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気づけばずいぶん遠いところまで来てしまった 『時をかけるゆとり』

朝井リョウさん著『時をかけるゆとり』を読んだ。彼の大学時代のエピソードを元にしたエッセイだ。

朝井さんの作品は、直木賞を受賞した『何者』を読んだことがあった。就活をテーマにした小説なのだけど、これが結構シニカルな内容。だから、今回のエッセイも皮肉を含んだ内容なのかなと思いきや、大学生「あるある」な笑える話の連続で、かなり読みやすかった。

朝井さんとは年齢が近く、ほぼ同学年ではなかろうか。エッセイで出てくるのはもちろん彼のエピソードなのだけど、自分の話かなと思うくらい似ているものもあった。同じ年頃の大学生がやることなんて、似たりよったりなのかもしれない。

東京〜京都まで自転車で旅をしたり、大学の授業に間違えって出席してしまったり、変なおじさんに絡まれたり…。旅行では基本予約をしないし、計画も立てずに島に行く。なんとかなる精神のかたまりだ。

改めて思った。大学生って基本的にアホなのだ。でも同時にちょっと羨ましくもある。あ〜もう一回大学生やりたい、という感情が心の底からドバドバと湧いてくる。

大学生の頃の僕は、すべてのことにワクワクしていたこれから何が起こるのだろう?といつも目を輝かせていた。今ならわかる。それは「知らない」からこそ生じる期待感なのだ。しかもちょっと過剰な期待だ。

僕はいま、20代後半で社会に出て5〜6年が経過した。お金も少し貯まり、大学生のときに憧れたこと、たとえば好きな国に旅行に行くだとか、高級お寿司屋さんに行くだとか、欲しい車を買うだとか、やろうと思えばほとんどできると思う(今は欲していないけど)。

社会人になってから、僕は「できる」「知っている」という状態を作るために必死に奔走してきた。いまもその途上にいる。大学生だった頃の自分と比べると、あらゆる点で成長できたし、今の生活にも満足している。

でも、一方で「できる」「知っている」のコレクションが増えれば増えるほど、目の前のことにワクワクしたり、興奮したりする機会も減っている。結果が予想できて、過剰な期待が起きないからだ。

大学生の頃の「知らない」「できない」という状態は、いい加減で、ちょっとアホなんだけど、あらゆることに過剰な期待ができるという点で特権的存在でもあったのだと思う。

そこにはどんなことをしても戻ることはできない。社会人と学生の間には大きな分断があるのだ。

朝井さん自身も小説家でありつつ就職活動をされたみたいだけど、就職にまつわる洞察が面白い。

就活とはきっと、形を変えて現代日本に現れた新たな通過儀礼の形なのだ。自分と社会の間にある溝を、ここで飛び越えなければならないのだ。そのために、初めて未熟な自分と真正面から向き合ったり、触れたことのない世界に生きる人と知り合ったり、夢を諦めなければならなかったりするのだろう。
今まで自分が何をしてきたか、を分析することにより、これから自分が何をしたいのか、を見つける。自分という人間が、社会という大きな舞台の上でどのように機能するのか。今までずっと何かに守られて生きてきた僕らに、就活は、はじめて現実を叩きつけてくれる。

特権的存在から「何者」かになる第一歩を踏み出す、それが就活というものなのだ。一旦、その通過儀礼を済ませば、あとはどこまでもどこまでも遠くに走り続けるしかない。自分の可能性のカードを1枚ずつ捨てながら、残った可能性のカードを握りしめて確固たるものしていくのだ。

5〜6年程度しか経ってないのに、大学生だった自分はかなり遠い存在のようにも感じる。たった数年だけど全力で走ってきたからだ。見えないところまで行ってしまう前に、振り返れる機会が持ててよかった気がする。

このエッセイは、ゆとり世代の人なら、共感できる内容がたくさんだと思う。もう1回大学生やりてぇ〜とノスタルジーに浸りたい人は読んでみてほしい。たまには、後ろを振り返るのも悪くない。


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