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複文化なアイデンティティーを持つお父さんの話

マコトさんはベルリン(ドイツ)に住む、日本人のお父さん。ドイツ人の奥さんを持ち、子供は 合計5 人いる(最初のファミリーの 2 人と ニ番目のファミリーの 3 人)。日本からベルリンに越してきて 20 年以上経つ。子供の頃にドイツで暮らした経験から、ドイツと日本の文化・マインドが共存するアイデンティティを持つマコトさんに、マコトさんと子供たちにとっての日本語や日本の文化との関わりについて話を聞いた。

子供の頃にドイツで暮らした5年間

家庭の言語と社会の言語

1970年代後半のこと。マコトさんのお父さんは当時、ドイツで神学を研究するために、家族を連れてドイツへ来た。その時マコトさんは 5 歳。

1970年代後半のミュンヘン。マコトさんは逆立ちをしようとしている男の子。

ドイツの一般の幼稚園に入れられて、「浮き輪なしにプールに放り込まれるような経験」をする。溺れないようにひたすらバタバタもがいてドイツ語を身につけ、そのうち兄弟・妹喧嘩もドイツ語でするようになる。その時に起きていたことを、マコトさんは次のように分析している。

「普通に日本に生まれ育って大きくなると気がつかないことだと思いますが、家庭内の言語と社会で使われる言語が違う場合、どちらの言語が強いかというと、親の方針や子供の年齢にもよるけれど、社会の言語の方が強いと思います。それはなぜなのだろうかと僕はよく考えるのですが、思うに、実は言語というのはそもそも家族を超えていくところに大きな力を持っている。子供は生存という意味ではもちろん両親に依存し、基本的な欲求は両親に満たしてもらっているけれども、幼稚園の友達や学校の同級生のように、家族を超えた社会関係の中でサバイバルしていくことが大事になっていく。そのときに頼りになるのは社会の言語、同級生の言語なんですよね。だから、家庭というものは社会に取り囲まれていて、社会側の言語が家庭の中に流入してくるというだけの単純な話ではなく、子供自身の中に、社会側の言語を話したいというインセンティブがすごくある。家庭外の社会で自分を確立していくのは子供の一つの自然な歩みで、その欲求は年齢が上がれば上がるほど強くなっていく。僕がドイツにいたのは 5 歳から 10 歳の間でしたけど、やっぱり社会側の言語、つまりは同級生や学校の言語が大きな意味を持ち、だから兄弟・妹の間もそのうちにドイツ語になっていったということが起きたんだと思います。」

一方、日本語に関しては週に 1、2 回の日本語補習校での授業と、さらに「トレーニングペーパー(トレペ)」という教材をお母さんに課されていた。補習校の宿題やトレペの中でも特に作文が苦痛だったというマコトさん。

「今でも覚えているのですが、作文はこんな感じでした。『いまぼくは作文をかいています。』書くことが思い浮かばないということですね。人間の思考は言語と結びついていて、日本語で書こうとすると日本語で考えなければいけない、
そういう状態だったと思います。」

小学校に上がった頃。

日本に帰るよ

待ち受けていた辛い現実

小学4年。ドイツ生活最後の 1 年はベルリンで過ごした。とても楽しく居心地もよく、この時の良い思い出が、後にまたベルリンに戻ることにつながっている。「日本に帰るよ」と両親に言われて、帰る先の記憶は全くなかったけれど、ものすごく楽しみにしていた。ところが、帰った先の三重県で小学 5 年生のクラスに編入したマコトさんは、勉強にも、学校の友達に受け入れてもらうのにも苦労した。男子は黒の制服と丸刈りが主流だった学校で、髪は長髪、ジーンズをはき、ドイツのカラフルなランドセルを背負ったマコトさんは、異質な存在として初日からいじめられた。しばらくすると日本のやり方にも慣れ、知恵も身につけ、同級生にも受け入れられるようになるが、その過程で自尊心はズタズタに傷つけられ、ありのままの自分を否定することで、「日本で生きる自分」が成り立つようになっていった。

