シン・日曜美術館『ジブリの耳をすませば』~転~「続・二十四色のクレパス」
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2019年 7月 フランス
アルザス地方 コルマール
RESTAURANT JAPONAIS NAGOYA
日本料理レストラン ナゴヤ
レオナール… ここはカリー・オストロさんの話を聞こうよ…
きっと『神田川』に係わる重要な話なんだ…
その通りです。
『神田川』を本当に理解するためには、「クレパス」の理解が不可欠なのです。
わ、わかったよ…
さあ始めてくれ。
1916年(大正5)の夏、パリでの留学生活を終え、シベリア鉄道に乗り込んだひとりの日本人がいました…
その名は、山本鼎(やまもとかなえ)…
Yamamoto Kanae
(1882 - 1946)
何者だ? その山本たまえってのは?
「たまえ」ではなく「かなえ」です。
すまんすまん。新幹線と間違えた。
新幹線は「のぞみ・ひかり・こだま」。
あなたが間違えたのは三姉妹の「のぞみ・かなえ・たまえ」です。
三姉妹? やけに長女は年が離れてるんですね。
画面左で踊っているのは長女ではありません。
母親です。
母親? 本番中なのに長女の「のぞみ」はどこに?
これだよ、これ。
ああ、なるほど。一服しに席を外してたのか。
君と違って偉いね。マナーを守って、ちゃんと外で吸うなんて。
「一服」だけじゃねえんだな。
ニャンニャンもだ。
猫? 外で猫と戯れてたのか?
まあ、そういうことだ。
それ以来、あの家から「のぞみ」は消えた。
ええっ!?それじゃあパンドラの箱の逆じゃないか!
『Pandora(パンドーラ)』
John William Waterhouse(ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス)
うまいこと言うじゃねえか。
まさに消えた「のぞみ」とは「エルピス」、パンドラの箱の逆だ。
長女は外へタバコを吸いに行ったまま帰って来なかった…
家出? それとも何者かに拉致されたとか?
萩本家の三姉妹については、もうそのへんにしましょう。
今は山本鼎の話です。
あ、そうでした…
それにしても、男性の名前で「鼎(かなえ)」って変わってますね。
漢字も変わってる。
わらべ以降「かなえ=女性の名前」となってしまいましたが、元々は男性につけられていた名前です。
ちなみに「鼎」という漢字は、古代中国で使われていた「神への生贄の肉を入れて祭壇に祀り祈願を行う土器」を表したもの。
あの表面、なんか『天空の城ラピュタ』のタイトル画みてえだな。
そして、生贄の血を入れる鼎は、こんな形。
これはずいぶんと変ちくりんな土器だ。
しかしこの形、何かに似ているような気もする…
何だろうな…
わかった!
『風の谷のナウシカ』の「テト」だ!
なるほど! 確かに!
はっはっは。素晴らしい発想力です。
それにしても、なぜ「鼎」は三本足なんだろう?
「テト」だけにテトラポッドと関係あるのかな…
古代中国において「3」は神聖な数と考えられていました。
なぜなら「神」は「天地人(天皇・地皇・人皇)の3つの姿をもつ」とされていたからです。
神は3つの姿をもつから、生贄を捧げた鼎も3本足…
つまり山本鼎も「3」の子、三男だったから鼎なのですか?
いいえ。山本鼎は長男です。
ではなぜ「3」を意味する「鼎」と名付けられたのでしょう?
おそらく「三河」の「三」ですね…
ミカワ? 愛知県の尾張じゃない方の三河ですか?
山本鼎は三河の国、愛知県額田郡岡崎の生まれです。
マダムが言ったように、三河の「三」で「鼎」は十分考えられますね。
同じく愛知県の半田にルーツをもつ尾崎家の兄弟の名前が、徳川家康(三河)の「康」と豊臣秀吉(尾張)の「豊」だったように。
なるほど。説得力があるな。
1882(明治15)年に三河岡崎で生まれた山本鼎は、幼少期の頃、漢方医だった父が森静夫(森鴎外の父)のもとで西洋医学を学ぶことになり、家族そろって東京へ引っ越しました。
そして、手先が器用で絵が好きだった鼎少年は、十歳で木版工房へ奉公に行き、彫師(版画職人)になるため九年間の修行生活を送ります。
すごい。山本鼎は浮世絵師だったのですか。
彫師とは、絵師が描いた絵を版木に彫る専門の職人。
だから、世間で名前が知られて芸術家と見做される絵師とは違い、あくまで技術者、裏方の存在です。
北斎、広重、歌麿、写楽など天才絵師の名前は知ってても、その絵を彫った彫師の名前は知らないでしょう?
