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怪人二十面相と小林少年が見た戸山ヶ原    ③小林少年が見た戸山ヶ原

 「窓の外は荒れはてた庭になっていて草や木がしげり、そのずっと向こうにいけがきがあって、いけがきの外は道路もない広っぱです。その広っぱへ、子どもでも遊びに来るのを待って、救いをもとめれば、もとめられるのですが、そこまで声がとどくかどうかも、うたがわしいほどです。
 それに、そんな大きなさけび声をたてたのでは、広っぱの人に聞こえるよりも先に、二十面相に聞かれてしまいます。いけない、いけない、そんな危険なことができるものですか。
 小林少年は、すっかり失望してしまいました。でも失望のなかにも、一つだけ大きな収穫がありました。といいますのは、今の今まで、この建物がいったいどこにあるのか、少しも見当がつかなかったのですが、窓をのぞいたおかげで、その位置がハッキリとわかったことです。
 読者諸君は、ただ窓をのぞいただけで、位置がわかるなんてへんだとおっしゃるかもしれません。でも、それがわかったのです。小林君はたいへん幸運だったのです。
 窓の外、広っぱのはるかむこうに、東京にたった一ヵ所しかない、きわだって特徴のある建物が見えたのです。東京の読者諸君は、戸山ヶ原にある、大人国のかまぼこをいくつもならべたような、コンクリートの大きな建物をごぞんじでしょう。じつにおあつらえむきの目じるしではありませんか。
 少年探偵は、その建物と賊の家との関係を、よく頭に入れて、なわばしごをおりました。そして、いそいで例のカバンをひらくと、手帳と鉛筆と磁石とをとりだし、方角をたしかめながら、地図を書いてみました。すると、この建物が、戸山ヶ原の北がわ、西よりの一隅にあるということが、ハッキリとわかったのでした。ここでまた、七つ道具の中の磁石が役にたちました。」(『怪人二十面相』)

その朝、小林少年の目に最初に飛び込んできたのは、こんな風景か

 窓は、地下室の天井近くに設けられていたが、外の地面すれすれの高さにあった。縄梯子につかまったまま、小林少年が外を覗いてみると、洋館には庭があり、生け垣まであって、その向こうに原っぱが広がっている。
 そして、その原っぱの先には、まず、線路が見えるはずなのだが、「道路もない」などというくらいだから、小林少年が覗いていたであろう数分の間には列車も通らず、すぐにはその存在に気づかなかったかもしれない。
 さらに目を凝らすと、ついに、線路の向こう側、距離にしておよそ300メートルほどだろうか、小林少年は見つけてしまったのである。「東京にたった一ヵ所しかない、きわだって特徴のある建物」、「戸山ヶ原にある、大人国のかまぼこをいくつもならべたような、コンクリートの大きな建物」を。つまり、昭和3年に戸山ヶ原の大久保地区に作られた、陸軍の屋内射撃場である。まさに「大人国のかまぼこ」、円筒を半分にしたような巨大なドームだ。その長さは300メートルにも及び、幅は20メートル、そして、高さは8メートルで、7基並んでいた。戸山ヶ原の大久保地区の南側半分は、この巨大な射撃場に占められていたのだ。この、あまりにも特徴的なランドマークを発見し、小林少年は自分が戸山ヶ原にいることを悟った。そして、地図を引き、アジトの正確な位置を導き出した。「戸山ヶ原の北側、西よりの一隅」、つまり、現在の西戸山公園の一角である。

昭和35年頃の戸山ヶ原の屋内射撃場(新宿区立新宿歴史博物館所蔵)

 明治43年から昭和9年まで西大久保に住んでいた歌人・前田夕暮が、このランドマークについて歌を詠んでいる。

「一本の烟突が立てる風景の見ゆる限りは白亜の圓屋根」(前田夕暮『素描』)

 その完成を見届けたに違いない夕暮は、続けて、こう書いている。

「私が明治末から住んでゐた大久保の地、隣接戸山ヶ原射場も、時代の推移に伴ひ、新しい白亜の累々たる圓屋根の工作物が出来た。それは露天射撃が近郊にいろいろ危険を与へるので、絶えず問題化した果てに、その危険を防備するために、海狸の巣のやうなコンクリートの圓屋根の工作物が、何個も原つぱに建てられた。これは全く新しい近代的な風景であつた。」(『素描』)