「今になって思うと、大人になった僕がそこに行きたくなるんです。そこに行って、10 歳だったときの僕に寄り添って、『そのままでいいんだよ』と言ってガードしてあげたいという気持ちになります。それはなぜかというと、親にそれができなかったし、自分でも、自分はありのままでいいんだとその当時は思えなかった。それくらいの年齢の子どもにとっては、周りの子どもに受け入れられるというのは至上の重要性を持っていて、受け入れられない=自分が悪い、ということになってしまうのだと思うんです。そこにお兄さんやお姉さん、親が気づいて、『これまで僕らはドイツにいて、違った風に社会化されてきたわけだから、当然価値観も違うし、色々ぶつかるのもしょうがない。日本のやり方をこれから覚えていくことはもちろん大事だけれども、誠は誠らしさをそのまま持っていていいんだ。それは僕たちが守ってあげるから。』と言ってくれていれば、僕も自尊心をキープしつつ日本のいろんな習慣に慣れていくこともできたと思います。でもそうじゃなかった。それは多分、日本で生まれ育った親にしてみれば、自然な世界なんですよね、日本の世界が。だから子供たちが文化的な違いによってこんなに傷ついて、大変な思いをするなんて想像できなかったんだと思うんです。それで、子供もいじめられたり自尊心を傷つけられたりする経験をしても、それを親に言わない、というパターンが結構あると思うんですけど、僕も親には自分からはほとんど言わなかった。そうすると親も知りようがないので、ある意味悲劇的な、親の知らない子供の苦しみ、というのが生まれてしまう。僕も非常に苦しみました。結局、本当の僕であった僕を封じ込める、ということになってしまったんです。」

自分にとっての未来はドイツに戻ること


かつてドイツ語を話し、友達と一緒に楽しく過ごしていたありし日の自分を瓶詰めにしてしまうと、今度はかえって、ドイツでの思い出が重要になり、特別な輝きを帯びてくる。それはいつしか「昔に戻りたい。ドイツに戻りたい。」というオブセッションと言えるほどの強い願望に変わっていった。

「特に大学生の頃は、周りのみんなは当然のこととして将来のことを考えていたのに、自分だけ全然そうじゃなかった。昔に戻りたい、ということを
ずっと考えている。封じ込めてしまった自分を取り戻したい、もう一度生き返らせたいという気持ちがすごく大きかったんだと思います。」

何としてでもドイツに戻ろうと決め、ドイツ語とドイツ文学を勉強。奨学金をもらってやっと戻れた時には、マコトさん 29 歳。既に結婚して 2 歳と 4 歳の子供がいた。ドイツに戻ると決めていたので(まだ行けるかどうかわからない時から)東京で生まれた子供たちにはドイツ語で話しかけて準備をしていた。そして渡独が決まった時には、妻もドイツで仕事を見つけ、家族みんなで引っ越した。周囲の言語がドイツ語になったので、自分の拙いドイツ語を子供たちに教えなければならない重荷を解かれた気持ちになった。とはいえ、アメリカ人の妻は子供たちとは英語を話し、周りは完璧にドイツ語、今までドイツ語で話していた自分が今度は日本語に切り替えたりしたら三言語になってしまう。それでは子供には負担が大きすぎるだろうと思ったマコトさんはドイツ語のままで続けた。子供達を日本語補習校に行かせることもなかった。

日本語とのねじれた関係

マコトさんの心の深いところでは、日本語といえばドイツで半ば強制的に継承させられ(補習校の宿題、漢字練習、作文、九九!)、日本では挫折感(初期は漢字テスト0点!)と拒絶の象徴のように残ってしまっていた。また、日本で生活していくうちにドイツ語が薄れてしまったことに対し、ある種の被害者意識を持って受け止めていた。

