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仕事に人をつけるか、人に仕事をつけるか

仕事に人をつけるか、人に仕事をつけるか。

どちらがいいんだろう。

分業化された大きい組織で働くようになってから、考えるようになった。

明確に定義された仕事があってそこに人をつける。米国的なジョブ型の雇用体系の会社では、ジョブディスクリプションが明確になっていて、ジョブ(仕事)に人をつける、という考え方が主流だ。

まず、最初に仕事があって、そこに人をつける。そのためには、仕事内容が標準化されている必要がある。つまり仕事の手順や方法が明確になっていて、その人がいなくなったとしても、他の人が仕事をできる状態でなくてはならない。

人がどんどん入れ替わっていく組織では、標準化しないと職場がカオス化する。特定の人しかできない仕事があるのに、その人が辞めてしまったら、残った人が手探りでなんとかするしかない。属人化は経営としてもリスクなのだ。

ひと昔前の日本では終身雇用で人が辞めない前提の会社がたくさんあった。そういう会社では、総合職として人をとってから、仕事をあてがうというスタイルも可能になる。属人化しても力技でなんとかすることも可能である。

けれども、最近は日本でも人の流動性が高まってきているので、そうも言っていられない。

組織が大きくなると、標準化の力学が働く

組織内の人が少ないほど、標準化の必要性は薄くなる。

極論だけど、1人で運営しているカフェがあったとして、オーナーが自分でコーヒーを入れて接客する。こういう場合、業務の手順を厳密にする必要性はない。自分のやりたいようにやればいい。(まぁコーヒーの作り方くらいは、決めておかないと毎回味が変わって困っちゃうなもどけど)

でも。いざ従業員を雇うとなったら、そうも言っていられない。人が増えたら、やり方を教えなくちゃいけない。1人や2人なら、目が届くから、口頭でやってみせたりして、なんとかなるかもしれないが、もっと人数が増えて店舗が増えてきたりすると、オーナーの目が届かないところでたくさんの人が動くようになる。

人によってバラバラだと、接客や商品の品質を制御できなくなってくる。マニュアル化して、クオリティを一定に保つ仕組みを取り入れていく力学が働きはじめる。

従業員だけではない。経営者ですら、この圧力からは逃れられない。たとえば上場企業の経営者は、状 上場企業の経営者らしく振る舞うことが求められる。株主が求める「お作法」に則らなければ、株価がコントロールできなくなる。結果、起業家は個性的な人も多いが、上場企業の経営者になるとみな似たような出立ちに収斂していく。

とはいえ、みんながマニュアル通りに動いてくれれば、オーナー・株主としても安心だし、品質も安定する。従業員としてもやり方がわかるので、迷わない。

いいことばかりのようにも思える。

標準化に感じる息苦しさ

業務が標準化された環境に飛び込んだら最初は、みんな、マニュアルを習得するために頑張る。なにもないよりは、マニュアルがあるほうがはるかに適応しやすい。マニュアルに則って、頑張れば一定の成果は出るから。

けれども、マニュアルを習得して、一通りのことをこなせるようになってくると、次第に物足りなさを感じるようになってくる。マニュアルはマニュアルでしかない。そこから新しく得るものがなくなって、自分の成長が頭打ちになってしまうのだ。

周りを見渡してみる。そしたら、他の人も同じように作業して、同じような成果を出している。

自分じゃなくてもいいんじゃないか。何か自分にしかできないことはないのか。武器が欲しい。そういうモヤモヤが発生してくる。

Dark Horse(ダークホース)という本で、標準化の本質について言及されている。

標準化の目標は、何よりも生産システムの最大効率化であり、この目標を達成するための最も重要なことは、多様性の排除である。標準化は、一定のプロセス、つまり一定のインプットを同一のアウトプットに(誤差も変動もなく)変換するプロセスを確立することなのだ。  言い方を変えれば、標準化という発想は、「個性的であるのは、問題だ」という考えに基づいているということになる。

自分ならではの個性を活かしたいって欲求はみんなが持っていると思う。けれども、みんな同じような成果を出せるようにするための標準化はそれとは真逆の力学なのである。

本書では、エリートとは「他の人と同じことを、誰よりも上手にやる人」となかなか過激なことを言っているけど、うなずく部分も多い。

たしかにエリートが歩む王道ルートは、標準化されたレールであることが多い。

たとえば、受験勉強。偏差値が高い学校に入るために、他の人と同じ試験でどれだけ高得点がとれるかを競う。会社は大企業に入って、同期のなかで成績を競い合う。成績や年収が高いかどうかが価値判断の基準なのである。

一方で、ダークホース的に成功する人たちは、重視するものは異なる。彼らは人生のいずれかのタイミングで、充足感を追求するという決断をしているとのこと。

彼らがその選択をするとき、富を得る見込みも、自分がいつかその道で成功者になれるかどうかも重視しない。むしろ、自分の個性に合う機会が存在することに着目する。そして、その機会をつかむ。この転機を過ぎると、彼らは一貫して他者の言うことではなく自分自身の思いに忠実な決断を下していく。その後も何度も同じ観点で決断を下しながら、ダークホースたちは例外なく素晴らしいパフォーマンスを身につけるのだ。

彼らは、標準化されたレールのある道ではなくて、レールのない道なき道を進み充実感を追求していった結果、高い成果を残していくのである。

身につけた型をどう活かしていくかが大事

ダークホース的に成果を出せるに越したことはないが、いきなり充足感を目的に頑張っても、うまく成果を出せるかどうかは未知数だ。

一方で、標準化された仕事は正しい努力をすれば、確実に一定の成果を出せるようになる。その過程で、成果を出すための基礎スキルも身についていく。仕事の型を身につけることができるのだ。

おそらくほとんどの人にとっては、まずは型を身につけてから、充足感を感じることに邁進したほうが成功確率は高そうに思う。大事なことは、標準化された環境をうまく使っていくことなんだと思う。

型を身につけることが、スタートライン。そここら、型を活かしてどう仕事をしていくか。

武道や茶道の世界では、守・破・離という考え方がある。

剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。 「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。 「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。 「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。(-コトバンク-

守で型を身につけて、破で応用して、離で自分の型を生み出していく。この破や離の段階に達することができれば、自然と自分だけの仕事ができるようになってくる。

本当の意味で、その人につく仕事になっていくんじゃないかと思う。

いまのような変化の早い時代では、長い時間をかけて守・破・離の段階を踏んでいくというよりは、数年とかの短スパンで守・破・離のサイクルをまわしていくイメージなのかもしれない。

仕事に人をつけることと人に仕事をつけること。どちらにもいい側面があって、うまく使いわけていけるといいなと思う。



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