 明治の頃から大久保を知っている夕暮からすると、この射撃場の出現は、よほど驚くべきものだったのだろう。

 小林少年の見た射撃場は戸山ヶ原の大久保地区に、二十面相のアジトは百人町地区にある。もちろん、その境を山手線が横切っているはずだ。山手線の線路は、広大な戸山ヶ原を東西に分断していたのだ。小林少年は、山手線の線路越しに大久保地区を視界にとらえていたことになる。この時代、西武線は高田馬場駅を終点としていたので西武線は走っておらず、山手線の内回りと外回りの二本と、貨物用線路の二本を合わせて四本の線路が敷設されていた。当時の山手線の運転間隔は、おそらく10分程度だったと思われる。つまり、5分ほどの間隔で、5両ほどの列車が左右から来て通り過ぎていたということになる。ちなみに、これは、現在の山手線の五分の一ほどの運行ペースである。
 小林少年も、どこかで線路の存在には気づいただろうが、列車の運行には邪魔されず、自分の位置をしっかりと確認できたのだろう。そこは名探偵の一番弟子である。縄梯子につかまったままで体勢も不安定だったと思われるが、わずか2、3分ほどの時間さえあれば十分だったはずだったはずだ。
 線路は盛り土の上に敷設されていたが、洋館のある林もまた小高い丘にあり、小林少年の覗いた窓が地面すれすれの高さだったとしても、遠くまで見渡すことができた。幸いにも、列車も、線路の盛り土も、小林少年の視界を遮ることはなかったのである。
 ただ、線路の向こう側に、熊笹に覆われた大きな山が見えていて、視界をふさいでいる。通称「三角山」である。

 戸山ヶ原が陸軍の敷地になったのは明治7年以降のことだが、明治15年には原全体が練兵場となり、射撃訓練も行われるようになった。ところが、周囲の住民への流れ弾の被害が続出したことから、射撃場を取り囲むような土塁が線路に沿って築かれた。流れ弾を防ぐ土塁であり、的を設置する「射だ」である。これが「三角山」だ。山の高さについては諸説ある。上落合郷土史研究会編「昔ばなし」では、20メートルほどと書かれている。濱田熙氏は、「4階建てのビル位」とも、「3〜4階建ての団地ビル位」(『記憶画 戸山ヶ原 今はむかし・・・』)とも書いているから、10メートルから15メートルほどだろうか。いずれにせよ、低く見積もっても10メートル、おそらくは、20メートルか、もしかしたら、それ以上あったということだろう。流れ弾を防ぐためなのだから、その程度の高さは当然だったろう。また、長さは150メートル、幅は5メートルほどもあった。つまり、5メートルの底辺に対して、20メートルの高さ、というから、かなり尖った山だったことがわかる。もちろん、人工の土手であり、もともとの目的は流れ弾避けの土手なのだから、当然である。子どもたちに「三角山」と呼ばれるようになったのもうなずける。
 三角山から少しずれるように、もうひとつ、平行して、土塁が築かれていた。こちらは、「ライオン山」と呼ばれていたようで、このふたつの山は、子どもたちの格好の遊び場だった。山の尾根には道が通っていた。東側に小高い林がある以外は、比較的平坦な野原が広がっていた百人町地区に比べ、大久保地区は、射撃場を囲む土塁などの存在もあって起伏が激しかったが、三角山の隣には、野球のグラウンドも作られていたという。
 大正5年発行の「東京府豊多摩郡誌」にはこう記されている。

「(前略)明治七年六月陸軍省用地に編入せられ、射垜二箇を設け、(後略)」

 具体的な時期についてはよくわからないが、この土地が陸軍のものとなってから、かなり早い時期に、三角山とライオン山が築かれたことがわかるだろう。

 昭和4年に生まれた加賀乙彦は、少年時代を西大久保で過ごしている。自伝的大河小説「永遠の都」は、戦前の西大久保が描かれた貴重な作品でもある。加賀は、「自伝」の中で「三角山」について語っている。

