見出し画像

三津田信三『わざと忌み家を建てて棲む』を精読する(1)

三津田信三『わざと忌み家を建てて棲む』は2017年に中央公論新社から書き下ろしで刊行された長編小説です。ジャンルとしてはホラーミステリに相当します。三津田氏のホラーは大好きで、全作読破にはほど遠いとはいえそれなりの冊数を読んできたのですが、本作の怖さはピカイチです。その魅力を紹介するべく、本稿では精読を試みます。

(1)作品梗概と本稿の問題意識

本作の構成は、著者とおぼしい作家とホラー好きの知人編集者・三間坂が、過去の怪異の記録を入手し、読み解いてゆくというものです。怪異の舞台となるのは〈烏合邸〉という、曰く付きの住宅を数軒移設して合体させた家。ある資産家が造らせたもので、資産家はここに住人を住まわせたり学究に調査させたりしたようです。資産家の関係者を名乗る奇妙な人物がこの烏合邸に関する書簡を三間坂の親類に持ち込み、関心を持った三間坂が散発的に、住人や学究が残した記録を発見して作家に持ち込む、というプロットになっています。最終的に、作家はこの家に隠された忌々しい秘密に思い至り、自身の推理と過去の記録を公刊して情報を集めることにする、というところで話は終わります。本作はいわば「実話」の体裁を採っていることになります。

作家は家の秘密を推理していますが、肉薄に至っていない謎が多く残されているのが本作の特徴です。作者はこの点に自覚的で、「小説丸」掲載の「インタビュー 三津田信三 『わざと忌み家を建てて棲む』」にて〈烏合邸全体を通して、事件の全容など詳しい背景は、あえて描いていません。(…)全部は書かずに、謎のまま放置している部分があります。こういった、いい具合に放りっぱなしの感じが、恐怖を高めるためには必要だと考えています〉と述べています。私など、ものの見事にひっかかって、怖がっているわけです。

放置されている謎の一つに、烏合邸がいつの時代に存在したのか? という問題があります。作家と三間坂は、烏合邸への関心から、記録の執筆年代を推測しようと試みているのですが、ついによくわからないまま話が終わっているのです。発見された記録は「黒い部屋 ある母と子の日記」「白い屋敷 作家志望者の手記」「赤い医院 某女子大生の録音」「青い邸宅 超心理学者の記録」の四編で、このうち「黒い部屋」と「白い屋敷」の二編は同時期のものであることが確定しています。当初、三間坂は〈年代を特定できる記述がないんです。それでも戦前ではないことは、まず間違いありません。かといって平成でもないでしょう。あくまでも推測ですが、昭和の後半って感じがします〉と述べていたのですが、作家が最初の二編を読んだ結果、もう少し詳しい推理が展開されることになります。

推理の論点は次の二点です。まず「白い屋敷」で作家志望の青年が古書店で池田弥三郎『日本の幽霊』(昭和34年刊)を購入し、〈古本とはいえ汚れておらず綺麗である〉と述べていること。次に、「黒い部屋」で貧乏な母子家庭の子供が、資産家に〈カラーテレビ〉(1960年放送開始、1972年に白黒テレビと普及率が逆転)を用意されて〈大喜び〉していること。このことから、二つの記録が書かれた時期は、〈昭和四十年から五十年の間〉で、ただしカラーテレビの根拠が弱いので〈昭和三十五年から〉としてもよいだろう、という話になります。

本作を何度か読んでいるうちに私は、重要な謎である「記録の執筆年」を、もう少し詳しく考えることができるのではないかと気づきました。本稿では、基本的にはそのまま活字化されているという当時の記録をもとに、文中に現れる事物から、記録の執筆年代を推定してみたいと思います。ネタバレを避けるという観点から、内容を詳述せず、あくまで「時代考証」を目的に進めていくつもりです。各段落ごとに山括弧で本文を示し、「▶」以後に分析を記します。

(2)「黒い部屋」

「黒い部屋」は、経済的に困窮しているとおぼしい母子家庭が、団地の一室をそのまま移設した部屋に住んだ際の日記です。日中、母親は町の商店に勤務し、未就学児の子供は部屋や近隣で遊んでいます。

〈小学生のとき夏休みの宿題で出た、絵日記は別〉(p38)▶児童教育で絵日記が用いられはじめた時期はよくわかりませんので、国立国会図書館デジタルコレクション(以下「デジコレ」)を使ってみます。同館がデジタル化した文献の題目や一部の本文を検索することができるサービスです。「絵日記 夏休」で検索しますと、『少年倶樂部』(昭和13年8月号)に「たのしい夏休みの繪日記 」(野村芳兵衞、大槻さだを)という記事があり、また『一年生と共に学ぶ母の読本 上』(照林堂、昭和17年) の夏休みの条に「繪日記の指導」が挙げられていますから、作中で問題となる年代からいうとかなり古いものでしょう。母親の生まれ年を推定するのは難しそうです。

