シン・日曜美術館『深読み 夏目漱石の坊っちゃん』⑯
前回はコチラ
1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋 りうていの間
それでは第二章の続きを見ていこう。
いよいよ坊っちゃんの初出勤の日だ。
逗留先の山城屋を出た坊っちゃんは、前日に人力車が通った道を辿りながら中学校へ向かった。
「四つ角を二三度曲がったらすぐ門の前へ出た」と漱石は書いている。
漱石はやけに数字にこだわるよな。
「四つ角を二三度曲がったら」とか、そんな情報は別になくてもいいのに。
確かにそうだな。
中学校の門を入ったところで前日のことを回想するのだが、これも別に必要があるとは思えん。
きのうこの敷石の上を車でがらがらと通った時は、無暗(むやみ)に仰山(ぎょうさん)な音がするので少し弱った。
坊っちゃんが困ったと語る「敷石の音」は、別に何の伏線にもなっていなかったもんな…
この「敷石」が何かの事件に絡むわけでも何でもない…
漱石は、なぜこんなことを書いたんだろう?
わからん。しかし何か意味が隠されているんだろう。
この世に意味のないことなどないからな。
そうだね。この世に意味のないことなど…
どうした?
誰だろう、あの人…
あの人?
ほら、クリス君の後ろ…
さっきから入口に、知らない外人さんが立ってる…
は?
・・・・・・
uh... Mr...?
Is there something wrong?
・・・・・・
クリス君、キミのことを見てるよ。
知り合い?
いや… 僕の知人にこんな人はいないが…
Ah... May I ask who you are?
Could I ask your name?
キョッチュネー…
きょっちゅねー?
それを言うなら「ちょっちゅねー」だろ。
まったくふざけた奴だなあ!
Ma tu chi saresti?
まつち? 待乳山のことか?
そうじゃない岡江君。
「マトゥチ・サレスティ」とは「ところで君はどなた?」という意味だ。
これはイタリア語だよ。
イタリア語?
ここは日本だ。日本語を喋れっつーの!
こ、こら岡江君、失礼だぞ…
Un ragazzo giapponese?
そ、そうです!彼はニッポンの少年なんです…
外国語が不自由なだけで悪気はないので許してやってください。
Come mai ti trovi qua?
米、撒いて、とろ火か?
そうじゃない。
「コメマイテ・トロヴィクァ」とは「一体何でここにいるんだ?」という意味だ。
何でここにいる?
それはこっちのセリフだよ。
まったく夢みたいなこと抜かしやがって!
Un sogno?
いえ、その…
このニッポンの少年が言った「夢みたいなこと」というのは、特に深い意味があるわけではなく…
彼は江戸っ子で口が悪くて…
Fermo lì! Non muoverti!
や、やるのか!? ようし、そっちがその気なら…
待て岡江君!
彼は「ここでストップ!動かないでくれ!」と言っているんだ…
ここでストップ? なぜ?
ニン…
ん? なんか出したぞ…
あれは… 大黒天の壱円札?
むしゃむしゃ… むしゃむしゃ…
マジかよこいつ!? お札を食ってるぞ!
これは、いったい…
むしゃむしゃむしゃ…
全部食う気だ… 真顔で怖過ぎるって…
・・・・・・
ゴクリ…
全部飲み込みやがった… キモっ…
あー… えー… おっほん…
すまなかった。どうやら部屋を間違えたようだ。
に、日本語を喋った!
どうなってんだ?
「ほんやくコンニャク」かよ…
こんにゃく?
「ほんやくコンニャク」を知らないのか?
藤子不二雄の漫画『ドラえもん』の秘密道具だよ。
これを食べると、あらゆる言葉が自動的に翻訳されて口から出てくるんだ。
コンニャクを… こんにゃに食う?
は?
そうか!わかったぞ!
えっ? 何が?
坊っちゃんの時代に流通していた大黒天の壱円札と五円札だよ!
さっき僕たちが見ていた『日本のお金の歴史』に書いてあったんだ!
書いてあったって、何がさ?
ブルーのインキが硫黄やアンモニアと反応して変色してしまうから、温泉地では嫌われていたんだよな?
大黒天の紙幣にまつわるトラブルは、それだけではなかったのだ…
そもそも、なぜ大黒様が「ブルー」になったのか、知ってるか?
大黒様が青い理由? さあ、何だろう…
ニッポンの少年よ。それはネズミです。
ねずみ?
その通り!
あの紙幣の大黒様は、ネズミに齧られて青くなったんだよ!
ネズミに齧られて青くなった?
それは『ドラえもん』だろう?『ドラえもん』のパクリか?
逆だ!
「ネズミに耳を齧られてドラえもんが青くなった」という話の方が、大黒天の紙幣を元ネタにしたものなんだよ!
坊っちゃんが青春時代をおくった明治二十年代、人々はこんな噂をしていた…
「ネズミに耳を齧られて大黒様が青くなった」と…
よく見たまえ、大黒様の足元を!
えっ? ネズミがいる…
どうして?
米俵に乗る大黒天は、無尽蔵の富を生みだす「打出の小槌」を持った、とてもとても有り難い存在です…
そしてその富は、特定の人物が独占するものではなく、下々の者まで全てが恩恵に授かるという意味合いで、ネズミが描かれました…
しかし、まさか…
そのネズミが、富を生む大黒様を齧ってしまうとは…
ネズミが大黒様を齧ってしまった?
