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自分の意思があるところに「クリエイティビティ」は発揮されるのだと思う

クリエイティビティとは何だろうか。

自分にはクリエイティビティはあるのだろうか。

「創造性」「独創力」と訳されるこの言葉。人間の創造性はどんなときに発揮されるのか。

クリエイティビティについて考えるようになったキッカケは、「自分をいかして生きる」という本を読んでいて、この一節に出会ったことだ。

クリエイティビティー(創造性)とは仕事の内容より、むしろやり方、それに対する姿勢。ひいてはあり方に関するものだと思う

たしかにそうかもしれない。

エンジニアやデザイナー、建築士などの職業はしばしばクリエイティブと言われる。僕自身、エンジニアやデザイナーと共にプロダクトを開発することが多く、いわゆるクリエイティブな仕事をしているのだと思う。とはいえ、日々の仕事で必ずしもクリエイティビティを発揮できているかと言えば、そんなことはない。むしろ発揮できていることの方が稀だ。

似たような内容の仕事をしていても創造性が発揮できることもあれば、まったく発揮できないこともある。その差はどこから生まれるのか。


過去に創造性を発揮できた仕事にはどんな特徴があっただろうか。思い返してみた。共通点として思いあたったのが、「自分の意思の有無」。意思は意見とか想いと言い換えてもいい。

自分はこう思う。もっとこうした方がいいんじゃないか。自分はこうしたい!このような自分の意思の有無だ。内発的な意思には、仕事を方向づける力がある。

過去に意思を持って取り組んだ仕事では、普段以上に創造性を発揮できたと今振り返っても思う。面白いことに成果も出た。

一方で、やらなければならないから仕方なく取り組んだ仕事はひどいものだった。自分の意思はそこに存在しないし、創造性なんてあったものではない。これは、仕事の内容そのものがひといものだったのではなく、自分の取り組み方がひどいものだったということだ。

チームで仕事をする場合でも似たようなことが起こった。チームメンバーの意見が最初から一致していて活発な意見交換が起きないプロジェクトでは、波風立たずにスムーズに進むかわりに、凡庸な成果しか生まれなかった。

むしろ、主観と主観がぶつかりあって進めるのに苦労するようなプロジェクトの方が最終的なアウトプットのクオリティは高いものになることが多い。そこにメンバーの意思が存在するからかもしれない。

電通にはかつて鬼の十則という行動規範があったそうだ。規範の中には、人と人の摩擦について言及しているものがある。

摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

摩擦は面倒くさい。しかし、摩擦が生じるということは、そこに少なくとも当事者間の意思が存在するということでもある。電通のような広告を作るという一種の創造性を求められる仕事だからこそ、このような規範が存在したのかもしれない。

余白の大きい仕事はクリエイティブと呼ばれる

クリエイティブと呼ばれる仕事の特徴は、「余白」が大きいことだと思う。ここでの余白とは、自分の意思を反映する余白だ。

デザイナーがプロダクトをデザインするとき、方向性は決まっていたとしても、具体的にどうようなアウトプットに落とし込むか、そこに正解はない。ある程度自分で考えて捻りださなければならない領域が存在する。その領域においては、自分の意思を反映させやすい。

とはいえ、自分の意思を反映することは、一部の仕事をしている人の特権領域なのか、と言われればそういうわけでもない。あらゆる仕事で、自分の意思を反映する余白は存在する。

例えば、カフェで仕事をしていたとして、お客さんとどのように接するかは本人が自由に決めることができる。有名なのはスターバックスの接客。スタッフが一人ひとりが考えて行動することに定評がある。カップにメッセージを書いてくれたり、お客さんの服装を褒めてくれて感動した…というような声がSNS上でも散見される。

教師をしていたとしよう。指導のカリキュラムは学校に定められている。しかし、それをどう教えるか、肉付けするか、子ども達とどう対話するかは、その人次第なところがある。ひとえに教師と言っても千差万別の生徒との接し方があるのだ。どんな先生になるかはその人の次第なのだ。

一方で、クリエイティブと呼ばれる仕事をしている人でも、スキルや知識はあるが、まったく自分の意思がないような人もいる。

どんな仕事をしていても創造性を発揮する余地はあるし、たくさんの余白を抱えているのにまったく創造性を発揮しない人もいる。

「何をやっているか」よりも「どのように取り組んでいるか」がクリエイティビティを発揮する上では、重要なことなのだろう。それは、その人の価値観や生き方を反映したものでもある。

クリエイティブ・コンフィデンスの必要性

HELLO,DESIGN 日本人とデザイン」という本の中で、クリエイティブ・コンフィデンスという概念が紹介されている。クリエイティブ・コンフィデンスとは、自分の創造性・主観に対する自信という意味だ。

創造性を発揮するためには、自分の創造性に対する自信を持つことが最も大切であるということをデザインファームのIDEOが提唱している。

こと仕事ということになると、自分の主観に自信をなくしてしまう人がとても多い。僕もその一人。

アドビの2016年の調査によると、世界のクリエイティブな国ランキングで、日本が1位だったそうだ。海外からの評価がとても高い。

一方で、自分の国をクリエイティブだと思いますか?という質問に対して、「そう思う」と回答したひとの割合は41%で、日本が最下位だった。海外からの高評価とは裏腹に、自己評価が極端に低いのも日本の特徴だ。

しかも、この自己の創造性に対する過小評価の傾向は加速しているのではなかろうか。そう思えてならないのだ。

インターネットが普及したことによって、手軽に正解っぽいものを手に入れるようになった。いまYouTubeを開いたら、いろいろなジャンルの知識やノウハウを学ぶことができる。スキルや知識を身につけるハードルは格段に下がっている。

けれども、身につけたスキルを使うことにやっきになっている人、身につけた知識を披露したい人もたくさん生まれている。武器を手に入れたら使いたくなるのが、人間の性。

自己満足で終わっていればそれでもかまわないのだけど、それを振り回して他人に押し付けることすら起こっているように思う。

Twitterでは、人と違う意見を表明した人が袋叩きにされている光景を日常的に見かけるようになった。リプライ欄を覗いてみると、おぞましいほどの正解にあふれている。

ある種の正解主義が蔓延しているのだ。彼らは言っていることは間違っていないのかもしれない。けれども、あまりに正解を求めるあまり、そこには曖昧さを許容しない非寛容が横たわっているように思える。

このような雰囲気のなかで、自分の考えていること、本当に思っていることを口に出すことはとても怖い。批判されるかもしれない。と自分の意見を引っ込めてしまう。

さきほど自分の意思を持つこと、自分の主観に自信を持つことが重要だと述べたが、その自信は失われていくばかりではなかろうか。

どんなにスキルや知識があろうと、自分の意見を持たぬものに創造性は発揮できない。誰でも手に入れることができる正解から生まれるものなんて、たかが知れている。その正解は、みんなが知っているのだから。

むしろ曖昧さを許容して、自分の主観に自信を持ち、他者の主観を尊重する。そんな姿勢が、正解が溢れているいまだからこそ必要なのではなかろうか。

そのような姿勢から、クリエイティビティは発揮されるのだと、ぼくは信じたい。

文章・画像
おかしょう(TwitterInstagram)


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