 「当時、模型飛行機作りが流行っていて-模型といっても、設計図をきちんと描いて作るというけっこう精巧なものでした-、翼は竹ひごごと和紙で作り、真ん中にゴムを入れてプロペラを回す。みんな自分で作った飛行機を持ち寄って、三角山のてっぺんから戸山が原に向けて飛ばして競い合うんです。それから、三角山には大きな穴が開いていて、その穴の奥にはコウモリがいっぱい棲んでいる。夕方になると、コウモリが一斉にその穴に向かって帰ってくる、美しい風景として印象に残っています。」(加賀乙彦『自伝』)

三角山やライオン山の面影を残す戸山公園

 三角山の穴に巣くうのは、コウモリだけでない。学生野球の父として知られる飛田穂洲がこんなことを書いている。

 「土手がいつの間にか崩れて洞穴のやうになったところに、バタヤや宿無しルンペンが天然のホテルを構えている。」(飛田穂洲『野球清談』)

 「バタヤ」も「ルンペン」も、今では死語であろう。バタヤとは、くず拾いで日銭を稼ぐ者を指し、ルンペンというのは、浮浪者のこと。この随筆が書かれた昭和10年代、早稲田大学野球部顧問をしていた穂洲は、よく戸山ヶ原を散策したようだ。

 歴史小説「信長の棺」がベストセラーとなった加藤廣は、昭和5年生まれで高田馬場で育っているが、やはり、三角山で遊んだひとりである。

 「東京府下でも、当時高田馬場から新宿にかけて『戸山ヶ原』と呼ばれる広大な野原が拡がっていた。その中央には、三角山と呼ばれる小山があり、これを中心に、森あり小川ありの文字通りの広大な自然空間だった。
 春には野の花が咲き乱れ、夏には、セミがうるさいほど鳴き、トンボは、シオカラ、ムギワラトンボの順に出てきて無数に飛び交う。時々は、大型のギンヤンマ、鬼ヤンマがやってきては、都会の子供たちを驚喜させた。
 夏休みの終わり頃になると、どっと赤トンボが現れた。それも夕方の空一面を、一時、真っ暗にしてしまうほどに覆って、やがてどこかへ飛んでいった。」(加藤廣『昭和からの伝言』)

 「小川」というのは、大久保通りあたりを水源とする秣川だろう。戸山ヶ原を抜けて、やがて神田川へと注いでいたが、戦後には、もう、その姿はなくなっていた。
 さらに続けて、三角山での体験をつづっている。

 「それまで引っ込み思案で、意気地なしだったボクが、突然、クラスの女の子に目立ちたくなって、(前思春期兆候か)、頂上からの遠足の帰りの下りで飛び出し、一人駆け下りたのである。そこまではまだよかった。が、途中、窪地でツンのめり、アッというまに失神した。目が覚めたのは三十分から一時間ぐらい後の草むらの中だった。」

 屹立する三角山から駆け下りたのだから、無茶である。怪我もなく済んだのだとしたら、幸いだったというべきだろう。

 昭和7年生まれの黒井千次も、幼少年期を大久保で過ごしており、戸山ヶ原を遊び場にしていたと言う。

 「ぼくらの遊び場は、線路の東側であることが多かった。そこには二つの小さな山があったからである。
 一方はたしか長靴山という名前だった。赤土の露出している山の形が長靴を横からみたところに似ていたのだろうか。他方は三角山と名づけられていたように思う。三角形というより梯形に近いこの山は、一面笹におおわれていた。」(黒井千次『父たちの言い分』)

 三角山と並ぶようにそびえていたライオン山には、「長靴山」という別名もあったらしい。

戸山ヶ原の面影を残す戸山公園大久保地区

 三角山について書き残しているのは作家だけではない。昭和12年に出版された「東京市児童標準文集」(東京市国語教育研究会)は、東京の小学生の優秀作文を編んだものだが、その中に、「遠くなったお家」という作文が収められている。小学生の女の子である「私」は、日本橋から大久保に引っ越してくる。新しい家と見知らぬ土地への不安の中、「私」は、姉と、戸山ヶ原へと遊びに行くのである。