なるほど確かに。版画は分業制なのですね。
アニメーションと同じだな。
天才アニメ作家 宮崎駿の名前は誰でも知ってるが、宮崎駿が描いた絵をアニメーションにするアニメーターたちの名前までは知らない。
せいぜい知ってるのはチーフアニメーターや作画監督、その後に独り立ちして有名になった細田守や庵野秀明や近藤喜文の名前くらいだ。
その通りです。
当時の版画の世界はアニメのスタジオのように、絵を描く絵師、絵をもとに版木を彫る彫師、その版木を紙に刷る摺師による完全分業制でした。
なので鼎も奉公が明けると報知新聞社へ彫師として就職します。
新聞に載せる絵を彫る仕事ですね。
しかし、与えられた絵を彫り続ける職人生活に満足できなくなった鼎は、同世代の彫師仲間と西洋版画の勉強会を行うようになり、西洋芸術を本格的に勉強する決意をします。
そして東京美術学校(現・東京藝術大学)を受験し、西洋画科選科に入学。日本における西洋画の大家、黒田清輝に指導を受けました。
すごい行動力だ… 絵や表現に対する強い想いが伝わって来る…
西洋絵画を勉強したことは、鼎の版画に大きな変化をもたらしました。
そして 1904年(明治37)、文芸誌『明星』7号で発表した1枚の創作版画によって、山本鼎の名は広く知られるようになります。
『漁夫』山本 鼎
『明星』って、あの与謝野晶子と鉄幹の『明星』か?
その通り。
これをきっかけに山本鼎と与謝野夫妻は仲良くなり、8年後のほぼ同時期にパリへ渡ることになります。
シベリア鉄道でフランス入りした晶子が「ああ皐月 仏蘭西の野は 火の色す 君も雛罌粟 われも雛罌粟」を詠んだ 1912年(明治45)に…
『Les Coquelicots(アルジャントゥイユのひなげし)』
Claude Monet(クロード・モネ)
コクリコ…
この『紺色のうねりが』という歌は本当に名曲ですね。
何と言っても歌詞が素晴らしい。
Wunderbar!Wunderbar!
バウッ!バウッ!
ウンダバーウンダバーうるせえな、まったく。
確か『紺色のうねりが』は、宮沢賢治の有名な詩『生徒諸君に寄せる』を、宮崎駿・吾朗親子がアレンジしたものなんだよな?
『耳をすませば』の『カントリー・ロード』みたいに。
そうです。作者に無断でアレンジしました。
・・・・・
どうしましたか、マダム?
いえ… ちょっと気になっただけ…
何でもありませんわ…
鼎のパリ留学はどうだったのですか?
様々な文化人・著名人、未来の大画家たちと交流をもったりしたのでしょうか…
残念ながら山本鼎のパリ留学は、あまりパッとしたものにはなりませんでした。
エコール・デ・ボザール(パリ国立高等美術学校)での成績は、とても低いものだったといいます。
そもそも鼎が西洋画を学び始めたのは二十歳を過ぎてからですし、強力なスポンサーやパトロンがいたわけではないので、とてもじゃありませんが世界中からやって来る天才の卵たちに敵うはずがありません。
己の限界と挫折感に打ちひしがれた鼎は、第一次世界大戦の長期化による政情不安定もあり、1916年(大正5)に帰国することを決めました。
ひとりシベリア鉄道に乗って…
やっと振り出しに辿り着いたな。
ここからどう「二十四色のクレパス」につながるんだ?
モスクワで途中下車した山本鼎は、在ロシア日本大使館の総領事・平田知夫のもとに滞在し、気分転換を兼ねて様々な芸術関連施設を訪問しました。
その中で山本鼎は2つの場所に衝撃を受けます。
それは「児童創造展覧会」と「農民美術蒐集館」…
超一流の画家たちが集う芸術の都パリでは目にすることのなかった、名も無き子供たちと農民たちの手による芸術作品に、鼎は強い感動を覚えたのです。
「児童創造展覧会」と「農民美術蒐集館」?
