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明智光秀伝~本能寺の変に至る派閥力学~中編

おはようございます。アルキメデス岡本です。

さて、現在放送中の「麒麟がくる」が残すところ1話となってきました。この大河ドラマは今まで見てきた中でもトップクラスのクオリティで非常に面白いです。

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なんと言っても、日本の歴史上最大の謎である「本能寺の変」を描いているからです。織田信長の家臣である明智光秀がどのような理由で織田信長を討ったのか?

これまで様々な説が研究者の間で語られてきましたが、このドラマではどのような説を選択するのか注目が集まっています。

そこで今回は、麒麟がくる43話のあらすじを追いながら、本能寺の変に至る派閥力学~中編を解説します。

■本能寺の変とは

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件である。

■明智光秀は丹波を平定する

天正7年(1579年)夏、光秀はついに八上城と黒井城を攻め落とし、丹波を平定する。光秀は敵将の命は取らずに信長の元に送る。

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安土城にて、織田信長は光秀と細川藤考の丹波攻めの功績を称える。なんと信長はその祝いの証として光秀が命を助けたはずの敵将の首の塩漬けを見せ付ける。

これには光秀も藤考も目を背けてしまう。

さらに信長は本願寺攻めが進まない佐久間信盛と毛利に手を焼いている羽柴秀吉を叱責する。

■頼りにするべき者は

その後、信長は帝・正親町天皇から東宮への譲位すらも強引に進めようとする。もはや自分の思い通りにならない帝など不要だからだ。そして、光秀と藤考をその責任者に命じる。

光秀、藤考、秀吉も信長のやり方には「やりすぎである」と感じ、何よりも東宮本人の気が進んでいなかった。だが、その思いは虚しくその年の11月、東宮は二条の新しい御所へと移って行った。

今は亡き三条西実澄の館にて、藤考は伊呂波太夫、近衛前久と共に信長の行為について相談する。前久も信長の行為はいき過ぎだと感じていたが、金のない朝廷に援助をしてもらった手前、強くは言い出せないでいた。

伊呂波太夫も「武士や公家だけではなく、民衆、皆がよい世と思わなければ」とし信長に嫌悪感を抱いていた。

そして、藤考と前久共にこの状況で頼りになるのは光秀としていた。

■光る大樹を切る夢

天正8年(1580年)4月、本願寺が陥落し5年以上に渡る戦いに終止符が打たれた。ところがその直後、信長は本願寺攻めの総大将であった信盛を追放してしまう。

光秀は毎晩のように奇妙な夢にうなされる様になる。暗闇で光り輝く、月にまで届きそうな大樹を切り倒す夢だ。

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その年の夏、光秀は京の市中での用事のついでに東庵の元に顔を出す。東庵によると信長の正室・帰蝶も最近、目の治療で京に来ているとのこと。

光秀は駒と会い、最近よく見る例の夢について話す。

月にまで届く大きな光る大樹がある
その大樹を信長様が登っていく
月に登ったものは2度と帰れなくなるという言い伝えがある
自分はそれを阻止するために大樹を切り倒そうとする
むろん切れば信長様の命はない
それが分かっているのに自分は止められない
嫌な夢じゃ


■帰蝶は斎藤道三として答える

その後、光秀は帰蝶の元へ向かう。そこには今井宗久もおり、茶を淹れてくれた。

帰蝶は夕暮れになると目がかすんでジタバタするようになったと言う。そして、父であり若き光秀が仕えていた斎藤道三もジタバタしながら生きていたと今の自分と重ねる。

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光秀はそんな帰蝶が昔から道三と瓜二つであったとした上で聞きたいことがあった。帰蝶は「父に成り代わって答えよう」と微笑む。

宗久が席を外した後、光秀は尋ねる。

光秀「道三様なら今の信長様をどうなされましょう。」

帰蝶「毒を盛る、信長様に。」

「胸は痛むが父ならば、それで光秀の道が開かれるのならば迷わずそうする。」

帰蝶は悲しくも決意したかのように答える。さらに続ける。

帰蝶「昔、信長の元に嫁に行けと言ったのは父。」

「本当は止めて欲しかったが、そなたはそう言わなかった。」

「今の信長様を作ったのは父であり、そなたなのじゃ。」

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「万、つくった者が始末をなすほかあるまい。」

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「間違いは正さなくてはならぬ。それが父の答えじゃ。」

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■家康は光秀に饗応を頼む

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天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍は武田信玄の子・勝頼を討ち取り、武田家は滅亡した。