 「夕方近くにお姉さんとお山の方へさんぽに行きました。いろいろのお山が夕日に照らされて、とてもとてもきれいでした。そして、廣々とした野原が続いてい居ます。私は思わず『お姉さんあのお山に上りませうよ。』と言いました。
 その次の日から度々その野原に行きました。そこは馬場で馬の足あとがたくさんついて居ました。お姉さんは、始めて見たので『初見山と言ふ名前で呼びませうよ。』と言って居ました。お姉さんは、こんなよいけしきの所に、お友だちを連れて来てあげたらどんなによろこぶだらうと言って居ました。
 その野原は、戸山ヶ原と言って、春になるとタンポポやすみれなどがたくさん咲くのださうです。私は、それがたのしみで早く見たくてたまりません。そのお花の咲くのも、もう間もない事でせう。」(『東京市標準文集』)

 姉妹は「お山」と呼んでいるが、この山が、射撃場の弾除けであることには気づいていないのかもしれない。さらには、「初見山」が、地元の子どもたちからは「三角山」とか「ライオン山」などと呼ばれていることも、もちろん知らなかったのだろう。「お山」のある、面白い地形をした野原だと思っている。それにしても、慣れぬ土地で不安を抱えていた姉妹が、戸山ヶ原の風景に癒やされていく様子が見事に描かれている。姉妹は、その後、戸山ヶ原の春の花々を見ることができたのだろうか。

 小林少年の視点つまり西側から見ると、屋内射撃場は、三角山とライオン山とに隠れているようにも見える。三角山の高さが、10メートルから20メートル、おそらく、「ライオン山」も、それに近い高さがあったはずだ。射撃場は、その高さが8メートルなので、三角山やライオン山の外側から覗き込むことは難しい。

 北原白秋は、昭和6年に出版した「白秋童謡読本」に、「射的場」という詩を書いている。作曲者は、吉川孝一である。

 「あをい草山
  あかい旗
  ほうら、やってる
  音がする
 
  ここは射的場
  朝っから
  誰が射撃に
  来てるやら

  なかは見えない
  高い土手
  きっといるんだ
  兄さんも
  
  雲は湧く湧く
  みなみ風
  づどんづどんと
  音がする」
 (北原白秋『白秋童謡読本』)

 この「射的場」は戸山ヶ原だ。白秋は戸塚や高田馬場に住んでいたことがあり、戸山ヶ原にも馴染みが深かった。「なかは見えない 高い土手」というのは、三角山ではなく、射撃場の三方をぴったりと囲む土塁だろう。三角山やライオン山はその外に築かれていたのだ。南側の土塁は、今もその一部が残っているが、高さはおよそ5.6メートルといったところ。土塁の前に立ってしまうと、確かに、その中を窺うことは難しかっただろう。
 白秋は、満州事変の起きた昭和6年頃から愛国歌謡や戦争詩歌を作り始めたといい、いわゆる戦争協力をしてきた文学者の一人である。この詩も、戸山ヶ原の射的場に鳴り響く銃声に、おそらくは陸軍に入隊し、もしかしたら、土手の中で訓練をしているかもしれない兄に想いを馳せている。銃声は高らかに聴こえるのに、土手が邪魔をし、その姿は見えない。兄への想いは、そのまま兵隊への憧れなのだろう。

今も残る南側の土塁。この土塁越しに兄を思ったのか。

 高い三角山がありながら、小林少年は、「大人国のかまぼこ」を発見してしまった。百人町地区の洋館から覗いた時、平行にずらして築かれた三角山とライオン山の間に、わずかに「大人国のかまぼこ」が覗ける隙間があったのだ。射撃場の周囲には土塁が築かれていたが、高さ8メートルの射撃場を覆い隠すほどの高さではない。射撃場から300メートルほど離れたアジトからであれば、「大人国のかまぼこ」のを目視することに支障はなかったはずだ。少なくとも、その屋根の丸いフォルムはしっかりと確認することができただろう。そして、自分の位置を特定することに成功したのだ。
 濱田氏の鳥瞰図や、当時の航空地図を確認してみても、その位置関係は確認できる。逆に言えば、三角山とライオン山の隙間から射撃場が覗ける場所こそが、アジトの場所である。その場所が数メートルでもずれていたら、小林少年は「大人国のかまぼこ」を見ることはできず、つまり、自分のいる場所が戸山ヶ原であることを特定することはかなわなかっただろう。