何だよ、それ…
まるで生きているようだったという、名人「左甚五郎」の彫ったネズミじゃないんだから…
嘘みたいな話だが、これは本当に起きた出来事だ。
しかしこの話にはカラクリがある。
「ネズミに齧られた大黒様」のトリックを、君は見破れるかな?
カラクリ? トリック?
当たり前だ。絵の中のネズミが本当に大黒様を齧るわけがないだろう。
そんなのはオカルトやホラーの世界の話だ。
何が何だかサッパリわからない。いったいどういうこと?
原因は「コンニャク」です。
こんにゃく?
大黒天の壱円札と五円札は「コンニャク」で出来ていたんだよ。
だからネズミに齧られてしまったんだ。
お札がコンニャクで? どういうこと?
当時の日本の製紙技術は繊細な和紙に特化していて、繰り返し何度も何度も折り畳まれる紙幣には不向きだったんだ…
そこで明治政府は、紙幣の弾力性を高めるために「コンニャク」を入れることにした…
しかしそれが仇となり、ブルーの大黒天の紙幣は、腹を空かしたネズミたちによって齧られ放題になってしまう…
これが「ネズミに耳を齧られて青くなった大黒様」のカラクリだ。
そういうことか…
それにしても、コンニャク入りのお札って、びっくりだな…
駄菓子で「食べられるお金」ってあるけど、まさか昔は本当に食べられたとは…
私もビックリしました。
ところで、あなたは?
ああ。申し遅れました。
私はキヨッソーネと申します。
キヨッソーネ?
もしや、あのキヨッソーネ先生?
きょっちゅねー。
なんてこった…
僕の目の前に、あのキヨッソーネ先生がいるなんて…
きっとこれは夢だ… 僕の夢の中の話なんだ…
クリス君、この変なおじさんのことを知ってたの?
変なおじさんとは何だ!口を慎しみたまえ!
キヨッソーネ先生は、僕の憧れの存在なんだぞ!
君の憧れ? なぜ?
君は本当に知らないのか!
深読み妄想アーキテクトの第一人者、キヨッソーネ先生を!
深読み妄想アーキテクト? なんだいそれ?
「もう、そうとしか思えない」ような妄想を設計するプロフェッショナル、アーティストだよ!
キヨッソーネ先生の手にかかれば、人は妄想としか思えないようなことでも「もう、そうとしか思えない」と感じてしまう…
深読み妄想アーキテクトは、偽りのアイデアを人々の脳内に植え付け、いつの間にかそれを事実だったと思わせてしまうのだ!
妄想としか思えないことが、もうそうとしか思えなくなる?
そんなことが有り得るのか?
じゃあ聞くが…
これは誰だ?
源頼朝でしょ?
じゃあ、これは?
足利尊氏だよね?
ハハハハ!この二つの肖像画は源頼朝と足利尊氏ではない!
君たち日本人は、別人が描かれた肖像画を、ずっと本人だと思い込まされていたんだよ!
ええっ? そんなことあるもんか!
ではニッポンの少年よ。これは誰だ?
これは誰がどう見ても西郷隆盛ですよ。
鎌倉や室町時代なら騙されるかもしれないけど、さすがに明治時代の人を別人にすり替えることは出来ないだろう…
残念ながら、あの肖像画も…
西郷隆盛本人のものではない…
ええっ!?だって上野公園の銅像もこの顔だろ?
西郷隆盛の未亡人 糸さんは、あの銅像の除幕式で「西郷隆盛」の顔を見た瞬間、こう叫んだそうだ…
「うちの旦那さんは、こげな人じゃなか!」
西郷さんは、あの顔じゃなかったの?
嘘だろ…
ほぼすべての日本人が、あの西郷隆盛の肖像画を「もう、そうとしか思えない」と当たり前のように考えていた…
しかしそれは巧妙に植え付けられた妄想、偽りのアイデア…
妄想は美しい夢だ。設計家は夢に形を与えるのだ。
はい!その通りだと思います!
妄想で大切なのはセンスだ。
センスは時代を先駆ける。技術はその後についてくるんだ。
はい!肝に銘じております!
クリス君とやら…
創造的人生の持ち時間は10年だ。芸術家も設計家も同じだ。
君の10年を、力を尽くして生きなさい。
キヨッソーネ先生… うっうっ…
泣くなよクリス君…
ほら、ハンカチ…
ニッポンの少年よ…
はい。
君は、ピラミッドがある世界と無い世界、どちらの方を選ぶのかね?
は?
妄想は現実逃避の道具でも金儲けの手立てでもない。
妄想は「もう、そうとしか思えない」から妄想なのだ。
これを、ゆめゆめ忘れるではないぞ。
は、はい…
それでは君たち、長々と邪魔したな。私はこれで失礼させてもらう。
またいつか会おう。
はい!キヨッソーネ先生!
夢は便利だ。どこへでも行ける…
御達者で!
行ったか…
それにしても、いったい何だったんだろう?
そもそも、なぜここに?
ああ、信じられない…
夢にまで見たキヨッソーネ先生と、同じ空間で同じ空気を吸っていたなんて…
なんだか身体がふわふわ舞い上がってしまいそうだ…
僕はこのまま白い雲になって、空に昇って行ってしまうんじゃないだろうか…
大袈裟だな、まったく。
さあ『坊っちゃん』の続きに戻ろうぜ。
やっと中学校の先生たちが登場して、坊っちゃんが「あだ名」を付ける場面だぞ…
うむ。重要なシーンだな…
ミス・キマタもそう言っていた…
まず坊っちゃんが向かった先は校長室…
「狸」の御出ましだ…
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?