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出歯亀伝説 ⑤自然主義の徴しの下に

 事件は、すぐに日本中の耳目を集め、連日の報道合戦も加熱した。亀太郎のあだ名「出歯亀」も、早速、流行語となる。裁判には、多くの傍聴人が押し寄せた。事件は、ひとりの植木職人が犯した暴行殺人にとどまらかなったのである。果たして、その背景には何があったのか。
 冒頭に載せた森鴎外の言葉を改めて見てみよう。

「そのうちに出歯亀事件というのが現われた。出歯亀という職人が不断女湯を覗く癖があって、あるとき湯から帰る女の跡を附けて行って、暴行を加えたのである。どこの国にも沢山ある、極て普通な出来事である。西洋の新聞ならば、紙面の隅の方の二三行の記事になる位の事である。それが一時世間の大問題に膨脹する。所謂自然主義と聯絡を附けられる。出歯亀主義という自然主義の別名が出来る。出歯るという動詞が出来て流行する。」

 鴎外は、「出歯亀主義という自然主義の別名」と書いている。どういうことなのだろう。「明治四十年から四十一年(一九〇八年)にかけて、日本の文壇は自然主義についての論議に明け暮れた。」(「日本文壇史」12巻)と、伊藤整が書いている。また、ドナルド・キーンも、「日本の自然主義が勢威をほしいままにしたのは、一九〇六年(明治三十九年)から一九一〇年(同四十三年)に至る短い期間に過ぎなかったが(後略)」(「日本文学史 近代・現代篇2」中央公論社)としている。つまり、出歯亀事件の起きた明治41年は、自然主義隆盛の真っ只中にあったのである。

 自然主義とは、もともと、19世紀後半にフランスで誕生した思潮で、その代表はエミール・ゾラやギュスタブ・フロベールだとされている。やがて、その思潮は日本に輸入される。ただ、日本での自然主義は、フランス本国のそれとは異なる独自の発展を遂げてしまう。人間を科学的に、正確に描くことを主眼としたゾラの自然主義が、何故か、正直に、赤裸々に描く目的に変換されてしまう。爛熟したロマン主義の反動で自然主義へと向かったフランスと異なり、日本では、ロマン主義が発達しないまま、この思潮を迎え入れてしまったのも、その一因ではないかと思われる。
 では、正直に描く、とは、具体的にはどういうことなのか。日本の自然主義文学の中で、その決定的な役割を果たしたのが、田山花袋の「蒲団」であろう。明治40年つまり出歯亀事件の前年に書かれたこの小説は、また、「私小説」の嚆矢であり、日本の近代小説の始まりであった。「蒲団」の主人公は、田山花袋本人でもある中年作家竹中時雄で、妻がありながら、弟子の若い女性に思いを寄せ、何とも情けないばかりの自意識の中をうろうろする。有名な最後のシーンは、女性の去った部屋に入り、その蒲団を持ちだして、女の匂いに包まれて眠る、というもので、当時としては、かなりショッキングであり、あからさまな描写であった。この小説は私小説、つまり、花袋の私生活を描写したものであり、主人公が想いを寄せる若い女性も、岡田美知代という実在の人物である。人間を科学的に描こうとしたフランスでの運動に対し、ここでは、嘘偽りなく欲望を描くこと、あけすけな告白をすることが自然主義となってしまっている。いわば露悪的な方法論に、当然、賛否両論が生まれる。島村抱月は、「此の一篇は肉の人」として肯定的に捉えたが、二葉亭四迷のような人からは、「牛の涎」と批判された。そんな時期に起きてしまったのが、出歯亀事件だったのだ。
 鴎外も、自然主義を批判した一人だった。それが、先の、自然主義とは出歯亀主義なのだ、という考え方につながり、そのまま、出歯亀事件に対する世間の見方となっている。私生活を覗かせた自然主義文学と、女湯を覗いた出歯亀は、普通なら第三者は知るはずのない、知ってはいけない領域に踏み込んだという点で、結びついてしまったのである。もちろん、自然主義文学もさまざまで、すべてが、露悪的、覗き、欲望、などというキーワードだけで語れるものではない。しかし、「蒲団」に衝撃を受けた世間の見方は、単純化され、わかりやすい形を選択し、流通する。覗き=自然主義、出歯亀=自然主義、欲望=自然主義。自然主義は、もはや文学的な定義や論議を離れてしまう。
 出歯亀事件に対する世間の関心というのは、言ってみれば、この自然主義的な流行に根ざした、下世話なものとして広まった。事件が、覗きという行為をともなっていなければ、自然主義と結びつけられて、三面記事を賑わすようなことにはなっていなかったに違いない。実際に「蒲団」を読んでいようがいまいが、人々は、自然主義という概念を、露骨で赤裸々なものと単純化して捉え、消費した。もしかしたら、誰もが心の底に秘めていながら抑えている窃視行為、他人の私生活を覗き見るという邪な欲望を、多少なりともくすぐられたのかもしれない。

 出歯亀事件が起きた3月22日の前日、ひとりの女性が失踪した。平塚らいてうこと、平塚明である。らいてうは、文学の師であった森田草平と恋愛関係にあった。森田に妻があったことから、ふたりは逃避行を試みて、心中を図った。結局、ふたりは塩原の山中で発見され保護される。いわゆる「煤煙事件」とも「塩原事件」とも呼ばれる事件だが、その記事が、出歯亀事件を報じる同じ紙面に掲載されている。3月25日付の東京朝日新聞の見出しには、「自然主義の高調」とある。「自然主義、性欲満足主義の最高潮を代表する」などの論調からもわかるように、自らの欲望を抑えることなく、その渦中に飛び込もうとする傾向を、自然主義と呼んで、揶揄の対象としたのである。偶然か必然か、同じ紙面を飾った出歯亀と塩原事件とは、自然主義の隆盛の中で、人々の関心、好奇心を刺激していく。
 そして、自然主義が広まれば、それを取り締まろうとする動きも加速する。「であるから、出歯亀事件が発生するや、待ってましたとばかり、これは自然主義文学の影響なりと解釈し、これをきっかけに自然主義文学はぞくぞくと発禁されている。」と、暉峻康隆が書いている。(「すらんぐ」勉誠出版)

 自然主義文学が流行し始めた、まさにその時に発生したのが、覗きから発展した暴行殺人だ。この事件は、自然主義の悪しき影響の下にあると考えられた。逮捕された亀太郎には、当然のことながら厳しい取り調べが行われ、やがて、自白へと向かった、あるいは、向かわされたのだろう。もっとも、亀太郎が、「蒲団」を読んでいたとは思えないし、まして、自然主義文学の影響を受けていたとは、到底考えられない。それだけではない、後に触れるように、亀太郎には、当時から冤罪の疑いさえ指摘されていた。つまり、亀太郎は、本人の意思とは全く関係のないところで、自然主義文学という悪しき思潮を糺すための、お誂え向きのスケープゴートにされたのである。

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