〈私たちは入ったのは、団地の一室だったらしい部屋です〉(同)▶『日本大百科全書』「団地」(小川正光)によると、団地は戦後の住宅難を解消するために日本住宅公団が昭和30年から建設をはじめたものです。

〈息子はカラーテレビに大喜び〉(p39)▶作中で述べられているとおり、カラーテレビは昭和35年放送開始。ただしいつまで「カラーテレビ」という言い方をわざわざしていたのか、には注意を要します。白黒テレビが一般的だからこそ、白黒テレビを意味する「テレビ」と差異化するためにこういう言い方になるわけです。デジコレで「カラーテレビ」の用例を調査すると、件数は以下の通りです。

画像1

ピークは1960年代で884件。放送開始の1960年に一度盛り上がり、普及してゆく60年代末に再度件数が増加します。70年代に入ると、71年には百件を割り、以後、どんどん減少してゆくのがわかります。普及率が白黒と逆転することで、わざわざ「カラーテレビ」と言わなくてもよくなっていったのです。ただしもちろん、それ以後まったく日用されなくなった、とはいえません。

〈蚊取り線香を焚いている〉(p40)▶蚊取り線香はもともと「蚊遣」と言っていたもので、いつ言い方が変わったのか、いちおう調べておきましょう。調査で判明した最古の用例を掲載することで有名な『日本国語大辞典 第二版』(以下『日国』)の「蚊取り線香」の項目には、〈*ふゆくさ〔1925〕〈土屋文明〉左千夫先生逝去「あるがままの蚊取線香を上げたれば落ちてたまれる虫のかなしさ」〉という用例が出ており、大正末年ごろだということがわかりました。まあ本稿の役には立ちませんでしたが、気になった語は片端から調べるのが大事なのです。

〈ミニバイクは、非常に重宝しております〉(同)▶ミニバイクというのは原動機付き自転車、いわゆる原付です。『大衆文化事典』「原付スクーター」(大月隆寛)によると、女性層に普及したのは1970年代後半のこと。「デジコレ」の「ミニバイク」最古の用例は『週刊サンケイ』21巻52号(1972年)掲載の記事「ミニバイクのつくり方 」になっていますが、その次は1977年に飛んでしまいます。大部分は1978年から1993年に用例が集中していますから、この時期の言葉とみていいでしょう。

〈ビニールが焼けているような臭い〉(p45)▶『日国』の「ビニール」の初出用例は〈*風ふたたび〔1951〕〈永井龍男〉野分かな「傘をあずけ、ビニールのコートを脱いで」〉ですが、これは衣料の材質。日用品としての用例は〈*人間の壁〔1957~59〕〈石川達三〉上・学級経営「化粧品を入れたビニールの小袋をとりだし」〉というのが出ています。また朝日新聞記事検索サービス「聞蔵Ⅱビジュアル」で調べると、1951年7月17日 東京朝刊に「流行のビニール手芸 シャレたアクセサリー」という記事があることもわかりました。「デジコレ」だともう少し古いのも出てくるのですが、いずれも工業雑誌ですから専門語です。加うるに、注目すべき新聞記事として「朝日新聞」1969年7月 23日東京夕刊に「ビニール公害」という論説が載っています。ビニールは焼却すると有害物質が出るので処理が難しく、そのため都市部の海にはそのまま投棄されている、という内容です。このころには、ビニールを燃やすとよくない、ということが認識されていたようです。本文の〈ビニールが焼けているような臭い〉とは臭気を感じたという文脈で出てきますが、これは時代性を帯びた表現だといえそうです。

〈今日は仕事がおやすみなので〉(p46)▶『日本大百科全書』「週休制」(湯浅良雄)によると、国内の週休二日制は1960年頃にはじまり、大企業では70年代初頭に普及しました。作中、母親は町の商店に勤務していますが、日記の日付を見ると必ず同じ曜日に休暇があります。週に一度、決まった曜日に休日があったつまりまだ週休一日制であるようなのです。町の商店レベルまで週休二日制が定着したのはいつごろなのかは、残念ながらよくわかりません。Wikipediaの「半ドン」「休日」等の項目には1980年代だと書かれています。いずれの項目にも出典が書いてないのが残念ですが、そういえば藤子不二雄(現・藤子・F・不二雄)の漫画『ドラえもん』に、パパが週休二日制になったのを喜ぶという話が出てきたのを思い出しました。調べると『小学五年生』1984年9月号掲載の「ドラえもんに休日を!!」だと判明しましたから、80年代ということでいちおう問題なさそうです。ただし、作中の母親はこの町に一時的に住んでいるにすぎず、仕事も資産家から斡旋されたものです。正社員ではない可能性があり、となると、週休一日というのは社員の待遇ではなく、むしろできるだけたくさんシフトを希望した結果、ということにもなりそうです。

