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シン・日曜美術館『ジブリの耳をすませば』~転~「児童自由画展覧会」


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2019年 7月 フランス
アルザス地方 コルマール



RESTAURANT JAPONAIS NAGOYA
日本料理レストラン ナゴヤ




Tausend und Tausend Dank…

それでは始めましょう…

産みの苦しみの中で山本鼎とクレパスが過ごした、揺れていた時代と、熱い風の話を…




1916年(大正5)の夏、4年間のパリ留学を終えた画家 山本鼎(やまもとかなえ)は、シベリア鉄道で帰国する途中、モスクワに立ち寄った。

そして「児童創造展覧会」と「農民美術蒐集館」を見て衝撃を受ける。

それは文豪トルストイの思想から生まれた芸術の原点回帰運動ともいえるもので、「絵を描く・創作する」という行為の原点である感情の発露と自由な精神にあふれていた。

で、その後は?


Yamamoto Kanae
(1882 - 1946)


東京へ戻った山本鼎は、日本創作版画協会を立ち上げ、自身の創作版画を発表する傍ら、自由画教育運動と農民美術運動の準備を始めます。

そして実際に教育現場を訪問して回り、これまで日本で行われて来た「図画教育」の実態を改めて目の当たりにし、強いショックを受けました。

もちろん鼎も小学生時代は図画の時間に同じことをしていたのですが、当時はそれを当たり前だと思い、何も疑問に思っていませんでした。

しかしモスクワで「児童創造展覧会」を見た後では、日本で行われている図画教育が極めて異様な姿に見えたのですね。


異様な姿に見えた?

いったい当時の日本の学校では、アートの時間にどんな授業が行われていたのですか?


「絵」を描いていたのです。


絵を描いていた?

当たり前だろ。ふざけてんのか?


カリー・オストロさんは、ふざけているのではありませんよ、Leonard(レオナール)…


なに? どういうことなんだ、マダム・キマタ?


当時の図画の時間は、本当に「絵」を描いていたのです…

子供たちが実際の風景や人物などの被写体を自分の目で見ながら描くのではなく…

手本の「絵」を見ながら、それとそっくり同じものを描いていたのですね…


実際の被写体を見て絵を描くのではなく、手本の絵をそっくりそのまま絵に描く?

「木を見て森を見ず」どころか「木も森も見ずに、木や森が描かれた手本の絵を真似て絵を描く」ってことか?


なんだか「習字」みたいだな…

線の形や角度や強弱が決まっていて、正しい手本を見ながら同じように書く練習をする「習字」の話みたいだ…



うまい喩えを出してくれてどうもありがとう、Jean-Paul O'Cahiermont(ジャン=ポール・オカエモン)君。 

まさにその通りなんです。

当時の日本の図画教育は、習字の「字」が「絵」に置き換わっただけのもの、「習絵」でした。


ありえねえ…

なぜ当時の日本は、こんな馬鹿げた絵画教育をしていたんだ?


そいつは単純な理由さ。

社会に必要とされていた人材を育成するためだ。

国家とか民族とか大資本とか、そういうくだらないスポンサーのために…


ちょ… まて… そ、その顔は!?


はい? 私の顔がどうかしましたか?


あれ? 確かに今、爺さんの顔が豚に…


そんなわけないだろ。君の見間違いだよ、レオナール。

いつも下らない妄想ばかりしているから、そんなものが見えたんだ。


バウッ!バウッ!


おかしいなあ…

マダム・キマタも見ただろ? 今、爺さんの顔が豚に…


すみません。あいにく余所見をしてたものですから。

しかし…


しかし? 何だ?


じゅうぶん有り得ることだと思います…

カリー・オストロさんの「まこと」の姿が、あなたの中で心象風景として映ったのだとすれば…


爺さんの「まこと」の姿? 心象風景?


はっはっは。さすがはマダム。

モノゴトの道理というものをよくわかってらっしゃる。

まさにわたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明ですからね。

あらゆる透明な幽霊の複合体とも言えるでしょう。


ふふふ…

いかにも、たしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明ですわ…


この年寄りどもは、何を言ってんだ?


国家とか民族とか大資本とかがくだらないものなのかは正直わかりませんが…

社会に必要とされていた人材を育成するために模写の図画教育をしていたというのは、どういうことなのでしょう?


