板もない。そこに在るものは、概して土で、その外、くぬぎの木と、背丈の短い雑草とキャラメルの空函ぐらい、あとは紙類がごそごそ匐っている程度である。」(海野十三『第四次元の男』)


南側の入り口はこのあたりか


 新宿から歩いて戸塚三丁目に向かっているというこの主人公は、おそらく、今の東京グローブ座のあたりの入り口から戸山ヶ原に入り、北上している。この入り口と、二十面相が使った北側の入り口との距離は、およそ600メートルである。深夜の戸山ヶ原は静まり返り、キャラメルの「空函」や紙くずが風に吹かれて地を這っている。ここでは「くぬぎ林」とされている林を進めば、二十面相のアジトである洋館が視界に入ってくるはずなのだが、主人公はその存在には気づいていないのだろうか。

 関東大震災の翌年の大正13年、戸山ヶ原の南側の入口近くに移り住んできたのが、岡本綺堂である。綺堂が住んだのは、現在の東京山手メディカルセンターの向かいだった。大久保での生活を描いた随筆「郊外生活の一年」の中で、綺堂は書いている。

 「わたしの家の裏庭から北に見渡される戸山が原には、春らしい青い色はちっとも見えなかった。尾州侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情もなしに大きい枯枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦の建築と、東洋製菓会社の工場に聳えている大煙突と、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙と、これだけの道具を列べただけでも大抵は想像が付くであろう、実に荒凉索莫、わたしは遠い昔にさまよい歩いた満洲の冬を思い出して、今年の春の寒さが一としお身にしみるように感じた。」(岡本綺堂『校外生活の一年』)

広大な陸軍科学研究所の跡地の一部。綺堂邸は、その向かい。

 ちなみに、江戸の歴史と風俗とに精通した綺堂ほどの人が、さきほどのリュカと同じような勘違いをしている。繰り返すが、百人町地区に「尾州候の山荘」はない。
 さて、「第四次元の男」に描かれた南側の入り口から戸山ヶ原に入ると、そのすぐ左手にそびえているのが、赤煉瓦の陸軍科学研究所で、百人町地区の南側半分を占めるほどの大きな施設だった。綺堂邸の眼の前は、この陸軍科学研究所だったのである。大正8年に作られたこの施設では、陸軍の各種兵器や技術の研究開発、特に細菌兵器の研究が行われていたとも伝えられる。
 「東洋製菓会社」というのは、大正6年に線路の東側に作られた製菓工場で、のちの明治製菓である。工場は、大正14年4月、工場は火災を起こして半焼してしまう。線路を走っていた蒸気機関車の煙突から出た火の粉が、工場敷地内の原っぱの枯れ草に引火したのが原因だという。

 震災の前年、陸軍科学研究所を小説に描いているのが、「ぎんぎんぎらぎら 夕日がしずむ」の「夕日」などの作詞で知られる童謡作家の葛原しげるだ。

 「漸くにして、久し振の戸山ヶ原へ、好きな好きな原へと志して、はま子が、見覚のある靴店の角から曲り込むと、驚いた事には、そこには、不思議にも『陸軍科学研究所』が、堂々と大堤防を廻らして最新に建っていて、何処からも入れさうになかった。」(葛原しげる『姫百合小百合』)

 新大久保駅で降りて、戸山ヶ原に向かったようなので、まさに、綺堂邸のあたりで陸軍科学研究所に行き当たってしまったことになる。施設の完成が大正8年だから、おそらく、主人公は、その直後にこの場所を訪れたのだろう、赤煉瓦の「大堤防」に往く手を阻まれ、戸惑っている。少しだけ東側に、つまり右手に回り込めば、「第四次元の男」が通った入口があるはずなのだが、主人公はそれに気づかないのだろうか。

 浮世絵の再興を唱え、「新版画」を確立した川瀬巴水に、「冬の月」という作品がある。夜の戸山ヶ原を描いたもので、それも、おそらく百人町地区である。昭和6年の作というから、この時、二十面相が潜んでいた可能性は高い。いわゆる「巴水ブルー」に覆われた青い画面に陶然となるが、遠くに描かれた林のどこかに、古い洋館が隠れているはずだ。いくつか灯る明かりは、もしかしたら、洋館から漏れるものかもしれない。巴水はそれと知ってか知らずか、二十面相の潜む戸山ヶ原を描いてしまったのだ。