〈お花を活けました。花瓶がないのでジュースの缶です〉(p55)▶「デジコレ」で「缶」と「ジュース」が共起する用例を調べますと、1950年代末から業界誌や学界誌でオレンジジュースやトマトジュースを缶詰にする技術が議論されています。なかなか一般メディアでの用例が見つからないのですが、「朝日新聞」1966年3月11日 東京朝刊に「カン入りジュース中毒は水質に原因 厚生省 製造基準改正へ」という記事が出ており、以後類似の報道が散見されますから、この時期には普及していたと見られます。

〈武島さんとトラブルがあったのですか〉(p60)▶日常会話で「トラブル」という外来語を使うようになったのはいつなんだろうかと気になって「日国」を引いてみますと、〈*外来語辞典〔1914〕〈勝屋英造〉「ツラブルTrouble (英)面倒。苦労。悶着」〉というのがあり、大正期の新語だったことがわかりました。意外と古いんですね。

〈割れ物を包むエアーキャップを「プチプチ」って言いますよね〉(p62)▶「プチプチ」は川上産業株式会社の登録商標です。一般名詞ではないということを母親が知っていたかどうかはわかりませんが、商品名として定着していたことは間違いありません。Webメディア「ねとらぼ」が同社に取材した記事「ついやってしまう「プチプチつぶし」、始まったのは1970年代? 老舗メーカーに聞いた気泡緩衝材“プチプチ”の歴史」によると、同社の創業は1968年。創業者の川上聰が独自の技術で開発した気泡緩衝材を販売する会社だったようで、当時は「エア・バッグ」という名称でした。読んでいくと〈2代目社長・川上肇がユニークな感性の人物でして、「プチプチ」と名付けました。それで、1994年に商標登録して、商品名に使うことになりました〉とのことで、ちょっと雲行きがあやしくなってきました。同社HPに掲載されている当人のエッセイ「肇卒業エッセイ(下)」(2019年7月16日掲載)によると、入社したのは40年前とあります。だいたいの数字だとしても、1980年頃というわけです。同ページにある「肇卒業エッセイ(上)」(2019年7月02日掲載)には現在63歳だという話も出ていますから、大卒後に入社したとすると計算が合います。どのタイミングで「プチプチ」の名称を考案したのかは不明ですが、1980年以後なのは間違いありません。

〈インターホンを押しても応答がありません〉(p70)▶インターホンってたいへん新しいものではないのかという気がしたんですが、『日国』を引きますと〈*新らしい言葉の字引〔1918〕〈服部嘉香・植原路郎〉「インターフォーンInterphone (英)自働交換式小型室内電話機」〉というのが出てきました。日国は各時代の新語辞典を積極的に調査しているので助かります。これも「トラブル」同様に大正期の新語だったんですね。

〈あれって妖怪なの〉(p72)▶「妖怪」の語は1960年代に水木しげるが売れっ子になるまでは一部の好事家しか知らない言葉だった、という話をときおり見るのですが、これは噓でしょう。「デジコレ」を引けば、児童書や通俗書にいくらでも水木しげる以前の用例が見つかります。

以上、「黒い部屋」の記述に注釈をつけてみました。まとめてみると以下のようになります。

三津田⑥

整理してみます。「黒い部屋」の執筆時期を推定するヒントのうち、最新のものは「プチプチ」で、早くとも1980年頃以降です。実際にはもっと後であった可能性も高いと考えられます。次に、週休一日の件ですが、前述の通り、雇用形態が不明のため、実質的には考慮に入れることができません。作中でも根拠薄弱とされている「カラーテレビ」ですが、これはいつまで日用されていたのか、特定することができる性質のものではないのが残念です。1980年代にもなってわざわざ「カラーテレビ」と表現するのはさすがに、現実的には無理があるとは思います。しかし「プチプチ」の件がある以上、作中で遅くとも1975(昭和50)年とされているのは、もう少し遅く見積もるべきではないでしょうか。

次に、早くともいつごろか、という点です。作中では1960(昭和35)年以降と推定されていますが、「ミニバイク」の登場が1972(昭和47)年頃ですから、それ以後です。

すなわち、作中で作家が推定している、1960(昭和35)から1975(昭和50)年という数字は、誤りである可能性が高いのです。実際には、1970年代前半から1980年代にかけて、和暦でいうと昭和45年頃から昭和50年後半、あるいはもっとあとでもありうる、と考えるのが妥当ではないでしょうか。作家の推理よりももっと新しいのです。厳密には、遅くとも何年頃か、ということは現段階ではいうことができません。

次回は「白い屋敷」の記述を分析してみます。今回の分析だけでははっきりしなかった部分も、あるいはみえてくるものがあるかもしれません。

2020.6.14追記:結論部で「1970年代前半から1980年代にかけて」と書いてしまいましたが、「プチプチ」の件を考えると、あまり論理的な記述ではなくなっていますね。「カラーテレビ」の件が念頭にあり、「プチプチ」が商品名になるまえに世間で言われていた可能性はないか、などと考えていたのですが、文章に反映させるのを忘れたままUPしていました。このへんは、次回補足したいと思います。


この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,537件

#読書感想文

189,937件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?