長らく鎖国政策をしていた日本は、19世紀中頃に欧米列強の圧力によって開国することになり、大慌てをしました。

日本が中世の頃と変わらぬ暮らしをしている間に、欧米社会は政治・経済・軍事・科学・文化などあらゆる面で近代化を成し遂げ、強大な力を得ていたからです。

明治維新を経て誕生した新政府は、生き馬の目を抜く熾烈な国際情勢の中で生き残ってゆくために、急いで日本の近代化を図りました。

欧米列強に追いつけ追い越せを合言葉に、富国強兵を推し進めていったのです。

その中心政策となったのが「工業化」、それまでの家内制手工業から工場制手工業への転換でした…


なるほど。そういうことか。

工場で何かを作るために必要な人材というわけですね。


その通り。

まだ普通選挙など無かった時代、国民は大きく分けて2つに分かれていました。

選挙権をもつ特権階級や資本家と、選挙権をもたない一般労働者です。

工場や鉱山などで働く労働者は、黙々と仕事に打ち込むことが美徳とされ、社会の歯車になることが求められていました。

まさに『銀河鉄道999』の「ねじ」のように…



そういうことか…

自分の意思とか独創的なアイデアなんか必要ねえ…

求められるのは、与えられた場所で、決められたことだけを、文句ひとつ言わずにキッチリやる歯車みたいな労働力…


工場では特にそれが求められました。

見本と同じものを、正確に、大量生産しなければなりませんでしたから。

当時の小学校における「手本の模写」を中心とした図画教育は、その初歩訓練みたいな役割を担っていたというわけですね。


しかし、モスクワで子供たちが自由に描いた絵を見た山本鼎には、その光景がとても歪んだものに見えました。

自由で溌溂とした線、鮮やかな色彩、独創的な構図、モスクワで感動した全ての要素が欠けていたのです。

当時の日本はとても貧しく、多くの学校では色鉛筆や絵の具が十分に行き渡ってはいませんでした。

なので、日本の子供たちの描いていた絵は、本当に「習字みたいな絵」だったわけですね。

そして鼎は、ついに行動に出ます。

1919年(大正8)、医師となった父親が開業していた信州の神川で、児童自由画運動をスタートさせるのです…


神田川?


神田川ではなく神川です。

現在の長野県上田市、かつては小県(ちいさがた)郡と呼ばれた地域に流れている神川(かんがわ)沿いの神川小学校で、鼎は児童自由画運動と農民美術運動を始めたのです。



こんな田舎から?

日本の経済や文化の中心、東京から始めればいいのに。


東京には、僅かながらですが、子供たちに自由に絵を描かせる学校はあったのですよ。

もちろん庶民の子が行けるような学校ではありませんでしたが。

しかし田舎にはそのような学校すらありませんでした。

だから鼎は都会の学校でやらずに田舎で始めたのだと思います。

ロシアでこの運動を広めた文豪トルストイのように。


なるほど。確かにそうですね。


それに、信州というところは、とても素晴らしい土地です。

厳しくも美しい自然、山々に沿って、そして川の流れに沿って育まれて来た人々の暮らし、谷ごとに異なる多種多様な文化…

学生時代に人形劇の巡業や登山で信州を旅した私は、すっかり魅了されてしまいました。

あまりに信州が好き過ぎて、息子を留学させたくらいです。


息子さんを信州に留学させたんですか?

親子二代で日本好きなんですね。


・・・・・


どうかしましたか、マダム?


いいえ、何でもありません。

よいところで学生時代を過ごされたのですね、息子さんは…


ええ。不肖の息子ですが。はっはっは。


爺さんの家族の話なんてどうでもいい。クレパスの話を進めてくれ。


はっはっは。そうでした。これは失敬。

山本鼎の熱意は、神川の教師や父兄たちを動かしました。

そして1919年(大正8)の4月末、神川小学校で第1回児童自由画展覧会が開かれます。

お手本を正確に模写した絵を評価するのではなく、子供たちが実際に自分の目で見たもの、耳で聴いたもの、そして肌で感じたものを表現した絵を評価するという試みは、大きな反響を呼びました。

デッサンが狂っていたり、光の当たり方、影のつき方などが変だったり、遠近法が間違っていても、それをマイナス点としない…

むしろそこにリアリズムがあり、その絵を描きたいと思わせた「大切な何か」が表出している…

この第1回児童自由画展覧会が新聞で取り上げられ、鼎は他の地域の学校に招かれるようになり、精力的に講演や実演指導を行いました。

そして秋には第2回の展覧会が行われ、児童自由画が長野県内で大きなムーヴメントになっていったのです。


すげえじゃねえか、たまえ。


「たまえ」ではなく「かなえ」です。


で、いつになったらクレパスが出て来るんだ?


そう慌てなさんな。あと9年ですから。


まだ9年もあるのかよ…


翌年の1920年(大正9)、鼎にひとつの転機が訪れます。

「赤い鳥」のメンバーになったのです。


赤い鳥?



フォークロック・グループ「赤い鳥」のメンバーではありません。

児童文学誌「赤い鳥」のメンバーです。


児童文学誌の「赤い鳥」?

もしかして、芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、高浜虚子、北原白秋、谷崎潤一郎、菊池寛、西條八十など、当時の日本文学界を代表する大物作家たちが寄稿したという、伝説の児童文学誌のことですか?