「僕にとって日本語というのは、両親と家族の言語であり、ナチュラルな自分の一部でもあるのに、何か強制されたもの、半ばコロニアルなもののような感じがありました。『コロニアル』なんておかしな表現ですよね。全然フィットしていない。どうしてそんな感覚を持つようになったか。日本に戻ったばかりの頃の僕は、自己表現の言葉としてのドイツ語をまだ覚えていたけれども、数年して僕はドイツ語をすっかり忘れてしまった。それを大学生になった頃、僕は『日本語によってドイツ語が駆逐された』と解釈してしまった。その頃、小説を書こうと思って日本語でたくさんの文章を書いていたし、また詩も書いていた。日本語はすごく自分の心に近いところにある言葉でありながら、「『本当の自分』を象徴するドイツ語をかつて日本語が無理やり押しのけた」という思いから生じてしまった。」

このねじれた関係のせいで、のちにドイツへ行ってからも自分の子供に日本語を教えることに対して無意識にブレーキが働いてしまったのかもしれない、とマコトさんは今分析している。

子どもがお父さんに感銘を受ける経験

マイノリティーがマイノリティーじゃない社会空間との出会い

初めは日本語補習校には通わせていなかった子供たちをそのうち通わせるようになる。そのきっかけは、近所に住んでいた補習校の理事だった人の誘いで行った運動会。徒競走リレーに参加して大活躍するお父さんを見て、子供たちがすごく喜んだ。「お父さん、すごい!速い!」とお父さんを見直しているのがわかった。

「当時のベルリンではアジアからの人は少なかったし、体格的にもアジアの男性は小柄だから存在感も小さい、見た目も白人じゃないから存在が明らかにマイノリティー。そのために軽んじられてしまう場面は色々あって、それを子供たちも目にしてきた。そういう時には子供は子供で傷つくし、嫌だと思うし、親も子供にそういう思いをさせているのを気の毒に思うというのがあった。で、日本人がやっている運動会に行って、そこには日系の人しか集まっていなくて、そこでお父さんが水を得た魚のように日本語でみんなと話をしていて、しかもリレー走らせたら速いじゃん、という。」

お父さんの見た目が他の人と違うということは子供たちも意識していた。
学校へ送っていく時に日本語を使ったりすると、子供から「恥ずかしいからやめて」、「シー」って言われたりして、自分の親の持っている、日本語を話す日本人であるという差異、自分もそれを受け継いでいるところの差異が、子供たちにはポジティブには受け入れられていなかったことを感じていた。というよりむしろ、それがまるで隠すべきことであるかのように。
マコトさん自身も子供の頃に、鏡を見て自分の顔が友達の顔とは違うことに気づいた瞬間、残念な感じに思ったのを覚えているという。だからこそ、
補習校の運動会という空間に子供たちと一緒にいたことに意義を感じ、
こういう社会的空間があることを、自分と同じような子供たちが他にもいることを知ってほしいという思いから補習校に通わせることにした。

2番目のファミリー

自分は日本語を話す日本人である、というアイデンティティー

ベルリンへ来てほどなく最初の妻とは離婚し、ドイツ人の妻との間に作った 2 番目のファミリーでは、初めから子供たちと日本語で話し、日本語補習校にも通わせたいと思った。それは奥さんが子供たちにドイツ語を伝える役割を受け持ってくれるからというだけでなく、マコトさん自身が、日本語を話す日本人であるというアイデンティティーを自覚し直し始めたから。

「最初のファミリーはアメリカ人の妻と日本で作った家族で、日本の中でマイノリティーだった。そのマイノリティーさを大事にした。ノンジャパニーズな要素をとにかく周りの大多数の日本人社会から守ることにすごく使命感を感じていました。それがドイツに来た瞬間にその努力が不要になって肩の荷が降りたわけなんだけれども、こちらでは今度は問題意識が逆になって、どの国から来ていようが社会の一員として受け入れるというのが社会としてあるべき姿だ、という考え方を強く持った。たとえば、どこから来たんだとか、どうしてそんなにドイツ語が上手なんだと聞くドイツ人は失礼だと、バックグラウンドなんてどうでも良いだろうって思っていました。あなたはどこから来たんですかって聞く前に、あなたの名前はなんですかって聞くべきだろうって。だからそこで自分の日本人らしさ、つまり差異を大事にすることよりも、ドイツの社会の一員として受け入れられるために、つまり差異をなくす方向に頑張った。そのために自分の持っている日本の要素をおろそかにすることになってしまったかもしれません。2 番目のファミリーを持った時には、問題意識はあまり変わっていなかったけれど、ありのままの自分、日本人である部分の自分をありのままに生きたいという気持ちが、何度も日本に帰ったりしているうちにだんだんと戻ってきたのかもしれませんね。」