この2つは19世紀後半に文豪トルストイが始めた運動がきっかけとなってロシア各地に広まったものでした。
長らくロシアでは農民の多くが農奴と呼ばれる状況に置かれ、貧しい暮らしを強いられてきました。
トルストイは、これが農民の無知・世界への無関心・諦めから来るものだと考え、彼らの主体性を導き出すため、アートを使って知的創造の喜びや楽しさを教えます。
そして、それまでの上意下達・暗記型の学校教育を疑問視し、子供たちの自発的・創造的な教育を目指したトルストイは、自らが設立した学校で独自の絵画教育を始めました。
それは、対象物を正確に描くことを目的としたものではなく、子供たちが感じたことを直感的に絵で表現するというもの。
何気なしに2つの展示会場を訪れた鼎は、絵の「お勉強」をしていない子供たちと農民たちによる、固定観念に囚われない純粋で自由な筆遣いと色彩に、強い感動を覚えたのです。
なるほど…
山本鼎は、一流の芸術家になろうと、東京とパリの一流の美術学校に入り、一生懸命努力したけど、力及ばずに挫折した…
しかし、偶然立ち寄った辺境の地モスクワで、思いがけずアートの原点に触れ、目からウロコが落ちたというわけですね…
そして日本へ帰った山本鼎は、誰でも簡単に絵が描ける画材クレパスを作った…
そして喜多條忠(きたじょうまこと)が『神田川』で「二十四色のクレパス買って」と嘘をついた…
そういうことだな?
いいえ。
クレパスが誕生するのは、さらに12年の歳月を経なければなりません…
日本が、文字通り「激動」した熱い時代を経て、「まこと」の画材クレパスは産声をあげるのです…
おいおいおいおい!
まだここから12年もかかるのか!?
いけませんか?
当たり前だろ、俺たちは忙しいんだ!
これで終わり、これで終わりと言いながら、ちっとも終わらねえじゃねえか…
これじゃあ「終わり詐欺」だぜ…
名古屋だけに。
何か言ったか?
いいえ、何も。
もうランチタイムはとっくに終わってます…
こうして僕たちがずっと居座ってたら、この店の迷惑になるのでは…
いいんですよ。一日中ここに居てもいいんです。
コーヒーを一杯で一日。
コーヒーを一杯で一日居座るって…
さすがにそれはいくら何でも迷惑過ぎると思います。
ここは私の馴染みの店なので心配は無用です。
DieuChamp Rizière(デュシャン・リヴィエール)料理長とは、古い付き合いですからね。
ただ唯一、あの写真を飾っていることだけは気に入りませんが…
園丁をしてた頃の爺さんが映っている、たった一枚残った写真だったな。
ふふふ。
それに、あなたたちは聞きたくないのですか?
時には昔の話を。
わりーね、わりーね、わりーね・でーとりっひ。
もう昔の話は腹いっぱいだわ。
何だい、その「わりーね、わりーね、わりーね何とか」って?
お前、知らないのか?
日本のコメディアン小松政夫のギャグだよ。
「わりーね(悪いね)」と「マレーネ・デートリッヒ」の駄洒落だ。
そういうあなただって、じゅうぶん昔の話をしていますよね、レオナール…
「わらべ」とか「小松政夫」とか…
仕方ねえだろ。
俺は『欽どこ』と『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』で育ったんだ。
生まれて初めて買ってもらったレコードも『電線音頭』だったしな…
何だこれ? 電信柱と人間が融合したスーパーヒーロー?
彼の名はデンセンマン。
電信柱というより、もっと大きな鉄塔と人間が融合したものだな。
前から気になってたんだけどさ、Leonard(レオナール)…
君は本当にフランス生まれのフランス育ちなのかい?
やけに日本の古いアニメやテレビ番組に詳し過ぎる…
お前さんだって人のコト言えねえだろ、Jean-Paul O'Cahiermont ジャン=ポール・オカエモン)よ。
バウッ!バウッ!
何だよカール。うるせえな。
あなたたち…
揺れていた時代の熱い風に吹かれて、体中で瞬間(とき)を感じませんか?
カリー・オストロさんの語る昔の話に耳を傾けながら…
そうだね。そうしよう。
ったく… わかったよ…
もう好きなだけしてくれ、揺れていた時代やら、熱い風の話を…
Tausend und Tausend Dank…
それでは始めましょう…
産みの苦しみの中で山本鼎とクレパスが過ごした、揺れていた時代と、熱い風の話を…
à suivre
つ づ く
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