その通りです。

自由と民主化を求める大正デモクラシーの熱い風を受けて、作家の鈴木三重吉が始めた児童文学の自由化運動「赤い鳥」…

勧善懲悪、信賞必罰、滅私奉公、親孝行など、大人目線の教訓や道徳めいた物語ばかりだったそれまでの童話を、自由な発想と夢や空想にあふれたものにする…

児童自由画運動の文芸版とも言えるこの「赤い鳥」で、鼎はレギュラーページを持つことになったのです。



児童文学誌「赤い鳥」の売りの1つは児童の投稿コーナーでした。

自分の書いた詩が有名作家たちと同じ雑誌に掲載されることは、子供たちにとって大変なモチベーションになったからです。

そんな「赤い鳥」に児童自由画のコーナーが出来ると、鼎は全国の子供たちにこんなメッセージを発信します。


「目に見えるものや、見てきたものや、話にきいたものや、考えたものをたくさん描いて、お友達と展覧会遊びをし給え」


そして父兄や教師たちにも、こんなメッセージを送ります。


「彼らの目にとまる自然、心にとまる自然、心に浮かぶ空想を、自由な技法で表現する習慣に導いて下さいまし」


なんだか、グッと来ますね…


すると日本中の子供たちから、たくさんの絵が送られてきました。

鼎は選者として寸評を書き、子供たちに様々な助言やアドバイスを与え、児童自由画は一気に全国的なムーヴメントになります。

こうして鼎は、神川と神田川を、忙しく往復することになったのです…


神田川? 今度は確かに「神田川」と言ったよな?


ええ。

日本の児童文学に熱い風を巻き起こした「赤い鳥運動」の拠点は、鈴木三重吉の住居を兼ねた「赤い鳥社」でした。

その「赤い鳥社」は、神田川の北岸、北豊島郡の旧高田村にあったのです。



高田って… 喜多條忠の『神田川』の舞台、そして爺さんが留学していた学習院大学があるところじゃねえか!


そうですよ。

鈴木三重吉の「赤い鳥社」があった旧高田村は、日本における児童文学の聖地。

だから私は学習院大学に留学し、子供たちを相手に夢のあるお芝居を見せる人形劇サークルに入ったのです。

世界各地で学生たちが立ち上がり、熱い風が吹いていたあの時代に、もう一度「赤い鳥運動」を起こそうと…


そうだったのかい、爺さん…


しかし結局は、世の中どころか自分のことすら、何ひとつ変えられませんでしたがね…

ああ、さらば神田川の自由と放埓の日々よ…


その詩は鈴木三重吉?


私です。


・・・・・


先程から様子が変ですね、マダム…

何か気になることでも?


カリー・オストロさん…

もしや、あなたの名前は…


私の名前?

はっはっは。ふざけた名前でしょう?

子供の頃は「カリが西向きゃ尾はオストロ」って散々バカにされたもんです。


確かに「Austro(オストロ)」はゲルマン諸語で「東」だけど、いくら子供とはいえバカにするなんて酷いなあ。


オストロさんの綴りは、東を意味する「Austro」ではありません。

「Ostro」です。


・・・・・


Ostro?


「Ostro」とは、イタリア語で「南風・熱風」のこと…

北アフリカのサハラ砂漠で温められた空気は地中海を越え、アドリア海沿岸へ熱い風「オストロ」となって吹き込んでくる…



これって… どこかで聞いたような…


おいおいおいおい。

爺さんの名前が東だろうが南だろうが西北だろうが、そんなことはどうでもいいだろ?

大事なのはクレパスの話だ。

誕生までまだ8年もあるんだから、無駄話はやめてくれ。


そうだった。ごめん、レオナール…


で、伝説の児童文学誌「赤い鳥」で児童自由画コーナーを始めた鼎は、それからどうなったんだ?


「赤い鳥」を通じて急速に児童自由画運動に広まり、日本各地で展覧会が開かれるようになりました。

鼎も出来るだけ展覧会へ足を運ぼうとしましたが、もうそれも出来なくなってしまうほど、全国へ広まっていったのです。

当時は、飛行機も、新幹線も、高速道路も、ありませんでしたからね。

今なら2時間半で行ける東京大阪間も、この頃は12時間以上かかりました。


嬉しい悲鳴だな。で、それからどうした?


そして翌年の1921年(大正10)、信州神川にあった鼎のアトリエに、ひとりの人物がやって来ました。

鼎よりも4つ年下で、当時三十代半ばだったその人物の名は…

佐武林蔵(さたけりんぞう)…


Satake Rinzo
(1886-1968)


また変なジジイが出て来たな。

なにもんだ?


この年に東京でベンチャー企業を立ち上げたばかりの青年社長…

後にサクラクレパスと呼ばれることになる会社の創業者です。


キターーーーーーっ!


あれ? 計算が合わない…

クレパス誕生までは、あと7年ありますよね?


その通り。

ここからが本番、つまり、今までの話は序章に過ぎないということです。


はっ? まだ序章だと?


揺れていた時代の熱い風は、ここから本格的に吹き荒れるのです…

私の話に耳を傾け、体中で瞬間(とき)を感じてください…



à suivre

つ づ く




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