日本人的な要素は自然に感染(うつ)る


子供たちを日本語補習校に通わせる以外、日本文化イベントなどに特に積極的に参加させているわけでもないマコトさん。日本人である要素を自然に生きながら子どもと接していれば、それは自然に感染(うつ)ると思っている。と言いながら、家の中で日本の要素を意識して説明したり、体験させたり、考えながら接している様子がうかがえる。

「アホだな」(愛情表現)

ドイツ語的な発想からすると、人の知能を低く言うことは本人の自尊心を傷つけるので絶対に言わないです。まして自分の子供に向かってお前はバカだっていうのは、親としては最低みたいなもの。でも日本の「アホだな」と言うのは愛情表現の 1 つだから普通に使っています。ドイツ語的な
世界には置き換えられなくても、愛情が伝わっているのはわかっているので。子どもの側もそれを頭の中でドイツ語に翻訳してショックを受けるなんてことはないです。

「手や体を動かす」(頭でっかちvs身体感覚)

料理も一緒に作ったりしますけど、あとは手を使ってすることに巻き込んであげるのも 1つの継承の道だなと思っています。こっちってやっぱり
頭でっかちで、頭の方がえらい、抽象的なことの方がえらいみたいなところがあって、僕はそれはすごく間違っていると思っています。手を動かしたり体を動かしたりする感覚っていうのは、優れて日本人的な感覚だと思っていて、それは継承させたいなと思っています。雑巾掛けを嫌がるんじゃないよってね。そりゃあ、掃除機かける方が楽かもしれないけど、こうやって拭くといいんだよ、なんて頭から入るんじゃなくて、身体感覚としてもう問答無用みたいになっちゃうところはありますね。

「怒る時は日本語」(感情的な言語)

基本的にドイツ語の会話って喧嘩をするときも、理性的にやらないといけないと言うルールがあって、感情的になっちゃいけないんです。一方で、
日本語ってすごく感情豊かな言語だと僕は思っていて、日本語の感覚でドイツ語で怒ると感情がモロにドイツ語に流れ込んで、ドイツ語の世界に生きている子供たちからすると違和感絶大なんですよ。なんでそんなすごい剣幕になるんだ?って。日本語だとそもそも感情を入れやすいから、逆にそんな剣幕にならないんだけど、ドイツ語だと思い通りに伝わらないもどかしさもあったりして、余計声に力が入っちゃって。ますます向こうは引いていく一方。だから怒る時は日本語の方が全然いいなと。それでもついついちゃんとわからそうと思ってドイツ語にするんですけど、頭でわかっても心で
伝わらないんですよね。だからそれなら日本語で怒って、お父さんが何を言っているのかパーフェクトに分からなくても、何となく、お父さんこのこと怒ってるなと。心はそっちの方が伝わるんです。

「スキンシップ」(動物的なあたたかさ)

ドイツも地域差はあるのかもしれないけれど、北ドイツって、あまりスキンシップがないんです。でも僕は結構子どもとはベタベタで、14 歳の息子も 17 歳の娘も今でも普通にハグしてきます、自然に。それは子供の頃からスキンシップを大事にしてきたと言うのがなんかあるかなと。それはお父さんとしてちょっと誇らしいですね。また、僕は動物的な温かさみたいなものをいいなと思うので、子供が小さかった頃も猿の親子の真似などして一緒に遊んでいました。でも、ヨーロピアンな人間の自己理解って、動物とすごく区別された存在で、「動物」って悪口なんですよね。日本的な感覚だと、そんなに動物と分断されていないというか、どこか繋がっている気がします。僕はクリスチャンなんだけど、動物との近さという感じ、そういう日本人的な感覚はすごく持っていると思います。