川瀬巴水「冬の月(戸山ヶ原)」昭和6年

 巴水の絵のごとく、「百人町地区」には、林がある一方で、広大な原っぱもあった。その原っぱの中心に、「一本松」と呼ばれる松の木があった。この「一本松」を、令嬢誘拐の身代金の受け渡し場所に指定したのが、乱歩の短編「黒手組」である。「黒手組」は大正14年発表なので、時代は少々遡る。ちなみに、平山氏による考察では、「黒手組」事件の発生は、さらに遡って大正10年のことだという。ただし、作中では、「戸山ヶ原」とは書かれておらず、「T原」となっている。

 「T原というのは、あの都の近郊にある練兵場のT原のことですが、原の東の隅っこの所に一寸した灌木林があって、一本松はその真中に立っているのです。練兵場とはいい条、その辺は昼間でもまるで人の通らぬ淋しい場所で、殊に今は冬のことですから一層淋しく、秘密の会合場所には持って来いなのです。」(江戸川乱歩『黒手組』)

 昭和7年に東京市に編入されるまで、大久保は市外だったので、当然、この時の「T原」は「都の近郊」だった。身代金の受け渡しにはもってこいの、人気のない、淋しい場所だったということだろう。昼間は、遊興の地として人々の出入りも多かった戸山ヶ原ではあるが、夜ともなれば、「第四次元の男」のような荒涼とした風景に様変わりしていたようだ。
 「灌木林」というから、背の低い木々が、「一本松」を囲んでいたということだろう。一本松は、戦前まで、今の西戸山公園(西側)のあたりに存在した木である。二十面相のアジトからは、300メートルほどの距離だろうか。
 一本松の位置を知るにつけ、「原の東の隅っこ」という不正確な表現が少し気になるが、この作品だけ、戸山ヶ原が、あえて「T原」として曖昧に記されていることを考えれば、その位置を明確にできない理由があったのかもしれない。


一本松はこのあたり

 浜田熙氏は、一本松の絵も描いているが、「灌木林」と呼べるようなものは確認できない。絵には、次のようなキャプションが添えられている。
 
 「天祖神社の前に立って西の方を見ると、広い馬場となって草の少ない赤土の真中に松の木が一本立っている。」(『記憶画 戸山ヶ原 今はむかし・・・』)

 戸山ヶ原の北の端にあった天祖神社は今も残っているが、その場所は、当時よりも北側に移動している。そして、この赤土というのが、百人町地区、大久保地区を問わず、戸山ヶ原の特徴で、つまりは関東ローム層がむき出しになった地質なのである。昭和14年の「日本地名大辞典」(日本書房)の「戸山」の項目にも、「海抜凡そ三○米の洪積層のロームより成る臺地にて、武蔵野臺地の原形面に當る平原なり。」と記されている。この当時、手つかずの土壌の原には、よく見られたものだったのかもしれない。

 実際、戸山ヶ原の赤土を描いた散文や詩歌は少なくない。
 夏目漱石が亡くなる年というから、大正5年にまで遡ってしまうが、弟子のひとりで、大久保に長く住んでいた文学者・戸川秋骨がこんな文章を残している。その日、秋骨は戸山ヶ原の坂道で、偶然、漱石に出会った。漱石は、早稲田南町の自宅から散歩に来たのだろう。おそらく、この坂道は、二十面相の洋館のあった林の小径である。丘の上の狭い道で立ち話に耽っていたふたりを避けようとした女性が、坂を滑り落ちてしまった。ローム層の赤土は滑りやすい。

 「特に戸山ノ原の泥は赤土であるから始末が悪い、私たちはひどく気の毒に思ったがどうすることも出来はしない。」(戸川秋骨『文鳥」)