 小林少年が「大人国のかまぼこ」を見ていた頃、ひとりの少年が戸山ヶ原に来て、同じ光景を見ている。池波正太郎である。

 「私は子供のころ、友人と共に、高田馬場駅で下りて、陸軍の射撃場を見物しにいったことがある。
⁡ 見わたすかぎりの広い野原に、コンクリートで造ったトンネルのような射撃場がいくつもあって、私たちの好奇をさそった。」(池波正太郎『江戸切絵図散歩』)

 池波は大正15年生まれだ。加賀や加藤よりもやや年上であり、小林少年に、より近い。昭和10年に小学校を卒業すると奉公に出たが、稼いだ金で、東京のいろいろな場所を見て回ったというから、「子供のころ」というのは、その時分だろうか。小林少年が二十面相のアジトから射撃場を見ていたその時、正太郎少年がその視界の中を横切っていたかもしれない。

 前出の黒井千次も、射撃場について書いている。

 「射撃場は戸山が原の東南の一角にあった。分厚いコンクリートで作られた幾つものカマボコ形の建造物が延々と横たわっている。その中で小銃や機関銃の実弾射撃が行われていた。」(『父たちの言い分』)

 さらに、子どもたちはこの射撃場に忍び込んでいたのだという。

 「考えてみれば、しかし危険きわまりない話である。実弾を撃っているところに行って弾を拾ってくるのだから、ひとつ間違えば撃ち殺されてしまう。もちろん、射撃場の区域は立入禁止であり、高い土手で囲まれ、有刺鉄線が張られ、兵隊さんが見廻りに歩いている。それでも、子供達は不思議にするりと中にはいってしまうのだった。射撃の音のしている時はとても近づけはしない。」(『父たちの言い分』)

今では、三角山より高いビルに遮られ、小林少年の視界は遮られてしまうだろう

 陸軍の敷地といっても、思いのほか、管理が甘かったことがわかる。屋内射撃場が完成し、流れ弾の危険がなくなったということもあるだろう。大久保小学校OBを集めて、大久保の歴史をまとめた青柳安彦氏は、黒井千次と同世代と思われるが、「私の戸山ヶ原」というエッセイの中で書いている。

 「周辺には鉄条網が張り巡らされていたが、子供たちは比較的やすやすと射撃場の中に侵入していた。一般人が射撃場に入ることは軍事上、不都合なことではあるが、子供の場合はその不都合よりは子供自身の事故のほうが心配だったのだろう。山番のオヤジに見つかると怒鳴られた。」(『風、光りし大久保(下巻)』2007)

 その一方で、昭和6年に満州事変が起きてからというもの、戦時色は少しずつ深まっていった。子どもたちの間で軍歌が流行りだすのも、この頃だったという。下落合に住んでいた林芙美子は、昭和14年の随筆集「心境と風格」でこんなことを書いている。

 「私は雨漏りがするので、二階から屋根に登ってゆき、大変な格構で、瓦をなほしていたが、ふと、近くの戸山ヶ原で演習をしている、タタタタ・・・と云ふ銃の音を耳にすると、いまもなほ、黄塵の激しい大陸の山野を、黙々と征く兵士や馬の姿をおもひ出して、私は妙に涙が溢れてきて仕方がなかった。」(「事変の想ひ出」)

 昭和12年、芙美子は、「東京日日新聞」(現在の毎日新聞)の従軍作家として陥落したばかりの南京を取材し、昭和13年には、激戦地・漢口にも一番乗りして、陸軍と行動をともにしている。この頃、つまり日中戦争開戦の頃から、赤紙での召集が始まっていたという。白秋と同様、戦争協力をしてきた文学者として名を残す芙美子は、戸山ヶ原から響いてくる銃声から、大陸に出兵している召集兵たちに思いを馳せているのだろう。戸山ヶ原の銃声が、そのまま、日中戦争の戦場に結びついていたのだ。
 


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