子どもたちには外の世界とコネクトして日本を深く知ってほしい

子どもたちには日本をより深く知って、日本のカルチャーや価値観も身につけてほしいと思っている。そのために日本へ行く時は、ドイツとは全く違う価値観のもとに成り立っている社会があることを経験させることを意識している。いずれはもっとどっぷり日本に浸かる、半年とか 1 年の長期に渡って日本で生活し、周りの人とも人間関係を作れるような経験をさせたいと思っている。

「家族で日本に帰るとき、子どもが小さい時は毎日何かさせるための
プログラムは親が考えます。もう少し大きくなると、子どもたちも 1 人でセブンイレブンくらいまでならお買い物に行けるようになったりして、
だんだん自分で行動できる距離が伸びていく。それでも基本的に
コネクトする外の世界がない。大きくなってくると親といても満たされないものがあるから、そこが問題になってきたりしてしまう。そこでこの春、
娘と息子の 2 人を連れて日本に帰ったんですけど、娘は地元の小学校に入り、同い年の子とたくさん遊び、いっぱい友達ができ、外の世界ができた。
息子も蕎麦屋さんに蕎麦打ちを習いに通って、外の世界ができてすごくポジティブだった。自分が常に子供と一緒にいてあげる必要がない、子供が直接日本の社会にアクセスでき、つながることができるという、子供自身にとっても僕にとってもすごく自信につながる経験になりました。日本に行けるという自信。」

ベルリンの自宅。5人の子どもたちが全員揃うのは稀。

ありのままでいること

マコトさんの子どもたちに日本の文化や価値観を吸収してほしいという思いは、日本人から見て日本人らしくなってほしいということではなく、子どもたちのアイデンティティの一部、しかも良いと思える差異として自分の中の日本を認め、生かせるようになってほしいということだと筆者は思う。それは、マコトさん自身の日本とドイツが共存するアイデンティティーと自分を取り囲む環境や状況によってそのアイデンティティーを使い分けてきた、複雑で時には苦悩も多かった経験に基づく前向きな願い。そして、マコトさん自身も、「分ける」ことをやめてありのままでいることがどんどん大事になってきていると語る。

「いろんなことを分けることをたくさしてきたからこそ、分けないことの価値をいろんなところで見出しつつあって、なるべく分けない。文化的な意味でも、自分のありのまま。つまりドイツ語の文脈の中だったらドイツ人らしく振る舞うのかって言ったら、そうではなくて、ドイツの中では明らかに異質な日本的なものを必ず持ち込む。そして、日本語で話す時は、日本語だったら普通はこういう表現をするとかこういう振る舞いをするという時に、いや僕は、ずっとこっちで生活してきて身につけているドイツ的なものもあるので、それはそれで分けないでそれも出す。相手に違和感を与えてもいい。そういう方向に変わってきた気がします。」

2022年9月29日インタビュー実施

<本人による付記>

人には、一人一人、歴史があります。移民もまたそうです。
このインタビューによって、自分自身を振り返り、見つめ直すことができたように思います。インタビューをして、記事にまとめてくださった片岡真理子さんに深く感謝します。深いエンパシーがなければ、僕の取り留めもない長い話をこんなふうにまとめられなかったと思います。
僕の場合、アイデンティティをめぐる試行錯誤や考察はきっと終わらないように思います。ただ、一つだけ、よりはっきり分かってきたことがあります。それは、子ども時代にドイツで生活する中で、日本語を学習させようという懸命な努力を母が払わなかったとしたら、今の僕はないということです。そして、僕が子どもだったときに、家族を連れて渡独するという勇気ある決断を父がしなかったら、またその5年後に日本に戻るという決断を父がしなかったら、やはり今の僕はいない、ということです。
僕の人生における「移動史」は、僕の人生に輪郭を与えているものと言えます。このことが、前の妻を含め、家族に対して大きな影響を及ぼしていることに、謙って、深く、思いを致します。

*このインタビューは、2022年度東芝国際交流財団助成プログラムのこれからの日本研究および
対日関係を担う人材を養成する事業として支援を受け実現したプロジェクトです。



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