 揃いも揃って無責任のようにも思うが、悪いのは戸山ヶ原の赤土、ということなのだろう。
 
 明治40年前後に大久保に住んでいた画家の曽宮一念は、

 「もとは陸軍の射撃場があり、草原の東半分は銃声がけたたましく、馬糞と革と汗のまざる兵隊のにおいが赤土の泥に浸み込んでいた。」(曽宮一念『海辺の溶岩』)
 
 と書いている。

 また、大正時代、恋愛小説家として人気を博していた内藤千代子の自叙伝にも、次のような描写がある。

 「赤茶けた戸山ヶ原は、行途に遠くひらけていました。」(内藤千代子『生ひ立ちの記』)

 歌人・松村英一は、昭和11年に発表した歌集「初霜」で、赤土の道を歌っている。

 「犬連れてのぼる草丘あめあとの赤土道はすべりやすくて」
                  (松村英一『初霜』)
 
 もしかしたら、漱石を避けた女性が滑ったという坂道かもしれない。

赤土の雑木林

 赤土は、ある時は広い野原のまま、ある時は、小高い林となって、戸山ヶ原を覆っていた。この赤土の戸山ヶ原の一角にある洋館に、二十面相は、隠遁するようにひっそりと身を潜めていた。そして、夜陰に乗じて、手に入れた盗品を続々と運び込んでいたのだろう。
 二十面相が、戸山ヶ原に白羽の矢を立てた理由として、冨田均はこんなことを書いている。
 
 「強度の『自己顕示欲』と『自己隠示欲』の狭間に生きる者が仮の住居と定めるには、この都心のすぐ傍らの『郊外』は恰好の場所だったのだろう。」(冨田均『乱歩『東京地図』作品社)

 確かに、二十面相は、狭間を行き来する怪人でもある。「自己顕示欲」と「自己隠示欲」との狭間、市外と市内の狭間。常に矛盾と屈折とが伴う。後に、小林少年や少年探偵団員に示すようになる執拗な復讐心と、それに真っ向から矛盾する深い愛情にも、明らかな矛盾がある。戦後の二十面相に顕著な、青銅の魔人、宇宙怪人、透明怪人、など、ほとんどコスプレともいうべき荒唐無稽な「変装」からも、その扮装を隠れ蓑にしていると同時に、強い「自己顕示欲」が見て取れる。ただ、その天邪鬼こそが、二十面相の魅力であり、わかりやすさでもある。
 冨田均は、二十面相は、アジトとしては、戸山ヶ原を信用していなかった、とも書いている。だからこそ、同時に、代々木の森にもアジトを構えていた、と。

「出来得る限り市民社会から遠ざかろうとする心理の『戸山ヶ原』。”隠したいものは隠すな”を実践する『代々木の一軒家』。」(『乱歩「東京地図」)

 二十面相は、常に、矛盾と屈折とを抱えながら、帝都を綱渡りしていたのだ。

 さて、「怪人二十面相」でまず狙われたのは、実業界の大立者・羽柴壮太郎氏が所有するロマノフ家に伝わるという宝石である。細工は流々、計画を見事に成功させたかと思われた二十面相だったが、次男の壮二君のしかけた罠にはまってしまう。起死回生のトリックで何とか逃れた二十面相は、復讐として壮二君を誘拐する。そして、壮二君解放の条件として、やはり羽柴氏が所有する、鎌倉期に作られたという木造の観世音像を要求してきたのである。二十面相の目論見通りに事は運んだ。壮二君は無事に解放され、観世音像は、二十面相のアジトへと運び込まれた。ところが、観世音像だとばかり思っていたものは、実は、名探偵明智小五郎の助手の小林少年の変装であった。羽柴氏が救いを求めた明智は不在、代わって小林少年が二十面相の鼻を明かす大胆な仕掛けを用いて、自ら二十面相のアジトに潜り込んだのである。二十面相をあっと言わせた小林少年だったが、すぐに形勢は逆転し、地下室に監禁されてしまう。一晩をこの部屋で過ごした後、明るくなるのを待って、小林少年は、探偵七つ道具のひとつ、縄ばしごを使って、天井近くに空いた明り取りの窓によじ登り、外を覗くのである。

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