徳川家康は信長に祝勝の挨拶にやってくる。その後、家康は光秀と2人で話をする。

信長の言うとおり、自分の妻と嫡男は武田と通じていた
信長の命で切り捨てたが、その前に自分で始末をつけるべきであった

さらに家康は光秀に「戦がないようにするために国をどう治めるべきか」と問いかける。

光秀は「己の国が豊かならば他国から奪う必要はありませぬ。作物の実りや人の使い方を正しく把握すること(地検)から始めてみては」と答える。

別れ際、家康は「今度開かれる宴の饗応を光秀殿にぜひお願いしたい」と頼む。家康にとってまだまだ信長は怖い存在だった。

それを信長の側近である森蘭丸が聞いており、信長に報告する。

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信長「何ゆえ、光秀に頼む。家康め、嫡男を切れと命じたことをまだ根に持っていたか」

■宴の席の大事件

1582年5月、家康の希望通り光秀が饗応として準備を進めていた宴が開かれる日がやってきた。

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ところが信長は直前になって「宴の最中の饗応は他の者にし、光秀は秀吉と合流して毛利攻めを進めよ」と命じる。光秀は「家康様に頼まれたことなので」と引き下がり、今日の1日は饗応をすることになる。

移動の途中、信長は家康と楽しそうに談笑する光秀を睨みつける。

宴の最中、信長は突然「料理の数が少ない」と怒り出してしまう。家康はなだめようとするが、「これではわしの面目が立たん!!」と取り替えるように命じる。

光秀は慌てて取り下げようとするが、汁を溢して信長の着物にかけてしまう。

「ご無礼を…」と光秀が謝る暇もなく、信長は「下がれ!!」と激怒し光秀を足蹴りにしてしまう。

頭の中に月に届く大樹を切り落とす場面が浮かび、光秀は信長のことを殺意が宿った目で睨みつけてしまうのだった。

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■本能寺の変に至る派閥力学~

前回のおさらいになるが、宿老が率いる派閥とは、どのようなものか。藤田さんは、派閥を構成する5つの要素を掲げている。

(1)婿(養子)や嫁として迎えた天下人(信長)の子供や一門。
(2) 子供の嫁ぎ先・養子先をはじめとする親類大名。
(3) 名字を授けて一族関係を形成する重臣。
(4) 政権から与力として付けられた大名。
(5) 政権への取次関係にある外様大名。

こうした「要素」を少しでも多く手中に収めた部将が、織田家の宿老として大をなしたということになる。

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光秀は、娘のひとりを信長の甥にあたる津田信澄(信勝の子)に嫁がせていた。これが(1)にあたる。

そして、荒木村重の息子・村次にも嫁がせていて、これが(2)に相当する。もちろん、娘の玉子(ガラシャ)を嫁がせた細川忠興も (2) 。重臣の明智秀満・明智光忠・藤田行政・斎藤利三・三沢秀次が(3)となろう。

光秀には天正8年(1580)段階で丹後(京都府)の細川氏と一色氏が(4)の与力として預けられ、その後に大和の筒井順慶も与力とされている。

そして(5)に該当するのが、土佐(高知県)の長宗我部氏ということになる。

天正3年(1575)から天正7年にかけて丹波平定を成し遂げた光秀は、その途中、畿内の各地での合戦にも動員され、転戦を繰り返した。そして天正6年には四国の戦国大名・長宗我部氏と織田政権とを結ぶ取次に任じられた。

同年、光秀は自らの甥で、織田家中の同僚である稲葉一鉄に仕えていた斎藤利三を引き抜いて、明智家中の重臣とした。当然、稲葉家との間にトラブルが生じ、信長からも厳しい処断を下されそうになるが、信長近習(側近)の猪子兵介の取り成しで危地を脱している。

光秀が利三をスカウトしたのは、もちろん利三が優れた武将だったからだが、もう一つ理由があった。利三の兄頼辰は、土佐に下った幕府奉公衆の石谷光政の養子となっていた。光政の娘婿は、長宗我部元親だ。また、利三の妹の夫・蜷川親長は幕府政所執事だったが、当時はやはり土佐に下り、長宗我部元親のブレインとなっていたのだ。

つまり、斎藤利三を家中に引き込んだのは、長宗我部家とのパイプを太くし、四国取次としての地位を確かなものとするためだったのだ。その結果、光秀は織田家の宿老として頂点に上り詰めることができたというのが、藤田さんの見立てだ。

光秀の派閥は、すでに(1)~(5)の要素を完備し、その領地・人脈などあらゆる点で織田家中の最大規模となっていた。つまり光秀は、秀吉よりもずっと早くに、筆頭宿老というべき地位に至っていたのだ。

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これに対し、秀吉はどうだったか。

軽輩出身の秀吉は、尾張(愛知県)、美濃国(岐阜県)、そして近江(滋賀県)へと、主君信長に従って本拠を移すたびに、それぞれの土地で家臣を増やしていった。そして近江の長浜城主となった段階で、家臣団の整備が進んだ。

先ほどの(1)から(5)に即してみてみよう。

秀吉は、信長の五男・秀勝(於次秀勝)を養子としていた。これが(1)。この段階の秀吉には実子がいないので(2)はなし。名字を授けて一族化した家臣も、まだいない。

(4)の与力とされた大名は蜂須賀正勝と黒田官兵衛(孝高、後の如水)が挙げられる。

(5)となると、備前国(岡山県)の宇喜多直家と、河内(大阪府)を本拠に淡路(兵庫県)・阿波(徳島県)の奪還をめざす三好康長が挙げられる。

こうして光秀と秀吉がそれぞれ形成した「派閥」を比べてみると、身分や文化・教養の面では光秀グループが上を行くが、秀吉グループもそれなりの人材を抱えていたことがわかる。

藤田さんは、こうした派閥は、宿老たちが「生き残る」ために生み出されたと考える。信長の天下統一が最終段階を迎え、政権の専制化が進んだ結果、信長の子息はじめとする一族や近習らが重視・重用されるようになる。

すると、従来の重臣層は彼らに取って代わられる危険にさらされる。わずかな失敗が命取りとなり、失脚を余儀なくされるかもしれない。実際、佐久間信盛のような筆頭家老に相当する重臣でさえ、信長の不興をかい追放の憂き目にあっている。光秀や秀吉などの宿老たちは、生き残りをかけて派閥を拡大し、政権内での発言力を増さなければならなかったのだ。

織田政権において、光秀と秀吉の派閥は、最大規模となっていた。光秀は失脚した佐久間に代わって丹波・丹後・山城・大和の四カ国の諸大名の上位に位置する宿老となり、さらに長宗我部氏との取次に任じられることで、中国・四国、そして九州へと手を広げる織田政権の西国政策において、中心的な立場に立つことになった。

■まとめ

・信長の鬼畜ぶりと、天皇をも支配下に置こうとする暴走が加速し、臣下の間でも信長への不信が強まっていった。

・齋藤道三の娘、帰蝶は信長の暴走を阻止すべきと光秀に助言する。光る樹の夢にうなされた光秀は、かつての齋藤道三と同じく、誤りを正さなくてならないと悟る。

・家康を招いた宴で光秀は信長のパワハラにあう。光秀と家康の親密ぶりに嫉妬した信長の横暴は、ここでも止まる事はなかった。光秀の中で何かが変わった瞬間だった。

・織田政権の専制化が進み、光秀や秀吉など宿老の地位は、信長の子息をはじめとする一族や近習らにとって代わろうとしていた。

・光秀と秀吉の派閥抗争は歯列を極めていた。この抗争が本能寺の変へと繋がっていった事が最新の研究で明らかになった。

■ジェダイの騎士、明智光秀

光秀は信長と共に大きな国を目指したが、信長は権力の魔力に取り憑かれだんだんと変わっていってしまいました。

周りの家臣達や帰蝶までもその暴走ぶりを嘆き、それを阻止できるのは光秀しかいないと周りの期待が高まっていきました。

信長はスター・ウォーズで言うところの、ダークサイド堕ちてしまった感じですね。

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暗黒面に堕ちた織田信長を、ジェダイの騎士、明智光秀が"麒麟"というフォースで討ち取るというのが、「本能寺の変」と言っても過言ではないですね。

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齋藤道三は光秀の最初の主君であり、道を示したオビワン・ケノービといったところか。

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共に大きな国を目指した2人であったが、フォースの使い道を何処かで間違ってしまった。暗黒面に堕ちた信長とジェダイの騎士として、その後始末をする事を覚悟していく、光秀の心理描写が見事でした。

今までの定説であった謀反人、明智光秀という人物像を覆した麒麟がくる。

400年の時を経て、新たな明智光秀へと生まれ変わる。


そして、最後の決戦を迎える。。。

つづく



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